「軍王」について述べましたが、論者の中には『万葉集』の「軍王」について「雄略紀」との名称の近似について述べているものもありますが、そこでは「百済王族」の「尊称」という理解のようです。しかし「軍君」や「軍王」が尊称ならば、『書記』の「百済」との関係記事は「軍君」や「軍王」だらけになって不思議はないはずであるのに、実際には「昆支君」という「コン」という発音の人名に使用されている例だけが確認できる唯一であり、このことは「軍王」についても「尊称」などではなく「人名」の「発音」として選ばれている語であるという前回の記事は蓋然性の高い想定と考えます。(例えば坂本義義種氏などはこの「昆支」と「軍」の近似については「尊称が個人名に転じたものであろうか」という推測をされているようであり(※)、あたかも彼だけがその尊称を継承したかのようですが、そうなった経緯や根拠については特に述べられてはいないようです。)
また、この「軍王」についてはその左注が「未詳」としていることに注意すべきです。『万葉集』の左注がこの『万葉集』成立からかなり後代のものであるのは当然といえますが(そのため古田氏は左注を歌そのものから切り離して考えるべきと提唱されたわけですが)、重要なことは「山上憶良」の『類聚歌林』を引用してその「題詞」や内容を検討していることです。つまりこの左注を施した人物は「万葉」の世界について疎く、そのためそれがどの時代の誰がどのような状況で歌ったのかを「山上憶良」によって知ろうとしているのです。さらに同時に最終的には『日本紀』の記述に基づいて判断していることが知られます。
これらのことから判断して左注を施した人物と「万葉」の世界が異なっていることを示しているわけですが、それは単に時代が異なるのではなく、政治における「位相」が異なっていると考えるべきでしょう。しかもその「位相」の異なる世界の住人として「山上憶良」がいたことになります。
これらのことから『万葉集』が「倭国九州王朝」において編纂されたものであり、その「倭国九州王朝」の時代のことを知るものとして「山上憶良」を選んだこととなるでしょう。
すでに「山上憶良」が「倭国王朝」の関係者であったらしいことを推察しましたが、上の推定はそれを裏付けるものと考えます。
さらに「軍王」については彼もよく知らないということとなりますから、かなり時代が遡上することを想定する必要があり、『雄略紀』に登場する人物とみた前回の「思い付き」もそれほど外れてはいないのかなと考えています。
※)坂本義種「日本書紀朝鮮・中国関係記事注釈 ―巻第十四 雄略天皇―」(『京都府立大学学術報告 人文・社会』一九九九年十二月)
また、この「軍王」についてはその左注が「未詳」としていることに注意すべきです。『万葉集』の左注がこの『万葉集』成立からかなり後代のものであるのは当然といえますが(そのため古田氏は左注を歌そのものから切り離して考えるべきと提唱されたわけですが)、重要なことは「山上憶良」の『類聚歌林』を引用してその「題詞」や内容を検討していることです。つまりこの左注を施した人物は「万葉」の世界について疎く、そのためそれがどの時代の誰がどのような状況で歌ったのかを「山上憶良」によって知ろうとしているのです。さらに同時に最終的には『日本紀』の記述に基づいて判断していることが知られます。
これらのことから判断して左注を施した人物と「万葉」の世界が異なっていることを示しているわけですが、それは単に時代が異なるのではなく、政治における「位相」が異なっていると考えるべきでしょう。しかもその「位相」の異なる世界の住人として「山上憶良」がいたことになります。
これらのことから『万葉集』が「倭国九州王朝」において編纂されたものであり、その「倭国九州王朝」の時代のことを知るものとして「山上憶良」を選んだこととなるでしょう。
すでに「山上憶良」が「倭国王朝」の関係者であったらしいことを推察しましたが、上の推定はそれを裏付けるものと考えます。
さらに「軍王」については彼もよく知らないということとなりますから、かなり時代が遡上することを想定する必要があり、『雄略紀』に登場する人物とみた前回の「思い付き」もそれほど外れてはいないのかなと考えています。
※)坂本義種「日本書紀朝鮮・中国関係記事注釈 ―巻第十四 雄略天皇―」(『京都府立大学学術報告 人文・社会』一九九九年十二月)