遠野郷中世城館録

奥州陸奥国遠野(岩手県遠野市及び周辺地域)の城館跡の探訪調査記録のご紹介

奥友館 (小友館) 

2010-12-16 18:10:01 | 小友

 

概要

  遠野市小友町の地区センター、小中学校の南側山野にあり、長野川と鷹鳥屋川の合流点に向かって東から西に延びた丘陵の突端頂部に主郭が形成され、南、西、北の各斜面には4段~7段の帯郭的な階段状の平場が配置されている。

 南、北の斜面は急斜面となっており、山頂の東部分の尾根は3本の堀切で立ち切られ、南北の斜面にそれぞれ空堀となって下っている。

 西斜面は7段の平場が展開されている。

 頂部の平坦地は3箇所確認でき、西端部分の平場が最も広くなっている。

 さらに東方向に向かって2~3段の段差及び土塁が施され堀切に至たり、さらに緩やかな斜面を削平しての平坦地、そして土塁、堀切と連続した構成となっている。

 なお、麓部分にも若干の段差がみられるが近世においての遠野南部家臣の及川氏の館跡とされ、「及川館」と呼ばれている。

 

南斜面の段差

 

山頂平場(西端)

 

北側斜面の段差

 

平坦地背後の段差

 

堀切

堀切は三重となっている。

 

歴史等

 館主は本姓を菊池喜左衛門、地名から奥友喜左衛門とも小友喜左衛門とも伝えられている。

 戦国時代末期から慶長年間の人と思われ、遠野阿曽沼氏が没落し、南部利直に仕えたともいわれますが、慶長19年、大阪冬の陣において徳川方の南部利直に従った遠野勢156人のうち小友喜左衛門は15人を引き連れて参陣しており、一地域における実力者であったことが伺えます。

 また小友地方は気仙郡、江刺郡と隣接しており、これらの地域からの金山地帯が続いている地域で、遠野における最も栄えた産金地帯であり、交通、軍事のみならず経済も含み最重要拠点であったことは確かで奥友館の位置付けも極めて重要であったものと推測されます。

 後の江戸時代には、産金でさらに栄え宿場町が形成されるなど、産金に関わる伝記等も多い。

 館主の小友喜左衛門は大阪の陣から戻ると奥友館は葛西浪人であった及川氏に奪われ遠野城下に住まいしたともいわれるが、太守南部利直による阿曽沼旧臣達を追いやるための策謀とも語られますが真相は不明である。

 


南館

2010-12-04 17:41:34 | 小友

 

概要

 東側山野の突端部分に北側から南側にかけて空堀で周囲を囲み、下部部分は北側には数段の帯郭的平場を配し、西側部分急傾斜となっており上部に虎口跡と思われる痕跡が確認でき、東部分は、なだらかな丘陵となっており、数段の帯廓跡がみられる。

 

 

主郭付近

 

東側から主郭を望む

 

西側虎口跡

 

北側空堀

 

館の歴史等

 館主を南 右近(阿曽沼氏家臣)と伝えられる。

 遠野の古刹、臨済宗東禅寺の末寺と云われる小友町の常楽寺は、創建当時の草庵は此処南館の一角にあったと伝えられている。

 常楽寺の開基が1417年と云われ、その前後に築館或いは使用されていた館であろうという見解が示されているが、おそらくその年代辺りであると推測される。

 南 右近なる武将及び南館の事績は不明であり、多くは伝えられていないが、同町の西側に駒木左近なる武将が居て(香木館或いは駒木館)南右近と並び称される館主であったと口伝されるのみである。


鷹鳥屋館・鷹飼い伝承の館

2010-01-11 10:29:08 | 小友

 

 

概要

 遠野市小友町鷹鳥屋地区、旧鷹鳥屋小学校跡の北方山野に館跡は残されている。

 旧小学校敷地もその一部とみられますが、校庭等も含む校舎建設に伴い削平された経緯があり、こちら部分の遺構等がどのようなものであったかは知ることはできない。

 主郭は現在天神様が祀られている社部分で背後は二重の堀切で山野を断ち切り、東西斜面には二重の空堀が残されている。

 東側は社への道で寸断されているが西側は残存度も良好である。

 主郭の南側は削平された農地となっており、一部往時を偲ばせる段差もみられ、旧小学校側へ緩やかに傾斜している。

 平地の西側には土塁跡がみられる。

 

主郭方面

 

南側部分

 

主郭背後の堀切

 

西側斜面の空堀

 

 

 

 

歴史等

 館主を阿曽沼家臣、沖館某と伝えられるもその事績は皆無である。

 後に修験に関わる石田宋順が一時期館主であったと考察もされるが、石田氏に関しても多くは伝えられていない。

 鷹鳥屋という地名の由来は諸説色々と語られるが、阿曽沼時代、この地域は鷹が多く生息していたといわれ、捕えた鷹を飼育していた地とも考察されている。

 信長公記に記述される遠野孫次郎(阿曽沼広郷)が織田信長に白鷹を献上したことが記されているが、その使者、石田宋順と考察がされている。

 旧小学校敷地も加えれば、かなり広大な平山城であった可能性が高く、単なる鷹の飼育、鷹取り場という位置付けでは片付けられない重要な意義を持つ小友地域でも最大級の館跡であったものと思われ、その痕跡の一部が破壊され原型をみない状態であることが極めて残念でならない。

 


鮎貝館・遠野の伊達御一家鮎貝氏

2009-11-29 16:45:51 | 小友

 

 

概要

 鱒沢~小友間の糠森峠から西側へ続く山野の末端、小友川沿いの小友町鮎貝地区に館跡は残されている。

 館は西斜面に展開しているが、はっきりと確認できる遺構等はほとんど残されていない。

 一部、斜面の南西側に3段程度の階段状の平場、中央部分は南北100メートル程、東西約30メートル~40メートル幅の平地となっている。

 しかし、館跡が廃された後の時代に農地として削平された雰囲気も感じられ、館が機能していた当時の遺構かどうかは判断が難しい。

 西側には県道、そして小友川が流れ、江刺郡(奥州市江刺区)との境である五輪峠が至近にあり、中世当時は阿曽沼領の遠野、葛西領の江刺郡、後に南部家と伊達家という国境の地域であった。

 

西側斜面

 

中央部平地

 

 

 

西側斜面の段差

 

前景

 

遠野の鮎貝氏

  遠野阿曾沼時代の末期、阿曾沼広郷(遠野孫次郎)広長(孫三郎)に仕えた鮎貝志摩守が館主であると伝承されている。
 後に慶長5年(1600)に阿曾沼広長が鱒沢広勝、上野広吉の謀反によって気仙落ちした際に広長に附き従って共に気仙へ落ちていったと語られる。

 また、先人郷土史家と地元伝承を取り入れた形の考察では、伊達政宗家臣の鮎貝志摩守を密かに遠野領に侵入させ、鮎貝館を占拠、これは遠野惣領の阿曽沼広郷も承知のことで、広郷が伊達政宗と通じ密かに招へいしたとも語られる。

 奥州仕置きで阿曽沼氏は改易は免れたものの南部信直の傘下に組み入れられ、遠野は南部家影響下となった。

 しかし、阿曽沼氏は南部家の影響を嫌ったといわれ、伊達家と気脈を通じ、これがもとで伊達家の武将が鮎貝に入ったものとの考え方でもある。

 

 鮎貝氏とは・・・
 
 藤原北家流山蔭中納言の孫藤原安親は、置賜郡下長井荘の荘官となった。子孫は土着して武士化し、置賜郡横越郷に居住して横越氏を称した。
 応永三年、成宗は横越から下長井荘鮎貝に移り鮎貝城を築き、鮎貝氏を称し、以後、宗盛-定宗と続いたという。また一家の家譜では鮎貝定宗が鮎貝に住んで鮎貝を称したともいう。
 
 鮎貝氏は伊達晴宗(政宗の祖父)時代、「守護不入」(国主といえどもその領地統治に関して干渉しない)の特権を与えられ、伊達家からかなり優遇されていたことが伺われる。

 天正15年(1587)、伊達政宗と対立する最上太守、最上義光の支援で伊達家に謀反を企てたが、伊達政宗によって鮎貝氏は攻められ鮎貝城は落城。
 鮎貝氏当主宗信は最上家に逃れたが、伊達政宗は当主の弟宗定を粗略に扱わず、祖父の代より格式高き家である鮎貝氏を御一家(伊達氏親族等)に据えて優遇した。

 鮎貝兵庫宗定は、天正15年、兄宗信が伊達政宗に謀反し最上へ逃れると、鮎貝氏の後継となったが、文禄、慶長、寛永初期に至る30年の足取りが不明とされる。
 この間の所領は柴田郡堤村(宮城県柴田郡大河原町)でこの地に居を構えていたと僅かに伝えられますが、伊達家が激動を重ねていた時代に鮎貝氏が無為な歳月を送っていたとは考えられない・・・気仙沼市史

 記録にはその関りが示されながらも、その痕跡が不明といわれた柴田郡堤村での鮎貝氏、しかし、近年、大河原町の持明院の無縁墓地にて鮎貝宗重(日傾斉)の墓石が発見され、先代である宗重が柴田郡堤村に関りがあったことが証明されたようです。

 さらに宮城県大崎市(古川)の城代として鮎貝氏が一時期居たとする資料も発見されたということで、空白の30年も少しずつ紐解かれているようでもある。

 気仙沼市史では、鮎貝宗定が小友の鮎貝館に在館していたことは、史実であろうと結論付けている。
 また実際に気仙沼の煙雲館の鮎貝家ご末裔を訪ねた際に簡単な資料と共に、お話を伺うことができ、おそらく史実で遠野に関わりがあったものだうとしている。

 

 気仙沼には鮎貝氏家臣であった梅田家のご末裔も健在で、祖先は阿曽沼広長の弟で阿曽沼広重といわれている。

 「奥南落穂集」には阿曽沼主計広重の名も確かに確認され、阿曽沼一族であったのは間違いないものと思われ、遠野鮎貝館の鮎貝氏の存在、謎もまだまだ解明されておりませんが、道筋は見えてきたような雰囲気でもあります。

 

 小友川


 ただし、館跡を見ると明らかに五輪峠側の伊達領江刺郡を考えての構えであり、こちらも実は疑問でもある。


新谷館・遠野菊池党嫡家の系譜

2009-11-12 17:00:33 | 小友

 

 

概要

 新谷館は、小友町長野地区、国道107号線沿い新谷(荒屋)番所の西向いの山野にあり、種山から続く北東、長野川に至る山野に位置している。

 館が機能していた当時は、葛西家、後に伊達家が領有する気仙郡と隣接した地域でかつ金山地帯であったので、特に重要地域であったと推察でき、軍事、交通の要衝という位置付けであった。

 館跡は、東部分は長野川を天然の堀となし、背後の西側及び南側は山脈を形成し、北は隣接山野との谷となっており館山は一重の空堀で館山を囲み、背後の西部分は二重の堀切で山野を断ち切っている。

 他に南に2段程度の段丘、北側、東側に2段の帯郭が確認できる。

 比較的小規模な館跡と認識できるが、比高が100mを超える高所に位置し、東部分は急傾斜となっており、要所部分に防御性工事が施された整った形の館である。

 また、主郭部分は山頂部の平場2段で、奥は東西5~7m、南北15m、一段低い平場は東西6m、南北21m (数値は約) で、2段目平場の先端部には庭石風の工作物が配置されている。(糠森といわれるらしい)

 

北側の帯郭

 

北側の空堀跡

 

 

背面の山野を切断する堀切跡

 

主郭先端部分の糠森

 

館跡山麓下部の状況

かつての大手口等、通用口跡を林道とした形跡が感じられる。

 

菊池姓・平清水、新谷氏

 館主の新谷禅門景光は、最初、菊池平十郎景光と称し、後に小友長野地区平清水地域を領したことから在名での平清水氏を名乗り、平清水平十郎景光と名乗ったとされる。

 後に剃髪して禅門を名乗り、平清水は嫡子、平清水平右衛門景頼(後に駿河)に譲り、自らは同地区新谷に住したことから新谷氏を名乗ったとされる。(新谷と名乗ったのは子の出雲ともいわれる)

 小友は気仙郡から続く金鉱脈地帯で、特に長野地区は産金で栄え、平清水氏は知行高以上の遥かな潤いがあったものと推測でき、また平清水氏は産金関連に精通した一族であったのだろうと思われる。

 慶長5年、時の遠野盟主であった阿曽沼広長は一族で重臣の鱒沢広勝、上野広吉の謀反により気仙郡へ亡命、この時、禅門嫡子の平清水景頼も謀反に加担し、新谷禅門はその非道を嘆き、景頼以外の子を引き連れ、新谷館に籠ったと伝承される。

 景頼はその功により南部利直から大封を得て駿河と名乗り、遠野で重きを成す武将となったが後に南部家による策謀で切腹、断絶の憂き目となり、新谷一族もまた不遇の時代となったといわれる。

 しかし、禅門の子、駿河の弟、新谷新右衛門出雲は南部家に召し出され、気仙郡との境目勤番に召抱えられ、以後、遠野にあって新谷氏の系譜は続くことになる。

 新谷氏には新谷菊池系図なる遠野における菊池姓研究に必須の系図が残されておりますが、系図には新谷禅門景光の父は葛西家臣で江刺郡主、江刺氏執政の江刺角懸城主であり江刺菊池氏惣領といわれる菊池右近恒邦とあり、そのことを裏付ける内容として天正末期、江刺氏の内訌で菊池右近は江刺氏により郡内を追われる事件があり、その際に遠野へ逃れ、平清水氏と何やら接触する場面があったものと推測でき、後に書かれた菊池系図は、江刺角懸菊池氏と遠野新谷菊池氏の合作系図との識者等研究者の指摘がされている。

 

 いずれ遠野においては代表的な菊池一族、俗説では九州肥後(熊本)の菊池一族の奥州下向に伴う内容も語られ浪漫あふれる内容でもあって、今後の研究の成果を期待したいところですし、小生も及ばすながら、研究調査ができたらと思うところでもある。

 

 なお、本家ブログ、ブックマークにリンクの「じぇんごたれ遠野徒然草」に遠野の菊池姓関連の記載を若干しておりますので、参考までにご参照願えればと思います。

 本家ブログ内検索バーで遠野の菊池氏関連で出てくるものと思います。