古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「都督」「太宰」と「倭国」

2024年05月31日 | 古代史
以下に「都督歴」に対応する「大宰府」に派遣されていた人物たちの記録を書出します。

藤原元名    大宰大弐
天徳二年条 参議 従四位上 藤元名 七十四 仁和元年生。/三木従三位清経三男。 延木五二十七兵庫助。十四年正七従五下(陽成院御給)。十七年九月玄蕃頭。廿一年八十一能登守。延長五正十二備後守。三月廿六日従五上(治国)。承平二正廿七伊與守。同六八十五大和守。同七正七正五下。天慶四正九従四下。同五三廿九美乃権守。同十二一丹波守。天暦六正八従四上。同十一日民部大輔。同七正廿九山城守。同八三十四大宰大弐。天徳二閏七廿八三木(大弐如元)。
天徳三年条 参議 従四位上 藤元名 七十五 月日去大弐。

藤國風 記録なし

小野好古 大宰大弐
天徳四年条 参議 正四位下 野好古 七十七 左大弁。弾正大弼。正月廿四日兼備中守。四月廿三日任大宰大弐。止弁弼等

藤佐忠 記録なし

橘好古 大宰権帥
天禄元年条 中納言 従三位 橘好古 七十八 民部卿。正月廿五日兼大宰権帥(去卿)。

藤國光 記録なし

藤國章 大宰大弐
貞元二年条 非参議 従三位 藤国章   正月七日叙(造八省院廊功)。太宰大弐如元。/故三木元名朝臣四男。母同文範卿。

菅輔正 大宰大弐
正暦三年条 非参議 従三位 菅輔正   二月十五日叙(持朱雀院御骨賞)。式部大輔如元。/右中弁正五位下淳茂孫。従四位上勘解由長官在躬朝臣一男。母従五位上常陸介菅景行女。 天暦ー給料。同四ーー文章得業生(年廿六)。同五正卅播磨権少掾。同八十廿七課試。同九正ー判(卅一才)。壬九月ー刑部少丞。同十一正廿七式部少丞(卅三才)。天徳二壬七廿二転大丞(弘親卒替)。同四正七従五下(策。卅六才)。二月十九但馬権守。四月廿二日民部少輔。応和元十十三式部少輔。同三正廿八左衛門権佐。二月宣旨。倫寧任河内守替。同四四一次侍従。康保二正十七止次侍従(依国府前使也)。同三正七従五上(策。四十二)。廿七任権右少弁。同四九一東宮昇殿。同五二五左少弁。安和元十二十八大学頭。同二六廿三左少弁。八月十三東宮学士。九月二日昇殿。天禄元八五文章博士。十一月廿日正五下(弁労)。同二正廿九越前介。十二月十五日右中弁。同三正七従四下(弁労)。壬二月廿九美作権守。同四七廿二権左中弁(学士博士如元)。貞元二八二従四上(造宮行事)。十二月十日周防権守。同三十十七左中弁。天元二十十七昇殿(石清水行幸行事以下加階聴昇殿)。同四正廿九大宰大弐。二月十七日昇殿。同五正七正四下(弁労)。三月五日式部権大輔。永観二八廿七以本宮侍臣昇殿(但身在任所)。九月十四日聴雑 。寛和二六廿二止昇殿(譲位)。正暦二四廿六丹波権介。五月二日昇殿。廿一日転式部大輔。

藤為輔 大宰権帥
寛和二年条 権中納言 正三位 藤為輔 六十七 正月廿八日任(加階)。同日大宰権帥。八月廿六日薨。号甘露寺中納言。又松崎帥(参木大弁十二年。中納言一年)。

藤共政 記録なし

藤佐理 大宰大弐
正暦二年条 参議 従三位 藤佐理   兵部卿。正月廿七辞三木并卿。任大宰大弐。

藤有国 大宰大弐
長徳三年条 非参議 正三位 同〈藤原〉有国 五十五 大宰大弐。

平惟仲 大宰権帥
長保三年条 中納言 正三位 平惟仲   正月廿四日大宰権帥(或本云。給左右近衛各二人為随身)。

藤高遠 記録なし(左兵衛督)

平親信 筑後権守
長保三年条 非参議 従三位 平親信 五十七 十月十日〔叙〕(東三條院御賀。院司賞)。/故中納言時望卿孫。故従四位下行伊勢守兼以朝臣二男。母従五位下越後守藤定尚女。 康保四ーー東宮雑色(宮初)。安和二八ー為内雑色(踐祚)。天禄二九廿六文章生。同三正廿六蔵人。四月廿九左衛門少尉。四月十一遷右衛門少尉。天延二二二検非違使。同三正七従五下(蔵人)。廿六筑後権守。貞元二正廿阿波守。八月二日従五上(造宮功)。永観二十廿右衛門権佐。十一月日使宣旨。同三二ー防河使。寛和元九十四近江権介(受領)。防鴨河使如元。十一月ー正五下(悠紀国司)。二十一十八叙従四下(悠紀国司)。永延二十四辞。同三正廿八従四上(造勢多橋賞)。正暦二六一越前守(乗方辞替)。

藤隆家 記録なし

藤行成 大和権守
長保三年条 参議 正四位下 藤行成 三十 八月廿三日任。右大弁大和権守等如元。元蔵人頭。十月三日侍従。同十日従三位(東三條院御賀。院司賞)。/故太政大臣(伊尹公)孫(但為子)。右少将義孝一男。母中納言源保光卿女。 永観二正七従五下(春宮明年御給)。寛和元十二廿四侍従。同二二八昇殿。八月十三左兵衛権佐。同三正七従五上(恵子女王御給)。永延元九ー昇殿。永祚二正廿九備後権介。正暦二正七正五下(佐労)。同四正九従四下(女叙位次。佐労)。ー昇殿。長徳元八廿九蔵人頭(従四下。備後権介)。同二正廿五式部権大輔。四月廿四権左中弁。同年八月五日転左中弁。同三正廿八備前守。四月十一従四上(臨時)。十月十二右大弁。長保元正廿九備後守。三月廿九大和権守。同二十十一正四下(書額賞)。長保三八廿三三木。

源経方(房) 大宰権帥
寛仁四年条 権中納言 正二位 源経房 五十二 皇大后宮権大夫。十一月四日去権大夫イ。同廿九日兼任大宰権帥(去大夫)。

源惟憲 大宰大弐→源ではなく藤原
治安三年条 非参議 従三位 同〈藤原〉惟憲 六十一 十二月廿六日叙(長和五大嘗会国司賞)。大宰大弐如元。/中納言為輔卿孫。駿河守惟孝一男。母従四位下伴清廉女。 年月日近江掾。寛和元十一廿従五下(悠紀)。ーーー大蔵大輔。ーーー従五上。ーーー正五下。長保三正廿四因幡守。寛弘二正廿五得替。同三正廿八甲斐守。同四正廿従四下(造安殿賞)。同七二十六去任。同八十十五従四位上(治国。御即位)。長和二九十六正四下(行幸中宮。左大臣家司)。十一月廿四日近江守。ーーー左京大夫。寛仁元八九春宮亮。同二正ー去任。同四正卅播磨守(大夫亮如元)。治安三十二十五任大宰大弐。

源道方 大宰権帥
長元二年条 権中納言 従二位 源道方 六十二 宮内卿。正月廿四日兼大宰権帥。八月十八日叙正二位(赴任賞)。

藤実成 大宰権帥
長元六年条 中納言 正二位 藤実成 五十九 四月九日勅授帯劔。十二月卅日兼大宰権帥。

藤隆宗 記録なし

藤重尹 大宰権帥
長久三年条 権中納言 正三位 同〈藤原〉重尹 五十九 正月廿九日任大宰権帥。止中納言。七月三日叙従二位(赴任日)。永承六年三月八日薨。

藤経通 太宰権帥
永承元年条 権中納言 正二位 藤経通 六十五 治部卿。左衛門督。二月廿六日兼太宰権帥(止督)。

藤資通 太宰大弐
永承五年条 参議 従三位 源資通 四十六 左大弁。播磨権守。九月十七日兼太宰大弐(去左大弁)。十一月十一日正三位(赴任賞)。

高成章 太宰大弐
天喜三年条 非参議 従三位 高階成章 六十六 七月十九日叙。太宰大弐(赴任賞)。/天武天皇之後。左大臣長屋王十世之孫。故春宮亮業遠四男。母修理大夫業平女。 年月日主殿権助。ーーー春宮蔵人。長和五正廿九内蔵人(太子登極日。廿七)。十一月廿六日式部少丞。同六正七従五下(蔵人。筑後権守)。寛仁三正廿三紀伊守。治安三二十二去任。万寿三四廿七従五上(治国)。同四三十七春宮大進。長元九四ー止大進(太子登極)。七月十日正五下(馨子内親王御給。即位日)。長暦元八十七春宮権大進。長久三正七従四下(春宮去長久四年未給)。廿九日主殿頭。同五正ー阿波守。永承三十一ー止守。同四十二ー伊與守。同五十一十三従四上。同六正廿七正四下(造貞観殿功)。天喜二十二二任大弐。

藤経輔 太宰権帥
康平元年条 権中納言 正二位 同〈藤原〉経輔 五十三 中宮権大夫。四月廿五日兼太宰帥。七月卅日加権字。

藤師成 太宰大弐
康平六年条 非参議 従三位 藤師成   七月廿六日叙(永承大嘗会主基)。八月十九日正三位(赴任賞)。太宰大弐如元。/故中納言通任卿一男。母従三位藤永頼卿女。 寛仁五正七従五下(皇后御給)。ーーー美乃権守。万寿元十十七侍従。同三十一廿七右兵衛佐。同五二十九従五上(佐労)。同日左少将。長元二正廿四兼伊與権介。同四十十七兼加賀権守(受領。小一條院分)。十一月十九日正五下(少将労。朔旦)。同六正七従四下(少将労)。長暦二正廿従四上(治国)。長久二十二十九正四下(行幸内大臣二條家家賞)。同三十廿七任兵部権大輔。寛徳二四十二備中守(任中公文一)。永承四二五去任。天喜四十廿九丹後守。康平三二廿五去任。同五正卅近江守。同六二廿七太宰大弐。

藤顕家 太宰大弐
治暦三年条 参議 従三位 藤顕家 四十四 讃岐権守。七月一日兼太宰大弐。八月廿二日正三位(赴任賞。超資綱)。

藤良基
延久三年条 参議 従二位 同〈藤原〉良基 四十八 春宮権大夫。周防権守。四月九日兼大弐。

平経平 大宰大弐
承暦四年条 参議 正四位下 藤公実 二十八 十二月六日任。左中将如元。元蔵人頭。/春宮大夫実季卿一男。母前大弐経平朝臣女。 治暦四七廿一従五下(良子内親王御即位給)。延久二十二廿八左兵衛佐。同四正七従五上(佐労)。十二月八聴禁色。為蔵人。同五正卅遷左少将。同六正廿八正五下(少将)。同日兼備前介。承保元十一十八従四下(大嘗会)。同二正十八従四上(行幸東三條第日賞)。同六月十三転中将。同四正六正四下(陽明門院御給)。同二ー兼中宮権亮。承暦四正十八蔵人頭。十二月六日任三木(中将如元)。

藤資仲 大宰帥→大宰権帥
承暦四年条 権中納言 正二位 同〈藤原〉資仲 六十 正月廿八日罷職。任大宰帥。(大宰権帥の誤り)
承暦四年条 前権中納言 正二位 藤資仲 六十 正月廿八日罷所職。大宰権帥。
永保元年条 前権中納言 正二位 同〈藤原〉資仲 六十一 大宰権帥。
永保二年条 前権中納言 正二位 同〈藤原〉資仲 六十二 大宰権帥。
永保三年条 前権中納言 正二位 藤資仲 六十三 太宰権帥。
応徳元年条 前権中納言 正二位 藤資仲 六十四 大宰権帥。四月日辞帥。同日出家(六十四才)。寛治元十一ー入滅。

藤実政 大宰大弐
応徳元年条 参議 正三位 同〈藤原〉実政 六十六 左大弁。勘解由長官。式部大輔。讃岐権守。六月廿三日遷任大宰大弐。

藤伊房 記録なし
延久四年条 参議 正四位上 藤伊房 四十三 右大弁。十二月二日任。/故参議行経卿一男。母前土左守源貞亮女。 長元四正六従五下(東宮御給)。ーーー但馬権守。寛徳二十二廿五侍従。永承元十一十三従五上(殿上一)。同二十一十三左兵衛佐。同三正廿八遷少納言。同四二五兼紀伊権守。同七正五正五下。天喜四年十一ー補蔵人。同六四廿五遷右少弁。同十一月八日転左少弁。康平五十一ー兼木工頭。治暦元十二ー転権左中弁(木工頭如元)。同二正五従四下(弁)。同廿八日氏院別当。三月廿二日造興福寺長官。同三二六任安芸介。廿五日従四上(興福寺供養日)。四月十六正四下(丈六画像御仏供養行事)。延久元六十九補蔵人頭。同十二月十七日任左中弁。同三三廿七為修理左宮城使。同四二一正四上(臨時)。同十二月二転右大弁。同日任三木(元蔵人頭左中弁)。同月ー為氏院別当。

藤長房 記録なし
永保三年条 参議 正三位 同〈藤原〉長房 五十四 正月廿六日任。大蔵卿如元。/故入道権大納言経輔卿二男。母式部大輔資業卿女。 長久二十廿七従五下(上東門院臨時御給)。同三十廿七侍従。同四九ー右少将。同五正五従五上(少将)。寛徳二四ー兼備前介。永承二正ー正五下。同三四五兼斎院長官。同四正五従四下(少将)。同五二ー兼美作介。同六正ー遷右少将。天喜三二ー兼周防介。同五正ー正四下(上東門院御給)。同六正ー兼左京大夫。康平三二廿二兼備中介。同四二ー転左中将(大夫如元)。同六四卅従三位。治暦二二ー兼周防権守。延久元十二ー辞大夫。同四二ー任兵部卿。承保二六ー遷大蔵卿。同四正十一正三位(行幸陽明門院。院司賞)。


大江匡房 永長2年(1097年)、大宰権帥に任ぜられ、翌承徳2年(1098年)、大宰府へ下向する。康和4年(1102年)には大宰府下向の労により正二位に叙せられるが、まもなく大宰権帥を辞任した。

藤原保実 康和4年(1102年)正月:大宰権師→三月に死去


藤原季仲 康和4(1102)年大宰権帥

藤顕季 天仁2年(1109年)太宰大弐、修理大夫

源基綱 永久4年(1116年)正月30日:太宰権帥、11月7日:赴任

藤原重資 記録なし

藤原俊忠 記録なし

藤原長実 長承2年(1133年) 兼大宰権帥

藤原経忠 大治3年(1128年)正月24日:大宰大弐

藤原実光 長承2年(1133年)2月22日:大宰大弐(去大弁)
保延2年(1136年)11月4日:権中納言、大宰権帥

藤原顕頼 保延5年(1139年)(46歳)正月5日:正三位正月24日:大宰権帥兼任

平実親 記録なし

藤原忠能 『兵範記』の保元二年冬記の紙背文書に見られる、「鎮西凶悪輩、可レ令二召進一之由、雖下被レ下二宣旨一候上、大弐卿、依二被レ申事候一、如二只今一者、未レ定候、可二定下遣一之時、可レ申二案内一候歟、謹言 正月十八日 播磨守」という記事。播磨守清盛から摂関家の家司であった平信範に送られてきた保元二年正月十八日付の文書で、鎮西の凶悪の輩の追討宣旨が出されたが、太宰大弐藤原忠能の申し出により追討使の派遣は控えているので、派遣の折はお知らせしますという内容。

藤原季行 大治5年(1130年)に阿波守に任ぜられて以降、能登国・因幡国・武蔵国・土佐国・讃岐国等の国司や大宰大弐など地方官を歴任する。

平清盛 1158年(保元3年)に平清盛が大宰大弐

藤原顕時 1162-1164 大宰権帥

藤原隆季 治承3年(1179年)11月20日:大宰権帥兼任

藤原実清 記録なし

吉田(藤原)経房 文治元年(1185年)10月11日:大宰権帥を兼任

藤原頼能 建久元年(1190年)従三位・大宰大弐に叙任される。

藤原季能 記録なし

平宗頼 記録なし

平頼盛 永万元年(1165年)7月に大宰大弐となり、仁安と改元された8月27日には従三位に叙せられて、平氏で3人目の公卿となった。

平信隆 記録なし

平重家 記録なし

延べ六十四名のうち「大弐」二十一名、「権帥」二十四名、「記録なし」が十七名








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