古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「伊都国」の位置についての新理解(再度)

2024年01月10日 | 古代史
 以下は以前投稿したものですが、最近「古田史学の会東海」で同様の思惟進行の論(「東海古代研究会」の会報「東海の古代」第277号、田沢 正晴氏の「伊都国は吉野ヶ里だった」)を見たので、同意する意味で再度投稿するものです。
また氏の論の中に「上陸地点」も「伊都国」もどちらも「肥」の国としてとらえることができるという指摘は強く示唆的であり、その後「倭王権」が「肥後」方向に移動したと見る立場からすると、それもまた同一統治領域の中の移動としてとらえることが可能となり、移動に関わる政治的理由もわかりやすくなります。

『倭人伝』に出てくる「伊都国」について新しい理解に到達したので、以下に記します。
『倭人伝』には以下の記述があります。

「東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸。世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。」

 この『倭人伝』の記事からわかるように「郡使」の常に「駐」(とどまる)ところとされる「一大率」の本拠地が「博多湾」に面しているとして、そこが「首都」防衛に適した拠点であるとすると、『倭人伝』に記された「末盧国」からの方向指示と合わないという問題があります。
 通常の理解では、後の大津城などがそうであったように、現代の平和台付近に「伊都国」の本拠があったと想定しており、『倭人伝』の「末盧國…東南陸行五百里、到伊都國」という記事の「距離」だけを抜き出して、平和台付近から「五百里」(これを約四十キロメートル程度と見る)唐津街道を使用したとして移動すると「唐津城」の手前までで四十キロメートルをやや越えるぐらいになります。この付近に「津」あるいは「末盧国」の政庁があったとみるのが一般的のようです。
 これについては正木氏はさらにそれより遠方の唐津半島先端の「呼子」付近を措定しているようです。(※1)ただし、この「呼子」付近を「末廬国」と想定する考え方は『倭人伝』内で「一大国」から千里とされた里程からみると少し近すぎるという点も疑問とするところであり、さらにそれ以前の時代の「甕棺墓」の分布をみても「松浦川」を越えると埋葬の形態に差が生じることなどからも、同一祭祀圏とは言えないと思われ、当時の王権の及ぶ範囲の外ではなかったかと疑われるものであり、前代のこととはいえ松浦川をあまり大きく越えない場所に「末盧国」の「政庁」の位置を措定すべきと思われます。
 私見では「唐津」付近に「津」及び「政庁」位置を措定しているわけですが、「唐津」には「松浦左用姫」の伝承で名高い「鏡山」があり、この「鏡山」はその伝承が示すように「唐津湾」を遠くまで一望できる要所ですから、ここに「一大率」の出先が陣を張っていたという可能性が高いものと推測します。その「松浦左用姫」の伝承は「五世紀」のものとされますが、その中で「大伴狭手彦」がこの「唐津」から半島へと向かったとされているのも、この地が以前から「一大率」の出先としての軍事的拠点でありまた外国との使者の往復に使用される港であった過去を反映しているという可能性もあるでしょう。
 そもそも正木氏も云うように(※2)「行程」の里数はその国の「政庁」的中枢の施設までのものであるはずですが、水行の場合は「港」までを指すものと思われ、そう考えると「末廬国」のように「水行」から「陸行」に変る地点においては、到着した「港」と「政庁」とが同一地点にあったと考える必要はなく、また実態としてもそれらが(大きくはないとは思われるものの)離れているとして考えて不自然ではないわけであり、「政庁」まで若干の距離があったと見ることもできるでしょう。その意味で入港は「現唐津城付近」と思われるものの、「一大率」の出先機関が「鏡山」という軍事的要衝を押さえていたとみれば、そこは「政庁」的役割をしていた可能性が考えられ、「魏使」はこの「鏡山」付近に至ったという可能性が考えられます。これについては「末廬国」の官名が『倭人伝』内に書かれていない理由として「一大率」が「末廬国」を直轄していたということがその理由として考えられ、そうであるならば「一大率」の出先と「末廬国」の中枢が一致しているのは当然であり、「鏡山」に「末廬国」の中枢としての「政庁」的建物がありそこに魏使が引率されたと見て不自然ではないと思われます。
 このように「末廬国」の「政庁」所在地を「鏡山」付近と見たわけですが、上に述べたように「博多湾岸」に「一大率」の本拠としての「伊都国」があるという想定では「東南五百里至伊都国」という表記の「東南」という方向指示と整合しなくなります。
「伊都国」が「伊都平野」にある、あるいは「博多湾」に面しているといういずれの理解においても、明らかに「終点」への「大方向」としては「東南」ではなく、どちらも「東」あるいは「東北」といった方が適切なこととなります。
 以前はこの「東南」という方向指示が「錯誤」ではないかと考えた時期もありましたが、この「方向指示」については、それを「始発方向」であるという古田氏の理解とは異なる考え方にならざるを得なくなったのが現実です。
 この『倭人伝』の記載の原資料として有力視されるものは「卑弥呼」への「金印他」を仮授するために派遣された「建忠校尉梯儁等」による「復命書」と、さらにその後「狗奴国」との争いについて「告諭」のために訪れた「塞曹掾史張政等」がもたらした「復命書」を併せたものが原資料の中で大きなウェイトを占めていただろうと思われ、それはたとえば「告諭」に対して「邪馬壹国」率いる「諸国」や「狗奴国」が仮に従わなかった場合、「魏」としては本格的な軍事介入をしなければならなくなる可能性もあり、そう考えると「復命書」は「軍事的」な情報という側面を必ず持っていたものと思われます。そうであれば「始発方向」にどれほどの軍事的価値があるといえるのでしょうか。それよりも重要なことは「大方向」であり、そこに至るまでの日数と道のり距離であって、その途中に横たわる障害の有無などです。つまり、川や谷あるいは山や峠の情報は必須であったと思われると同時に「大方向」つまり目的地の出発地から見た方向と日数あるいは距離がそこに明確に読み取れなければ「軍事的情報」の価値は著しく減少するものであり、「復命書」の目的を果たしているとはいえないこととなります。たとえば「唐津」からの行程は古田氏が言うような「一本道」ではありません。複数の方向へ進むことが可能であり、しかもその「分岐点」は一個所ではありません。「伊都国」(その中心拠点が博多湾岸にあるとした場合)へ海岸沿いに進むためには、もし「唐津港」付近に上陸したとして出発地点もその付近を措定すると、そこから東南に行くとまず松浦川沿いに南下するルートとの分岐点があり、それを越えて東に行くと今度は「玉島川」に沿って「東南」方向へ行くルートとの分岐の場所が存在します。このルートが魏使の通った路であるという理解もあるぐらいですから、このように分岐点を複数通過することを考えると、「東南」の一語で「博多湾」への進行方向を指示することにはほとんど意味がないこととなってしまいます。古田氏が言うような「一本道」とは言いがたいということです。そうであればこの「東南」とは始発方向を示すものではないと考えるべきこととなるでしょう。それはたとえば「倭」の所在する場所として『倭人伝』冒頭に「帯方の東南大海の中にある」という言い方にも現れていると思えます。
 ここで「東南」とされているのは決して「始発方向」ではなく「倭」の位置についての「大方向」表示であり、このような「大方向」表記が『倭人伝』の各々の区間表記としても有効であったと見るべきであって、「伊都国」の場所についての「東南五百里」というものも「大方向」表記ではなかったかと見られることとなるでしょう。しかし「末廬国」から「伊都国」へと向かう場合、これが「伊都平野」や「博多湾」を目指すものとすると、行程のほとんど全ての区間において「東北方向」へと進行することとなってしまいます。このような状況下で「東南」と書いてそれで「軍事的情報」として有効であるとはとてもいえないものであり、このことから現時点では、この「東南」という大方向指示は「正しく」、「博多湾岸」に「伊都国」の本拠があるとする理解の方に問題があるということに現時点でやっと到達できたものです。(「陸行」という表記が「実移動の実態を示す」という理解とも矛盾しないということも重要です)
 報告書に目を通した「皇帝」あるいは「鴻廬卿」など側近達が「伊都国」の位置について不正確な情報に惑われたと見るのは明らかに不審であり、そのような「不出来」な報告書が作られたと見るのは「恣意的」な推定でした。
 以上のように考えると「末廬国」から「大方向」として「東南」に実際に進むとすると「松浦川」沿いに進行するのが最も考えられる行程であり、このルートでは筑後方面(吉野ヶ里方面)へと出ることとなります。具体的な場所は不明ですが、「五百里」という距離数から見て現在の「佐賀城」あるいは「吉野ヶ里」付近がそうである可能性があります。ここに「伊都国」があり「一大率」がいたと想定することも十分可能と思われるわけです。ただしその場合でも「一大率」は重要港湾であった「博多湾」の防衛も併せて担っていたと見るべきでしょう。その場合「有明海」に面する付近に「伊都国」があり、さらに「博多湾」の防衛を担っていたとすると「伊都国」の領域は相当広大なものとなりそうですが、そう見るより「博多湾岸」にも「末盧国」のごとく「一大率」の「出先機関」があったと見ればそれほど不合理な話ではないと思われます。
 従来「伊都平野」や「博多湾」に措定されていた「伊都国」本体に変わり「水軍」を主体とする強力な部隊が同じ場所に展開していたとみるのが相当でしょう。「末盧国」には国内諸国や国外の艦船の出入りがあり「一大率」の配下の者がそれを管理していたものであり、また「博多湾」には(もちろん有明海に面した場所にも)「一大率」を含めた「邪馬壹国」の「倭王」率いる「艦船」がいたとみてそれほど無理はないと思われます。このように考えると『倭人伝』の記事で「斯馬国」が「遠絶」とされていることが理解しやすくなります。

「…自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。次有斯馬國、…」

 この「斯馬國」が現在の糸島半島付近にあったとするのは衆目の一致するところですが、この場所は従来想定されている「末盧国」からの移動ルートに非常に接近しています。にも関わらず「遠絶」とされていることは、そもそも「魏使」達はこのルートを使用しなかったからではないかと考えられます。(「女王国以北」という範囲はあくまで移動ルートの至近に限定した表現と思われるわけです)
 以上のように「伊都国」への方向指示として「東南」を「大方向」として正しいと考えると、「伊都国」を基点としてその位置と方角が書かれている(と私見では見ている)他の国の位置推定にも影響を与えます。

東南至奴國百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴母離。有二萬餘戸。
東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離。有千餘家。
南至投馬國水行二十日。官曰彌彌、副曰彌彌那利。可五萬餘戸。
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮。可七萬餘戸。

 これら「奴国」「不彌国」「投馬国」「邪馬壹国」の諸国も「筑後」周辺にその位置を求めることにならざるを得ません。またこう考えると「南至投馬国水行二十日」という記述がにわかに自然に思えてきます。つまり「有明海」に直接面した場所に「伊都国」の主たる領域があったとすると、「投馬国」への基点としてこれほど適切な場所はないと思えるからです。
 従来は「末盧国」や「博多湾岸」からいったん「北上」しつつ九州島を西に迂回しながら南へ向かうという導線を考えていたものですが、「伊都国」つまり「一大率」が「有明海」に至近であるなら、「投馬国」へ向かう場合も「有明海」を利用するのが自然です。(起点はあくまでも「伊都国」とみられます)
 この「投馬國」について私見では「薩摩」つまり現在の「鹿児島県」を想定していますが、のちの天平年間にも大宰府から「多褹」へ帰国する人夫や僧侶が「筑後川」河口にあった津から出発したらしいことが「正税帳」から推定できます。
 天平十年の『筑後国正税帳』によれば「種子島」(多褹)の「僧侶」二人についてその帰路の食料として二十五日分が支給されています。

「得度者還帰本嶋多褹僧貳躯《廿五日》単五拾人食稲貳拾束《人別四把》」(『筑後国正税帳』より)

 他にも同様に「多褹」の人間「二十八人」にその帰国の途中食料として二十五日分を支給した記事が見えますから、この時「太宰府」から「多褹」への帰国は二十五日を必要としていたことが窺えますが、これはそのルートとして「陸路」を想定していないことを示すと思われ(陸路を行くのであれば途中の国である「肥後」「薩摩」を経過する際それぞれの国庁から食料が支給されるはずであり、これだけ大量の食料を「筑後」で支給しているのは途中の「国庁」つまり「肥後」「薩摩」両国の内部を経由しないことの表れと思われる)、「多褹」への往復(というより「多褹」も含め「大宰府」から見て南に位置する遠方地域との往還)には全て「水行」が利用されたといえそうです。(※3)
 このルートは天平年間だけではなくそれ以前から利用されていたであろうことは容易に推定でき、その意味で「一大国」の本拠としての「伊都国」が「筑後川」の河口付近に所在していたと推定することは不自然ではないと考えます。(※4)
 「投馬国」が「薩摩」と措定すると、「太宰府」から「多禰」まで「二十五日」を水行していったと理解できる『正税帳』の記事との比較から考えて(多少航海術や船の構造などが進歩したことを想定しても)、「投馬国」までの二十日間というのがそれほど誇大な数字ではないことが理解できます。「多褹」との往復には「筑後川」を利用したとみられますから、かなり距離は短かったと思われるものの、「薩摩」と「多褹」との距離差を考慮すると「投馬国」への「水行二十日」は不自然ではないと見られ、「有明海」の海岸沿いを「沿岸航法」により航海したものと見られます。
 
※1.正木裕「「末盧国・奴国・邪馬壹国」と「委奴国」-なぜ『倭人伝』に末盧国の官名がないのか-」(『古田史学会報)一二〇号二〇一四年二月十日)
※2.同上
※3.中村明蔵『鑑真幻影』(南方新社 二〇〇五年)でも同様の見解が示されています。
※4.ただし「元明」の時代に「隼人」の交代の際には「陸路」が使用されていたらしいことが推測されますが(以下の記事)、このように「制圧」され「降伏」した後の「労働奉仕」の任についた人々の帰国には食料支給はなかったと思われ、(防人などと同様)自弁で帰国せざるを得なかったものであり、その際「水行」つまり「船を利用する」という移動手段は利用できなかったものと推定されます。
「(靈龜)二年(七一六年)…五月…庚寅。詔曰。…又薩摩大隅二國貢隼人。已經八歳。『道路遥隔。去來不便。』或父母老疾。或妻子單貧。請限六年相替。並許之。…」

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