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創発的なタイピング練習 ①

2020-11-29 16:25:24 | 本の紹介

キーボードの「K」がなんだか引っかかって打ちづらい。

私がブラインドタッチを覚えたときに「センターポジション」というものがあり、左手の小指を「A」人差し指は「FとG」を、右手の人差し指で「JとH」をカバーして小指は「L」というもので、ずっとこのポジションだ。

「」や句読点 や「/」(スラッシュとかルートという)や多用する「ENTER」キーは殆ど右手なので、バランスが悪いのだが、左手は本の頁をめくったり鼻をほじったりするために、まあこれでバランス的にはいいのかなあ。と、そう思っている。

 

老人ホームの送迎ドライバーをしていたときに、じーさんばーさんは何してんだろうかとチラっと中を覗いたら、結んで開いて手を打って結んで。グーパーグーパーなんかを歌いながら楽しそうにやっていた。あれを足も同時にやると、3分くらいで体が温まるのにな~と。

手足の指を意識的に動かすことを現代人は殆どしない。スマホいじりは見るかぎり親指ばかりを動かしている。目はあの小さな4インチくらいの画面を、それこそ食い入るように凝視している。小さな文字を追っている。

バランスを欠いている。

冬は冷え性の人は足の爪先が温まるまで眠れないだろうと思う。そういうときに3分でいいからやってみるといい。

真夏はともかく、冬も昼夜関係なくエアコンの室外機のモーター音が響く。寝ながら暖房しているのだろうか。バランスを欠いている。

眠りに入る前に体を温めてやると、眠り始めから少しずつ体温が下がり、それにつれて眠りも深くなっていくと何かで読んだことがある。人それぞれだから皆にあてはまるかは知らないが、私の場合布団に入ったときに、温めることを少ししている。

 

 

 

経済学の船出

  創発の海へ

安冨 歩

 

 

はじめに

 

 

 普通の人の普通の感覚というものは、意外に鋭いものであり、「なんだか変だな」と感じることには、それなりの理由が潜んでいる。ただ、人間というものは、いろいろなことを思い込むように仕向けられると、これまた意外に弱い。そのため、「変だな」と思いつつも、「まあいいか」と受け流して、思考停止に陥ってしまいがちである。

 本書の目的は、社会や経済についての良識に基づいた理解を支えるための、理論的根拠を与えることである。

ここで「良識」と呼ぶものは、「なんだか変だな」という感覚のことである。読者がその感覚を把持し、奇妙なものごとに出会ったときに、「まあいいか」とやり過ごさず、自分自身の内的ダイナミクスに基づいて、独自の思考を展開するための手がかりを提供すること、これが本書の目指すところである。

 デカルトは『方法序説』の冒頭で「良識(bon sens)はこの世でもっとも公平に配分されている」と指摘した。「良識あるいは理性(raison)」こそが、「真実と虚偽とを見分けて正しく判断する力」にほかならない(デカルト一九五三、一二頁)。ボン・ザンス(bon sens)というフランス語は、直訳すれば「良い感覚」であり、「常識」というのが普通の訳語である。この良く働く感覚を力に変える以外に、良く生きる方法などありはしない。私が依拠しようとするのは、純粋で透明な理性などではなく、この意味での良識にして常識である。

 それゆえ、本書に書かれていることに、特に目新しいことはない、とも言えよう。”Nibil sub sole novum”(お天道様の下に新しいものはない)というラテン語のことわざのとおりである。我々にできることは、「温故知新」論語だけである。それは、すでにあるものについてよく考え、自分自身のあり方を見つめ直すことで、新たな創発を起こす、ということである。

 これが心理へと至る唯一の道であり、その道を歩むことは専門家の仕事ではなく、一人一人に課せられている。人は勇気をもって、己の心理を探求することではじめて、楽しく愉快に暮らしうるのであり、それこそが社会に秩序をもたらし、地球環境を豊かにする道でもある。

 逆に、良識の作動を失ったとき、人は自動人形と成り果てる。自分で何を感じているのか、何をしてよいかわからなくなった自動人形は、右往左往して他人の評価に一喜一憂し、阿諛迎合して付和雷同する。この自動人形の付和雷同が生み出すうねりには、津波のような猛烈な破壊力がある。

 日本を二〇年にわたる苦難に陥れた一九八〇年代末の土地投機とその崩壊、最近の世界金融危機に至るアメリカと中国とを中心とした加熱景気などのいわゆる「バブル経済」は、その典型的事例である。満州事変から日中戦争を経てアジア太平洋戦争へと至る日本社会や、ヒトラーの出現以降のドイツ社会、あるいは文化大革命下の中国社会の有り様なども、そのように理解することができる。さらには、産業革命以降、今日に至るまで、壮絶な環境破壊を繰り返して「経済発展」を続ける人類全体の様相も、世界史的視野からすれば、そのような付和雷同のうねりと見ることもできよう。こういった暴走は、利己心の膨張によっても、集団や他者への盲目的献身によっても起きる。

 この暴走列車を止めるには、各人が自分自身の感覚に立ち戻る以外になく、それには各人の良識の作動を促すマネジメントが不可欠である。良識の作動を押し殺す正当化の屁理屈を振り回すことは、まぎれもない暴力である。ガンディーの言う非暴力とは、そこからの離脱にほかならない。この非暴力の観点から良識に基づいて世界を見ることが、理性的な態度というものである。

 

 

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まちはだれのもの

 

私が付箋を貼ったところ

*私が依拠しようとするのは、純粋で透明な理性などではなく、この意味での良識にして常識である。

*この非暴力の観点から良識に基づいて世界を見ることが、理性的な態度というものである。

 

そういえば随分まえに、「眠るために為される行為」について書いたような気がする。

「すべては眠るために為される行為なのかもしれない」と書き直すのも悪くない。

そしてそれには「どう生きるか」を自分なりに考える必要があるのだろう。

TVも広告もなにも見ずに突然、オレンジじゃなく香料の入っていないみかんジュースが飲みたい!とまず自ら欲することだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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