古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「遣隋使はなかった」か?(再々再度かな)

2024年01月21日 | 古代史
この頃研究も進まず、過去の論を見ているだけではありますが、やはり、何度でも言わずにいられないという気分になり、いくつか並べてみることとします。

「『遣隋使』はなかった」か?(一) ―「宣諭」という語の解釈を中心に ―

「要旨」
 ここでは「宣諭」という用語の意義から考えて「無礼」な国書を咎める内容の指示、あるいは強い指導とでも言うべきものが「倭国」に施されたと見られること、それは「隋」から見ると「許されない」性質のものであったために行なわれたものであり、国書の持つ本来の意義から考えて、このような「無礼」な国に対して「友好的な」内容の国書などは出されるはずがないこと、さらに「文林郎」という職掌は国書提出の任にないこと、以上から『推古紀』の「国書記事」と『隋書俀国伝』の「大業三年」記事とは大きく齟齬するものであり、同一の事象に関することではないということを改めて述べるものです。

Ⅰ.「宣諭」という用語について
 古田武彦氏はその著書(及び講演など)で『推古紀』の「遣隋使」記事について、それが実際には「遣唐使」であり、「国書」は「唐の高祖」からのものであるという指摘をしました。(註1)それは『隋書』の「大業三年」及びその「明年」とされる記事と、『書紀』の「推古十五年、十六年」記事とが同一事象を指すという、従来の常識であり立脚点ともなっていたものを覆したという点で画期的であったと思われます。実際には『書紀』編纂者が『隋書』を見ていたという可能性が高いわけですから、この二つが一致する事が即座にこれが「史実である」という証明に直結しないのは本来当然であったわけです。
 古田氏は『隋書俀国伝』の「大業十三年記事」と『推古紀』の記事とは食い違うと言う事を指摘されたわけですが、さらにそのことを別の部分に着目して述べてみようと思います。それは「宣諭」という用語です。
 『隋書俀国伝』の「大業三年(六〇七年)記事」によれば、「倭国」から「使者」が派遣されたその翌年(六〇八年)「皇帝」は「裴世清」を使者として「俀国(倭国)」に派遣したとされ、「俀国王」に面会した「裴世清」は以下のように話したとされます。
「…清答曰 皇帝德並二儀澤流四海、以王慕化故遣行人來此『宣諭』。」(『隋書/俀国伝)
 この中では「宣諭」という用語が使用されています。この「宣諭」というのは「皇帝」の言葉を「口頭」で伝えることにより「教え諭す」意です。つまり、この「大業三年」の「隋使」(裴世清)の派遣は、その前年に行われた「倭国」からの遣唐使が持参したという国書があまりに「無礼」であったため、それを「宣諭」するために行われたとみられるわけです。(上に見るように「清答曰」とされ、「口頭」で「宣」しています。)
 この前年の「遣唐使」がかの有名な「日出ずる国の天子…」という有名な国書を提出したとされているわけです。
(以下『隋書俀国伝』の当該部分)
「大業三年其王多利思比孤遣使朝貢。使者曰 聞海西菩薩天子重興佛法、故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法。其國書曰 日出處天子致書日沒處天子無恙云云。帝覽之不悅謂鴻臚卿曰 蠻夷書有無禮者勿復以聞。」
 このように「倭国」からの国書に対して「皇帝」(煬帝)は「蠻夷書有無禮者、勿復以聞」と「無礼」であるとして「不快」の念を示したとされています。
 この「不快」の原因については「天子」が複数存在しているような記述にあるとするのが一般的です。それは「隋皇帝」にしてみれば「身の程を知らない」言辞であると考えられたものと思われ、そのような「隋皇帝」の「大義名分」を犯すような言辞に対して憤ったものであると理解できます。(いわば「帝」を「僭称」したものと理解された可能性さえあります。)
 『隋書』の記事配列においても「無禮」という言葉に対応するように「宣諭」が置かれていると見るべきでしょう。つまり、「隋皇帝」に対して「無礼」を働いたこととなるわけですから、そのことをいわば「説教」するために「裴世清」は派遣されたものと見られることとなり、ここで言う「宣諭」にはそのような意義があったものと思われます。
 『隋書』や『旧唐書』他の資料を検索すると複数の「宣諭」の使用例が確認できますが、それらはいずれも「戦い」や「反乱」などが起きた際あるいは「夷蛮」の地域などに派遣された使者(「節度使」など)の行動として記され、「宣諭」が行なわれるという事自体が既にかなり「穏やかではない」状況がそこにあることを示すものです。たとえば『隋書』には以下のような記述があり、これは「突厥」内部の「可汗」同士の争いの際に双方から援軍要請があり、その際に使者を派遣して「宣諭」したとされ、その結果「為陳利害,遂各解兵」とされています。

 「…其後突厥達頭可汗與都藍可汗相攻,各遣使請援。上使平持節『宣諭』,令其和解,賜縑三百匹,良馬一匹而遣之。平至突厥所,為陳利害,遂各解兵。可汗贈平馬二百匹。及還,平進所得馬,上盡以賜之。」(『隋書/列傳第十一/長孫平』より)

 また同じく『隋書』には以下のような記事もあり、「煬帝」が「高句麗」へ遠征した際の逸話として「城」を敵軍に囲まれる状況の中で「賊」(敵)側に対して「閻毗」という人物に「宣諭」させたとされます。

 「…及征遼東,以本官領武賁郎將,典宿衞。時眾軍圍遼東城,帝令毗詣城下『宣諭』,賊弓弩亂發,所乘馬中流矢,毗顏色不變,辭氣抑揚,卒事而去。…」(『隋書/列傳第三十三/閻毗』より)

 これらも含め「宣諭」という語が使用されるのは「戦場」が舞台であることが多く、このような用語が「倭国」に対して使用されているということは、ある程度の「緊張」状態が「隋」と「倭国」の間に発生していたことを示すものであり、そのような状況は『書紀』に書かれた国書の内容として、穏やかな国交の状態を表す内容とは明らかに「齟齬」するものです。

Ⅱ.国書の意義
 『隋書』によればこの時使者として「外務官僚」ではない「文林郎」という職掌の「裴世清」が派遣されたものですが、それは上に見たように、このような「無礼」を働いた国に対しては「正式」な「外務官僚」などが派遣されるはずがなかったことを示していますが、また、そのような場合には国書などを持参することなどもなかったと考えられる事にもなります。それは「倭国」の示した「無礼さ」に応じた措置であったとみられるものです。
 つまり国書とは「正式」なものであり、フォーマルなものですから、これを持参するのは「外務官僚」か「特命全権」として派遣される「高位の官人」(それは「高表仁」のようなケースが相当すると思われます)に限られると思われ、そうでない場合(「文林郎」などの官職の場合)には国書が持参されるというような事はなかったであろうと考えられるわけです。
 しかし、『書紀』によれば(以下の記事)あたかもこの時国書がもたらされたように書かれており、しかもその中では「皇帝」は「倭国」からの国書で示された「無礼さ」に対して批判・非難の類いを一切行っていません。
(以下『推古紀』の「裴世清」来倭記事の抜粋)

「…皇帝問倭皇。使人長吏大禮蘓因高等至具懷。朕欽承寶命臨仰區宇。思弘徳化覃被含靈。愛育之情無隔遐邇。知皇介居表撫寧民庶。境内安樂。風俗融和。深氣至誠。達脩朝貢。丹款之美。朕有嘉焉。稍暄比如常也。故遣鴻臚寺掌客裴世清等。稍宣徃意。并送物如別。…」(『(推古)十六年(六〇八年)秋八月辛丑朔壬子条』より)

 ここでは「達脩朝貢。丹款之美。朕有嘉焉」とされ、型どおりではあるものの「友好的」な言辞を弄してさえいます。『隋書』に言うような「諭す」様な文面も全くなく、『隋書』の内容と大きく齟齬していることが分かります。
 『隋書』によればあくまでも、口頭で「宣諭」するというレベルの外交を展開したわけであり、だからこそ「鴻廬寺掌客」のような下級ながら正式な外務官僚ではなく「文林郎」という本来「外交」とは何の関係もないような(しかし「皇帝」に近侍していたと思われる)職掌の人間を充てた理由であると思われます。(『書紀』では「鴻臚寺掌客」が国書を持参したとされていますから役柄としては整合しています。これを「文林郎」に「鴻臚寺掌客」を「兼務」させる事で国書持参を可能にしたとするなら、そもそも最初から「鴻臚寺掌客」を派遣すればいいだけの話ですから無理な考え方であると思われます)
 「隋」など、歴代中国の外交の要点は「権威」の誇示であり、「大義名分」の誇示であったと思われます。つまり自分たちが「四夷」の頂点にいる「皇帝」の国であるという主張(中華思想)を周囲に認めさせることであったと思われ、そうであれば「倭国王」が行った「対等性の主張」などは「言語道断」であり、それは笑って済ませられる性質のものではなかったはずです。このことからもこの「裴世清」記事と『隋書俀国伝』に示された「大業三年記事」とは整合しないものと思われるわけです。
 では古田氏の言うように「十年以上」下った「初唐」の時期のことであったのでしょうか。ところがそうとは言い切れない部分があると思われるのです。なぜならこの時の「倭国王」からの国書の中身は外交儀礼を「無視」したあるいはそのことに対して「無知」であったものと考えられるわけであり、そのような「倭国」に対する「マイナスイメージ」は「唐王朝」にも引き継がれたものと推量されるからです。
 もし仮に『書紀』に書かれた「使者と国書」が「唐」からのものであったとすると、「唐」は「隋代」に「無礼な国」というレッテルが貼られた「倭国」に対して「国書」を提出し、しかもその中で「友好的言辞」を書きしたためたこととなります。しかし、それは「あり得ない」こととなるのではないでしょうか。「隋」の皇帝が貼った「無礼な国」というレッテルは、「隋」を襲った「唐」においても同様の認識ではなかったかと考えられるものです。
 確かに「王朝」は交替していますが、「倭国」からの国書は「隋」の皇帝だけというわけではなく皇帝一般に対する権威全体を否定していると言えるものですから、「唐王朝」にとっても許容の範囲を超えていたものでしょう。そうであれば特に「倭国」に対して寛容でなければならない事情はなかったと思われます。
 「高麗」へは「唐」成立後すぐに使者を派遣し、国書を持参させたわけですが、それは「高麗」が「唐」の「前王朝」である「隋」の攻撃を跳ね返し、「隋」滅亡のきっかけを作ったものであり、、また「国境」を接しているわけですから、「強国」として意識せざるを得ないものがあったからと思われます。さらに「唐王朝」は「隋」と「高麗」の間で行われた戦いで捕虜になった人たちの相互交換を行う必要があったものであり、その意味でも「高麗」へのアプローチは急ぐ必要があったでしょう。
 またこの「高麗」への国書は『旧唐書高麗伝』によれば「武徳五年」(六二二年)のこととされています。それに対し古田氏はこの『推古紀』の国書記事について、「十二年ずれ」である可能性を論じていますが、それに従えば「六二〇年」に「裴世清」が国書を持参したこととなり、「高麗」よりも先に「使者」が送られたこととなりますが、今見たようにそれほど「倭国」の優先順位が高かったとは思われないことを考えると不審といえるでしょう。
 「倭国」は「高麗」と違い「遠絶」の地域であることや両国間の問題の深刻さのレベルの違いなどがあったものであり、それを考えると「唐」成立後「倭国」との間に本格的な国交回復を急ぐべき事情や必要性は(少なくとも「唐」の側には)なかったものと考えられるわけです。
(以下続く)

(註)
一.古田武彦「古代は輝いていたⅢ 法隆寺の中の九州王朝(第四章「推古朝の対唐外交」)」朝日新聞社一九八五年によります。さらに同趣旨のものとして「古田武彦講演録一『日本書紀』の史料批判 遣隋使はなかった」市民の古代・古田武彦とともに第三集 古田武彦を囲む会編一九八一年があります。

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