遠野郷中世城館録

奥州陸奥国遠野(岩手県遠野市及び周辺地域)の城館跡の探訪調査記録のご紹介

鳴沢館・鱒沢館支館

2010-02-08 19:38:20 | 宮守

 

 

概要

 鳴沢館は、宮守町上鱒沢地内猿ヶ石川沿い、舟渡と呼ばれる地区の山野に残されている。

 館跡がある地帯は通称鳴沢とも呼ばれるが、地域内を見渡せる小高い山野でもある。

 館の造りは単郭であるが、山頂は南東側のさらに高い隣接山野につながっており、広めの尾根となっている。

 南東側は主郭の背後となるが、尾根等を堀切等で切断といった工作は施されていない。

 南~西は急斜面を形成し、3~4段の階段状の腰郭が配置され、北西部分は館の前面となるが主郭から続く3段~4段の不規則で小規模な階段状広場が構築されている。

 また東部分は緩やかに斜面となっており、主郭下に3段の要郭及び空堀らしい形状も確認できる。

 

主郭(山頂)

 

南部分の腰郭

 

西側斜面

 

北西部分

 

北側部分

 

東部分の階段状の形状

 

 

釜石自動車道工事で前景部分が破壊されている。

以前の前景(2008年当時)

 

歴史等

 館主を鱒沢館主、鱒沢氏家臣の佐々木氏と語られ、鱒沢館の出城という説が主流である。

 築年代は室町時代中期頃~戦国時代末と推測されますが、中世遠野領主、阿曽沼氏の分家、鱒沢氏は上、下鱒沢と小友の半分、約1千石といわれ、遠野西方面の盟主的立場でもあったと伝えられ、主家をも凌ぐ勢力を誇っていたとも伝えられる。

 鳴沢館がどのような機能、役割を担っていたかは不明であるが、その昔、金山採掘も若干ではあるが盛んでもあったといわれる鱒沢地域、その関係も含み江刺郡、和賀郡への軍事、交通の要衝との位置付けでもある鱒沢地域のひとつの守りの要の役割も担っていたと推測される。


落合館・和賀、江刺の備えの砦

2009-12-07 17:43:59 | 宮守

 

 

 

概要

 猿ヶ石川と小友川の合流点、西側直上の山野にある。

 東側、北側は川へ落ち込む急斜面、西側は緩やかに山野が下り、南側は山頂から尾根続きで南方の山野へ続いている。

 山頂は西~東へ緩やかに下る平場で南北約50メートル、東西約30メートル。

 南側は二重の堀切で尾根を区切り、西側~北側斜面を囲むように二重の空堀が走り、東側は、そのまま斜面を駆け下っている。

 山頂平場の南端には土塁が張りめぐされており、北端斜面には2段の小さな平場が見られる。

 川の落合側、北東の斜面には5段~6段の帯郭状の平場が構築されている。

 

空堀跡

 

堀切跡

 

山頂の土塁跡等

 

南から北へ緩やかに傾斜する山頂平場

 

北東突端の段差

 

北東側の階段状平場

 

歴史、沿革等

 館跡に関する由来等は不明とされている。

 戦国時代に築館されたのではと推測しておりますが、鱒沢地区は室町中期から阿曽沼支族の鱒沢氏が治めた地であり、その支城という位置付けだったのではと考察いたします。

 南は高い山野を隔てて葛西領の江刺郡、西は猿ヶ石川沿いに辿れば和賀郡へと通じ、両郡との軍事、交通の要衝といった場所柄だったと思われる。


宮守館・本姓菊池、遠野西の大族

2009-11-17 14:13:58 | 宮守

 

 

 

館の概要

 宮守館は、笠通山から北西に延びる尾根の先端に位置し、北西側に鹿込小沢集落、反対側南東山麓には鹿込地区熊の洞集落が控えている。

 この隣接の集落から別名小沢館或いは熊の洞館とも地元では呼称される。

 遠野において比高170メートルということで高所に位置する山城で、山頂は東西に拓けており、東西約100メートル、南北(幅)30メートルの平場が展開されているが、堀切を挟んで東郭と西郭の二つの郭を持つ館であると確認でき、主郭部は西郭と思われ、東西約70メートル、幅約30メートルで中央には一段高い土盛があってこの部分が主郭であったと推測される。

 土盛部分の斜面には明らかに人工的に工作された石垣状の石積跡が確認でき、一部ではあるがその名残として僅かに残されている。

 また西郭の南部分には二つの土塁が残されている。

 

 東郭最奥部には堀切が施され、山野の尾根を断ち切っている。

 

 北側は小沢集落が眼下に控え、斜面上部全域にわたって5段程度の帯郭的平場が展開されている。

 また南側の熊の洞集落側の斜面は不規則ながらも3~5段の帯郭的平場があり、かつての館への通用口跡と思しき窪みとその周囲に小さめの段差が残され、虎口跡と推測される。

 

 空堀等は土砂等の堆積で浅く風化激しい状態ではあるが、それでも見応えのある館跡である。

 

 

主郭部・・石積跡

 

堀切跡

 

 

土塁跡

 

北側帯郭

 

 

南側帯郭

 

虎口部分?

 

館主概要(歴史)

 館主を宮森氏歴代と伝えられ、宮森氏は他に宮盛、宮杜と記述されることがある。

 宮森氏は本姓を菊池と称し、上宮守、下宮守を領して1千石ともいわれる。

 その系譜含み事績は、はっきりとしないが、文治5年(1189)阿曽沼氏が遠野郷の地頭職となるや代官として下向した宇夫方氏による遠野郷統治では、遠野西側の大土豪といわれ、宇夫方氏による統治完成の最大の障害だったとも語られる。

 はじめ上宮守の西風集落北西の神成館に居館を構えていたと伝承され、後に宮守館を築いて下宮守地区に浸透ととれる内容も語られますが、この当時の当主を宮森左近といわれ、宇夫方氏の女を室として迎えて、宇夫方氏と平和的な同盟関係を結び、その家名は慶長年間まで続くことになります。

 慶長5年(1600)、遠野騒動といわれるクーデターが勃発、遠野盟主であった阿曽沼広長が気仙郡へ追われると、謀反勢の上野広吉勢に宮守館は攻められ、館は落城、宮森一族は歴史の舞台から消え去った如く山麓の説明板には記されているが、史実としては、時の当主、宮森主水は太守南部利直より旧領500石を安堵され宮守代官として南部家臣となったのが真相である。

 しかし、後の元和年間から寛永4年までの間に役職等の任を解かれ禄を失い、宮守の宮森氏の足跡は忽然とみえなくなる。

 その後、太守南部重直の時に宮森主水の後継者、宮森祐光の代に南部家へ召し出されて花巻御給人50石の南部藩士であったことが記録されている。

 

 

 なお、俗説として、宮森氏は九州熊本、菊池一族の系譜といわれ、菊池武時の子、菊池九郎武敏の末裔と伝えられる。

 菊池武敏は南北朝時代初頭、南朝方貴種の警護で奥州に至り、鎮守府将軍北畠顕信配下として南朝方拠点を遠野に求め、宇夫方氏との折衝で宮守を得て宮守館を築いたと伝承されている。

 間もなく武敏は赤星党を率いて南進してこの地を離れるも、嫡子の菊池武世を宮守に残し、またその弟は小友長野にて金山開発等で在地勢力となり平清水氏となったと伝えられている。

 俗説ながらも本姓菊池とされる所以がこの辺りから紐解ける雰囲気も感じます。

 

 

 いずれ、同町の上宮守には戦国期に使用されたと推測される石倉館も存在し、ふたつの宮守氏の系統がいた可能性もあって、このこと含み今後の調査研究課題といえそうです。