古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「殯」と「寿陵」(磐井以降)

2024年03月16日 | 古代史
 前王が死去した後の「殯(もがり)」の期間は通常「蘇生」を願う「魂ふり」が行われ、その後「蘇生」が適わないとなった時点で「魂鎮め」へと移行するとされますが、本質的には「次代」の王を選定する期間でもあります。つまり前王の生前には次代の王は予定されておらず、前王の死後決定されることとなるわけです。
 「倭の五王」の時代「済」の死後、後継者として「世子」である「興」が選ばれたようですが、それが生前から決めてあったことなのかは疑問です。つまり「直系相続」というスタイルが既に決まっていたのかというとそうではないと思われるわけです。それはその直前の「讃」から「珍」への交替において「兄」から「弟」へと継承されたらしいことからも推測できます。(ただし「珍」と「済」の関係は不明)つまり「興」の場合のように「世子」とされることとなったのは「前王」の死後であり、皇族や臣下などの間で協議により決められたものではないかと推測されるわけです。
 たとえば、「推古」の死後「山背」と「田村」双方の皇子について、それぞれを推す臣下間で協議が行われたように、さらには『懐風藻』にあるように「皇太后」が主催して各位に意見を聞く機会が設けられたように、前王の死後に初めて次代の王をだれにするべきなのかが話し合われたと見るべきでしょう。
 またこれは意見が決裂するという可能性があり、その場合争いになることもまた起こりうるということを示します。「山背」と「田村」の場合が典型的であったと思われるわけです。またいわゆる「壬申の乱」においても同様のことが起きたものと思われます。
 ところで、よく言われるように「殯」の期間は「陵墓」の造成期間でもあると思われます。「殯」の後葬儀が行われるという推移からいうと、「陵墓」が未完成では「葬儀」が行うことはできないわけです。しかも「葬儀」では「誄(しのびごと)」が奏されるわけですが、そこには「日嗣ぎの次第」が含まれており、「後継者」が決まらなければ「日嗣ぎの次第」も述べられず、「誄」を奏することもできないこととなります。
 つまり葬儀が行われるためには後継者が決まっていると共に陵墓が完成している必要があることとなるでしょう。当然それには時間(日数)が必要ですから、ある程度の期間が「殯」の期間として確保されていたということを示します。
 これらのことを考えると、注目されるのは「磐井」の場合です。
 「風土記」によれば彼(磐井)は生前から陵墓を築いていたとされます(「岩戸山古墳」がそうであるとされている)。

「上妻縣.…古老傳云:「當雄大跡天皇之世,筑紫君磐井,豪強暴虐,不偃皇風.生平之時,預造此墓.…」「筑後國風土記」

 上に見たように陵墓の造成期間が次代の王を選出する期間であるとすると、「磐井」の場合、生前のうちに「次代の王」つまり「日嗣ぎの皇子」が選定されていたこととなる可能性があるでしょう。(というより複数名の皇子がいて彼等の間に優先順位がつけられていたという可能性があると思われます。)
 このようないわば「念入り」のことが行われた背景には「武」の「父兄」が一気に亡くなったという「武」の上表文にあるような事態が想定されていると思われます。(上の中では「皇風にしたがわない」という文言に続いて「生平の時あらかじめ墓を作る」と書かれており、「生前に墓を作る行為がとがめられている」と思われ、それは『書紀』の大義名分からの文章と思われますが、逆に言うと「皇風」とは「生前に墓を作る」ことであり、それは「最高権力者」だけに認められていたことを推定させます。)
 「五世紀半ば過ぎ」に「倭国王」である「済」とその「世子」「興」等の倭国王権の主要人物が(推測によれば「天然痘」により)一挙に亡くなったと思われ、その際に、その後継が決まっておらず「末弟」で幼少であった「武」の成長を待つ間「皇太后」が称制せざるを得なくなったということが苦い経験としてあったものと思われます。そのことから生前中に後継者など「皇位継承順」をあらかじめ決めておくこととなったという事が推察されます。またそれは「後継者」をめぐる争いをなくすという意味でも必要と判断されたという可能性もあるでしょう。
 「葛子」はその意味で「世子」であり、また「太子」であり、いわゆる「日嗣ぎの皇子」であったと思われ、そのため「筑紫の君」と称されているのではないでしょうか。これは「父」である「磐井」と同じ呼称であり、「筑紫」の領域の統治権を正式に「磐井」から継承していた事を明白に示しています。しかし、「物部」などとの戦いの最中に後継者を決める協議が行われていたとも思われませんから、「葛子」は以前から「日嗣ぎの皇子」として存在していたものと思われるわけです。
 「筑紫の君」として登場するのは父である「磐井」の死後一ヶ月以内のことですから、このような早さで「後継者」が決められるというようなことがあったと考えるより、あらかじめ決められていたと考える方が穏当というものです。
 また彼は「長子」であった可能性が強く、この時点で「倭国王」の継承方法として「直系相続」が決められたものではないでしょうか。
 『隋書』では「倭国王」である「阿毎多利思北孤」の存命中に「太子」が存在しているようですから、これも同様に「皇位継承者」をあらかじめ決めてあったものと思われ、「磐井」の時代のスタイルがそのまま続いていたことを推定させます。
 そう考えると「阿毎多利思北孤」は生前の段階で「陵墓」を既に築造していた(これを「寿陵」というようです)という可能性が高くなるでしょう。しかも彼(というより太子である「利歌彌多仏利」)は「殯」を行わなかったという可能性もでてくるでしょう。
 なぜなら、「殯」の期間が次代の王の選出と陵墓の造営期間であるとすると、生前に「太子」が選定され、陵墓も造営されていたとすると、「殯」そのものがなかったという可能性さえ出てくるからです。
 彼や父である「阿毎多利思北孤」は「仏教」に深く染まっていたと思われますから、その意味からも「殯」という古典的であり、旧式でもあった儀式を行わなかったものとも考えられ、「殯」そのものがなくなったかあるいはそれまでに比して極端に短くなったということが推定されます。
 私見では「薄葬令」は彼等が造ったものと見るわけですが(これについては別途)、そこでは基本的には「殯」の期間は無いものとされており、この推定を裏付けます。

「甲申。詔曰。…凡王以下小智以上之墓者。宜用小石。其帷帳等宜用白布。庶民亡時收埋於地。其帷帳等可用麁布。一日莫停。凡王以下及至庶民不得營殯。凡自畿内及諸國等。宜定一所。而使收埋不得汚穢散埋處處。…」「孝徳紀」の『薄葬令』より

 ここでは「凡王以下及至庶民不得營殯」とあり、「薄葬令」中に見える「王以上」という言葉と比べて考えてみると「王権」の中心的人物を除いてすべての人物の死において「殯」を営むことを禁じる規定であると判断できます。(ただし「王以下」の場合、「後継者」についてはあらかじめ決めておくべしということなのか、あるいはそのような人物を「倭国中央」が指名して決めるという意味であったのかはやや判然としません)
 この事から「阿毎多利思北孤」や太子「利歌彌多仏利」の死の際には「殯」はあった可能性もありますが、それがいわゆる「もがり」というべきものであったのか、あるいは期間として相当の長さであったのかというと甚だ疑問であると思われます。
 この事から考えて「磐井」の場合も当初予定されていた「殯」の期間はそれまでに比べ相当短かったか、あるいは全くなかったという可能性があるでしょう。(実際には乱が起きたため「殯」が予定されていたとしてもそれどころではなくなったと思われるわけですが)
 そしてそれは「磐井」と「仏教」の関係の深さにもつながるものと思われます。
 ところで、『隋書俀国伝』には「倭国」における「葬儀」について「貴人の場合」は「三年間」とされています。

「死者斂以棺槨、親賓就屍歌舞、妻子兄弟以白布製服。貴人三年殯於外、庶人卜日而瘞。及葬、置屍船上、陸地牽之、或以小輿。」

 これによれば「隋」へ派遣された使者は「倭国」の風俗について問いに答える中で「葬儀」について、「貴人」には三年間の「殯」の期間があるとしたわけです。これは上の推定と一見食い違っているようですが、その背景には「磐井」に対する反乱の影響があるように思われます。
 この部分に限らず、この「風俗」について述べられた部分にはあまり「仏教的」な雰囲気が見られません。確かに「如意寶珠」に関する逸話が書かれていますが、これは「阿蘇山」に対する「火山」信仰が形を変えたものであり、根本の部分で「古典的」といえるものです。このように全体として「仏教的」な雰囲気が薄いと見られるわけですが、それは『書紀』によってもあるいは多元史観においても「仏教」の伝来とその信仰の興隆がそれ以前に既にあった可能性があることとやや矛盾するといえるでしょう。
 その理由について考えてみると、「磐井」が「物部」の反乱により死に至った後、国内に「鬼神信仰」への回帰ともいうべき状況が生まれていたことを示すものと思われます。
 「物部」は『書紀』のエピソードにもあるように「反仏教」的立場にいたわけですが、では彼の行動を支配していた「信仰」はどのようなものであったかというのは明確ではないものの古典的な「鬼神信仰」ではなかったかと考えられます。(『書紀』内で「天神地祇」への信仰が書かれています。)
 すでに明らかとなっているように半島において「五世紀後半」という時期に「前方後円墳」が集中的に営まれます。このことが「倭国王権」による「拡張政策」の一環であり、半島において「倭国」の信仰が局地的ながら行われたことを示すものと思われますが、この「前方後円墳」は「五世紀末」に突然その築造が停止されます。このことは「武」の時代以降「拡張政策」が停止されたことを示すと思われ、「半島」や「東国」への武力侵攻や武力による威嚇などの政策は方針が転換された結果取りやめられ、倭国の中心部においては「文治政策」へと移行したものと見られます。
 「鬼神信仰」はそれまで「倭の五王」の「讃」や「珍」などの時代まで「倭国」において中心的位置にいたと思われますが、彼らと「南朝」との結びつきが強まるに及んで、当時南朝で発展し「国教」的位置にいた「道教」が国内に流入したものと思われます。
 「倭国」における「古典的」な宗教である「鬼神信仰」はその「道教」と(完全にではないものの)その一部が結びついて「王権内部」で信仰されるようになったものと思われますが、これは当時拡張政策をとっていた「王権」において「戦い」における「守護神」的な位置に置かれていたものであり、その時代にはかなり篤く尊崇されていたものと思われます。しかし、「拡張政策」の停止と共に「倭王権」の立場として「仏教」を重んずるものへとシフトしていったものと思われるわけです。
 「仏教」はすべてのものに「生命」を見出す性格があり、「血」を好みません。つまり「戦い」においては「無力」というより「邪魔」であったものですが、政策の変更により状況が一変し、「鬼神信仰」やそれと同一化していた「道教」は王権から排除され、「仏教」がその中心に据えられることとなったものと思われます。このため「武」の治世の後半「太子」として「磐井」が定められることとなって時点以降、王権の治世の中心に「仏教」が据えられたものと思われますが、そのことが「陵墓」の生前造営と「太子」の生前予定という事につながっていると思われます。
 しかしそのような状況に反旗を翻したのが「物部」を中心とした「戦闘集団」であったと思われ、彼等は「仏教」が重視されることと、それによって排除されることとなった鬼神―道教信仰というものとを自らに重ねて考えていたものと思われます。自分たち戦闘集団が軽視される、排除される事態に対して異議を申し立てる意味で立ち上がったものと思われるわけであり、この「反乱」により「磐井」率いる「筑紫」本国の勢威が大きく低下した結果、「仏教」もその位置を低下させ、再び「鬼神―道教信仰」が倭国の宗教のメインストリームに出ることとなったものではないでしょうか。そのことが『隋書俀国伝』に書かれた「葬儀」の描写に反映していると思われるのです。
 「倭国」からの使者は「隋皇帝」に対して統治形態について説明したわけですが、その情報の範囲には貴人に対する「殯」の儀式についても含まれていたものであり、それら全体として非仏教的である点について「隋皇帝」から「無義理」とされ「訓告」を受けたと書かれており、それらは以降改定されることとなったと思われるわけですが、「殯」の停止と陵墓の生前造営がその流れの中にあったものと推測します。
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