遠野郷中世城館録

奥州陸奥国遠野(岩手県遠野市及び周辺地域)の城館跡の探訪調査記録のご紹介

松崎館

2010-12-29 09:03:57 | 松崎

 

 

概 要

 松崎館は松崎町松崎、上松崎地内の猿ヶ石川沿いの山野に立地する山城跡である。

 館は本郭である松崎館と山野続きの東部分に二の郭的な東郭との二郭で構成されている。

 本郭は主郭たる山頂平場が南側に小さめの帯郭的段差が5段程度展開され、その下部及び東斜面は急斜面となっている。

 また西側は隣接山野との谷となっているが、こちらも急斜面となっており大手口は西側と推測される。

 頂部平場の背後、北側は土塁が施され、北側からの尾根は5本の堀切で切断され、背後の守りを吟味して各空堀が複雑に交差する様は見応えがありますが、土砂の堆積やら風化が激しく、早急な保全やら保護が必要と思われる。

 

 北面も斜面には忍峠付近の沢から水路を引いた跡が残されている。

 さらに北面斜面から東側に転じると二の郭たる東郭に通じ、東郭は二重の堀切、空堀で周囲を守り、東側斜面には3~4段程度の帯郭が配置されている。

 

 

 

西側斜面を下る空堀跡

 

南側の帯郭

 

主郭平場

 

堀切跡

斜面を下る空堀跡

 

東郭の堀切

東側を下る東郭の空堀

 

歴史等

  館主は松崎監物と伝えられ、天正年間~慶長6年と云われている。

 松崎監物は慶長5年(1600)、最上の陣にて南部利直の要請に応じた主家、阿曽沼広長(遠野横田城主)の配下として最上へ出陣したが、その帰途に遠野では謀反が勃発して、主人である阿曽沼広長の遠野入りが叶わず、広長に従って伊達領の気仙郡世田米に亡命したとされる。

 阿曽沼広長の遠野奪還戦は慶長6年(1601)春から晩秋にかけて3度行われたが、いずれも失敗に終わり、阿曽沼広長は伊達領に身を寄せますが、松崎氏は遠野奪還戦2度目となる赤羽根峠の戦いに出陣し、遠野奪還に燃え、大いに奮戦するも乱戦の中、討死と伝えられている。

 阿曽沼広長の股肱の臣、興光寺氏と共に広長の忠臣であったと云われている。

 主人が居ない松崎館は遠野を制圧した鱒沢氏、上野氏の軍勢に攻められ落城とも伝えられますが、松崎氏縁の人々は、伊達領の人となりその後、気仙沼に健在とのことである・・・確認はしておりません。

 後に寛永年間に八戸氏が遠野に入部、遠野南部氏時代となりますが、その初めの部分は八戸氏の家老級である比巻沢氏が館主となり松崎大学を名乗ったと伝えられますが、その松崎氏は後継がなく断絶となり、松崎館の存在価値も自然に消滅といったところかと思います。

 

 麓には阿曽沼時代の開基された天台宗の養安寺があったといわれ、八戸氏が遠野へ入ると養安寺跡には善明寺が一時入ったとされている。

 

 


八幡館・八幡太郎伝説と駒木氏

2009-12-23 17:35:24 | 松崎

 

 

 

 

概要

 高楢山から続く山野の南西側突端、小烏瀬川沿いに築かれた山城である。

 遠野市松崎町と土淵町との境、県道土淵~達曽部線沿い山野の松崎側、駒木地区海上地内に館跡は残されている。

 館跡は中央部分が窪んだ形状で小烏瀬川沿いの高台が主郭とみられ、北東側山野、八幡座山からの続きの尾根部分に一重の空堀、土塁を配し、館内中央部に向っての斜面に3段の帯郭がみられる。

 こちら部分は二の郭の可能性が高い。

 

 南西端の高台、すなわち主郭は小烏瀬川へ落ち込む断崖と西部分は急傾斜地で、北側斜面は中央部に向って3段の帯郭が展開されている。

 頂部平場には現在、稲荷社が祀られている。

 中央部は3段の平場がみられるが、かつての馬場跡、さらに下部の県道付近の斜面は虎口跡と考察されている。

 

 館域の北側は沢で隔てられているが、沢を隔てた山野の県道沿い斜面上方はなだらかな平場が続いており、この部分も館との関連性があるのではと推測しております。

 この方面の山止まりは八幡沢といわれる沢でさらに隣接山野と区切られているが、高台には八幡社が祀られている。

 

中央下部の段差・・・馬場跡といわれる 

 

空堀(竪堀)跡

 

二の郭部分、土塁と空堀跡

 

二の郭内部の帯郭

 

 

主郭部分帯郭

 

主郭より中央下部を望む

 

歴史等

○八幡太郎義家伝説の地

 岩手県地方でいう安部時代、前九年合戦での伝説が残されている地でもある。

 衣川の戦いで源氏、清原の連合軍に敗れた安倍軍は、各地の拠点を失い北の厨川の柵(盛岡市)を目指して落ちて行ったとされる。

 八幡館至近の小烏瀬川を隔てた土淵町には北浦六郎家任(安倍家任)(安倍重任ともいわれる)縁の屋敷があったと伝承され、敗残の兵をまとめた安倍貞任は遠野へ至るも追討の源氏軍、八幡太郎(源義家)に追いつかれ、小烏瀬川近在で合戦に及んだと語られる。

 この時、八幡太郎が陣を張った場所を後に八幡座山と呼び、またこれらちなむ沢を八幡沢と地元では呼んでいる。

 八幡沢、八幡座ともに「はちまんざ」と同音で呼称しているが方言では「はちまんじゃ」と呼んでいる。

 後に義家の家臣の井手某が八幡神社を創健と伝えられる。

 

○本姓菊池駒木氏の居館

 遠野阿曽沼時代、天正の頃、菊池豊前広道が八幡館に居て、駒木地方全域(現松崎町駒木)と安居台(附馬牛町の一部)を知行していたといわれる。(500石余)

 菊池豊前は在名から駒木氏を名乗り、駒木豊前広道、嫡子は駒木隼人広三の2代の居館であった。

 慶長5年(1600)、阿曽沼広長が遠野を追われ、南部利直が遠野を掌握すると南部利直より旧領350石を安堵される。

 後に八戸根城から八戸直義(遠野南部家)が寛永4年(1627)に遠野へ入部となる前に南部利直の命により駒木隼人広三は遠野を離れ、その家系は代々南部藩士として命脈を伝えている。

 (遠野南部家臣の駒木氏も確認できるが八幡館の駒木氏との関連性は調査していないため不明である)

 

 なお、北東山野約1キロ付近に伝承の館「駒木館」が残されているが、館主を駒木氏と伝えられ、本姓菊池の駒木氏との関連は不明である。

 一説には駒木館の駒木氏は細越一族とも考察されますが、こちらも不明である。


興光寺館・主家に殉じた忠義の一族

2009-11-25 15:54:29 | 松崎

 

 

概要

 高清水山から南東に延びる尾根の先端部、猿ヶ石川及び国道283号線遠野バイパス沿いにある山野に位置している。

 東、西、南側は急な斜面となっており、西側は隣接山野との谷、南側は上部に5、6段の平場が展開しており、下部付近は急傾斜地となっている。

 東側は上部斜面に空堀跡がみられ東斜面を下っている。

 主郭は山頂部分を削平して平場と成した場所であるが背後の北側には山野続きの尾根を二重の堀切で断ち切っている。

 堀跡は西側の谷に一本は落ち込み、内側の堀は西斜面を巻くように南側へ下っている。

 途中から帯郭的平場と思われる狭い平場に形状変化しているが、かつては空堀だったものと思われる。

 全体的にこじんまりとまとまった館跡であるが、伝えによればさらに奥部の高い山野は見張台として活用され、また西側の隣接山野も館の一部であったといわれるが確認等はできなかった。

 

 

 

西側の平場(空堀跡)

 

主郭背部(北側)の堀切跡

 

主郭側の空堀と土塁跡

 

奥部の堀切跡

 

北側尾根から主郭側

 

館主・興光寺氏

 館主を興光寺靭負(こうこうじゆきいえ)と伝えられ、天正~慶長年間はじめに活躍した人物とみられる。

 館の歴史を調べた先人郷土史家の資料によると、興光寺氏は安部時代からこの地にあった安倍一族の家臣で産鉄に関わりある一族であったと考察されますが、出典は東日流外三郡誌とあるので、信ぴょう性は問われそうでもある。

 ただ、光興寺地区には産鉄に関わったと思われる鉄穴流の跡や金ヶ沢の地名もあり、何かしら関係はあったものかもしれません。

 いずれその出目については不明である。

 

 慶長5年、主家である阿曽沼広長は太守、南部利直の命で上杉景勝攻めの為、南部勢旗下として最上に出陣する。

 この時、興光寺靭負は松崎館の松崎監物と共に一方の侍大将として出陣したと伝えられる。

 阿曽沼広長が遠野を留守にした間、阿曽沼一族で重臣の鱒沢左馬介広勝(鱒沢館主)と広長の叔父である上野右近広吉、同じく家臣の平清水駿河景頼が謀反し横田城(鍋倉城)を制圧したとされる。(遠野騒動)

 最上の陣から遠野へ帰参する阿曽沼広長は江刺郡境の五輪峠で伏兵のため、遠野入りが叶わず、気仙郡世田米の舅、世田米修理広久(阿曽沼広久)の許へ亡命する。

 この時、興光寺靭負も広長と行動を共にして世田米へ落ちたといわれる。

 この後、気仙郡を領する伊達政宗の後援を受けて阿曽沼広長は3度の遠野奪還戦を挑んだが、その2回目の戦い、赤羽根峠の戦いで興光寺靭負は奮戦及ばす、松崎監物と共に討死と伝えられる。

 結局、阿曽沼氏の遠野奪還は成らなかった。

 興光寺館に居た興光寺靭負の家族や一族がその後どのような運命を辿ったかは全く伝えられていない。

 

 いずれ、勝者によって敗者の歴史は葬られただろうと思いますが、それでも阿曽沼氏の忠臣、興光寺靭負の名のみは後世に伝えられている。

 


横田城(阿曽沼主家の牙城)

2009-11-11 12:51:58 | 松崎

標高315メートル・比高55メートル

東西約300メートル・南北約200メートル・・・山城

 

前景

 

城館の概要

 横田城は別名、護摩堂館とも呼ばれ、中世遠野領主であった阿曽沼氏歴代の居城であった。

 築年代は不明であるが、伝承によれば建保年間(1213~1219)の鎌倉時代と伝えられる。

 源頼朝により奥州平泉の藤原氏が征討され(文治5年・1189)この戦いで戦功があった下野国佐野の御家人、阿曽沼広綱がその恩賞として遠野郷を賜ったのが最初といわれますが、横田城は広綱の次男、阿曽沼親綱が築いたとされている。

 

 城は背後の高清水山から流れる鶴音山の山麓の台地に築かれ、前面は猿ケ石川を天然の堀となし、東西は沢に囲まれており、扇状の形である。

 北側の背面や沢に隣接した陸地続きの部分は幅広な空堀で区切られ、前面である南側斜面は3~4段の平場が展開されており、現在集落墓地、農地となっている場所も防御上必要な段差があった形跡が認められる。

 また東側の沢は深き自然の沢であるが、陸地続きの城側斜面には土塁が確認でき、西側の沢は、かつては水堀だった可能性を秘めている。

 主郭は現在薬師堂が祀られている場所とされている。

 背後の空堀には土橋も認められるも、城が機能していた時代のものか近年に作られたものかは不明である。

 天正年間(1573)遠野阿曽沼第13代と語られる阿曽沼広郷(遠野孫次郎)は、度重なる猿ヶ石川の氾濫等に苦慮し、鍋倉山に新城を普請し移り、遠野阿曽沼氏歴代の主城としての役目を終えたとしている。

 

主郭部分

 

主郭南東側の段差

 

北側の空堀(堀切)

空堀跡中央部分は土橋で区切られている。

 

 

 

東側沢方面の土塁跡

 

 

 

 

西側の沢・・・現農地

かつては水堀だった可能性がある(湿地による)

 

簡略図

 

作図・管理人

使用写真は2007年2月に撮影

 

 

歴史考察等

 阿曽沼広綱は伝承や先人郷土史家達の見解によると、本国下野国にあって遠野郷は重臣の宇夫方氏を派遣しての遠隔統治だったとしている。

 また、鎌倉時代に築かれたという横田城、複数回の探訪による印象では、残される遺構等の状況から少なくても鎌倉時代に築かれた城とは思えない。

 さらに伝承では、松崎町駒木には阿曽沼館と呼ばれる平城(館)が残され、遠野代官の宇夫方氏が当初の館として居たと考察されている。

 その後、宇夫方氏は綾織の谷地館に平城(館)を築き一族が移り住んだともいわれている。

 その間に横田城が築かれ主家の阿曽沼一族が下向して横田城に移り住んだかのような伝承されておりますが、大方の見解ではまだ下野本国から主家一族が本格下向していない見解が主流で、南北朝時代或いはその直後とする考察が一般化しております。

 

 駒木の阿曽沼館から綾織谷地館に居を移した宇夫方氏は、下野国本国から主家阿曽沼氏の庶流一族の誰かが遠野代官として下向したことにより、谷地館へ移動し、駒木の阿曽沼館は、そのまま代官職の阿曽沼庶流の者が政庁として使っていたと小生は考えております。

 横田城の築城は、本国から主家一族が本格的に下向した際に築かれた城ではないのかと推測しております。