遠野郷中世城館録

奥州陸奥国遠野(岩手県遠野市及び周辺地域)の城館跡の探訪調査記録のご紹介

横田城(阿曽沼主家の牙城)

2009-11-11 12:51:58 | 松崎

標高315メートル・比高55メートル

東西約300メートル・南北約200メートル・・・山城

 

前景

 

城館の概要

 横田城は別名、護摩堂館とも呼ばれ、中世遠野領主であった阿曽沼氏歴代の居城であった。

 築年代は不明であるが、伝承によれば建保年間(1213~1219)の鎌倉時代と伝えられる。

 源頼朝により奥州平泉の藤原氏が征討され(文治5年・1189)この戦いで戦功があった下野国佐野の御家人、阿曽沼広綱がその恩賞として遠野郷を賜ったのが最初といわれますが、横田城は広綱の次男、阿曽沼親綱が築いたとされている。

 

 城は背後の高清水山から流れる鶴音山の山麓の台地に築かれ、前面は猿ケ石川を天然の堀となし、東西は沢に囲まれており、扇状の形である。

 北側の背面や沢に隣接した陸地続きの部分は幅広な空堀で区切られ、前面である南側斜面は3~4段の平場が展開されており、現在集落墓地、農地となっている場所も防御上必要な段差があった形跡が認められる。

 また東側の沢は深き自然の沢であるが、陸地続きの城側斜面には土塁が確認でき、西側の沢は、かつては水堀だった可能性を秘めている。

 主郭は現在薬師堂が祀られている場所とされている。

 背後の空堀には土橋も認められるも、城が機能していた時代のものか近年に作られたものかは不明である。

 天正年間(1573)遠野阿曽沼第13代と語られる阿曽沼広郷(遠野孫次郎)は、度重なる猿ヶ石川の氾濫等に苦慮し、鍋倉山に新城を普請し移り、遠野阿曽沼氏歴代の主城としての役目を終えたとしている。

 

主郭部分

 

主郭南東側の段差

 

北側の空堀(堀切)

空堀跡中央部分は土橋で区切られている。

 

 

 

東側沢方面の土塁跡

 

 

 

 

西側の沢・・・現農地

かつては水堀だった可能性がある(湿地による)

 

簡略図

 

作図・管理人

使用写真は2007年2月に撮影

 

 

歴史考察等

 阿曽沼広綱は伝承や先人郷土史家達の見解によると、本国下野国にあって遠野郷は重臣の宇夫方氏を派遣しての遠隔統治だったとしている。

 また、鎌倉時代に築かれたという横田城、複数回の探訪による印象では、残される遺構等の状況から少なくても鎌倉時代に築かれた城とは思えない。

 さらに伝承では、松崎町駒木には阿曽沼館と呼ばれる平城(館)が残され、遠野代官の宇夫方氏が当初の館として居たと考察されている。

 その後、宇夫方氏は綾織の谷地館に平城(館)を築き一族が移り住んだともいわれている。

 その間に横田城が築かれ主家の阿曽沼一族が下向して横田城に移り住んだかのような伝承されておりますが、大方の見解ではまだ下野本国から主家一族が本格下向していない見解が主流で、南北朝時代或いはその直後とする考察が一般化しております。

 

 駒木の阿曽沼館から綾織谷地館に居を移した宇夫方氏は、下野国本国から主家阿曽沼氏の庶流一族の誰かが遠野代官として下向したことにより、谷地館へ移動し、駒木の阿曽沼館は、そのまま代官職の阿曽沼庶流の者が政庁として使っていたと小生は考えております。

 横田城の築城は、本国から主家一族が本格的に下向した際に築かれた城ではないのかと推測しております。