遠野郷中世城館録

奥州陸奥国遠野(岩手県遠野市及び周辺地域)の城館跡の探訪調査記録のご紹介

興光寺館・主家に殉じた忠義の一族

2009-11-25 15:54:29 | 松崎

 

 

概要

 高清水山から南東に延びる尾根の先端部、猿ヶ石川及び国道283号線遠野バイパス沿いにある山野に位置している。

 東、西、南側は急な斜面となっており、西側は隣接山野との谷、南側は上部に5、6段の平場が展開しており、下部付近は急傾斜地となっている。

 東側は上部斜面に空堀跡がみられ東斜面を下っている。

 主郭は山頂部分を削平して平場と成した場所であるが背後の北側には山野続きの尾根を二重の堀切で断ち切っている。

 堀跡は西側の谷に一本は落ち込み、内側の堀は西斜面を巻くように南側へ下っている。

 途中から帯郭的平場と思われる狭い平場に形状変化しているが、かつては空堀だったものと思われる。

 全体的にこじんまりとまとまった館跡であるが、伝えによればさらに奥部の高い山野は見張台として活用され、また西側の隣接山野も館の一部であったといわれるが確認等はできなかった。

 

 

 

西側の平場(空堀跡)

 

主郭背部(北側)の堀切跡

 

主郭側の空堀と土塁跡

 

奥部の堀切跡

 

北側尾根から主郭側

 

館主・興光寺氏

 館主を興光寺靭負(こうこうじゆきいえ)と伝えられ、天正~慶長年間はじめに活躍した人物とみられる。

 館の歴史を調べた先人郷土史家の資料によると、興光寺氏は安部時代からこの地にあった安倍一族の家臣で産鉄に関わりある一族であったと考察されますが、出典は東日流外三郡誌とあるので、信ぴょう性は問われそうでもある。

 ただ、光興寺地区には産鉄に関わったと思われる鉄穴流の跡や金ヶ沢の地名もあり、何かしら関係はあったものかもしれません。

 いずれその出目については不明である。

 

 慶長5年、主家である阿曽沼広長は太守、南部利直の命で上杉景勝攻めの為、南部勢旗下として最上に出陣する。

 この時、興光寺靭負は松崎館の松崎監物と共に一方の侍大将として出陣したと伝えられる。

 阿曽沼広長が遠野を留守にした間、阿曽沼一族で重臣の鱒沢左馬介広勝(鱒沢館主)と広長の叔父である上野右近広吉、同じく家臣の平清水駿河景頼が謀反し横田城(鍋倉城)を制圧したとされる。(遠野騒動)

 最上の陣から遠野へ帰参する阿曽沼広長は江刺郡境の五輪峠で伏兵のため、遠野入りが叶わず、気仙郡世田米の舅、世田米修理広久(阿曽沼広久)の許へ亡命する。

 この時、興光寺靭負も広長と行動を共にして世田米へ落ちたといわれる。

 この後、気仙郡を領する伊達政宗の後援を受けて阿曽沼広長は3度の遠野奪還戦を挑んだが、その2回目の戦い、赤羽根峠の戦いで興光寺靭負は奮戦及ばす、松崎監物と共に討死と伝えられる。

 結局、阿曽沼氏の遠野奪還は成らなかった。

 興光寺館に居た興光寺靭負の家族や一族がその後どのような運命を辿ったかは全く伝えられていない。

 

 いずれ、勝者によって敗者の歴史は葬られただろうと思いますが、それでも阿曽沼氏の忠臣、興光寺靭負の名のみは後世に伝えられている。