概要
遠野市小友町の地区センター、小中学校の南側山野にあり、長野川と鷹鳥屋川の合流点に向かって東から西に延びた丘陵の突端頂部に主郭が形成され、南、西、北の各斜面には4段~7段の帯郭的な階段状の平場が配置されている。
南、北の斜面は急斜面となっており、山頂の東部分の尾根は3本の堀切で立ち切られ、南北の斜面にそれぞれ空堀となって下っている。
西斜面は7段の平場が展開されている。
頂部の平坦地は3箇所確認でき、西端部分の平場が最も広くなっている。
さらに東方向に向かって2~3段の段差及び土塁が施され堀切に至たり、さらに緩やかな斜面を削平しての平坦地、そして土塁、堀切と連続した構成となっている。
なお、麓部分にも若干の段差がみられるが近世においての遠野南部家臣の及川氏の館跡とされ、「及川館」と呼ばれている。
南斜面の段差
山頂平場(西端)
北側斜面の段差
平坦地背後の段差
堀切
堀切は三重となっている。
歴史等
館主は本姓を菊池喜左衛門、地名から奥友喜左衛門とも小友喜左衛門とも伝えられている。
戦国時代末期から慶長年間の人と思われ、遠野阿曽沼氏が没落し、南部利直に仕えたともいわれますが、慶長19年、大阪冬の陣において徳川方の南部利直に従った遠野勢156人のうち小友喜左衛門は15人を引き連れて参陣しており、一地域における実力者であったことが伺えます。
また小友地方は気仙郡、江刺郡と隣接しており、これらの地域からの金山地帯が続いている地域で、遠野における最も栄えた産金地帯であり、交通、軍事のみならず経済も含み最重要拠点であったことは確かで奥友館の位置付けも極めて重要であったものと推測されます。
後の江戸時代には、産金でさらに栄え宿場町が形成されるなど、産金に関わる伝記等も多い。
館主の小友喜左衛門は大阪の陣から戻ると奥友館は葛西浪人であった及川氏に奪われ遠野城下に住まいしたともいわれるが、太守南部利直による阿曽沼旧臣達を追いやるための策謀とも語られますが真相は不明である。