古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「不改常典」と伊勢行幸(一)

2017年09月25日 | 古代史

「不改常典」については以前すでに書いていますが(http://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/63587e93470e54a32a5bd1f550374970 からの一連の記事)、「天智天皇」が定めたという「常識」に囚われて、議論が混乱していると思います。
 『続日本紀』における出現の仕方では「近江大津宮御宇大倭根子天皇」「淡海大津宮御宇倭根子天皇」というように書かれており、これを以て「天智」と即断しているわけですが、肝腎の「天智紀」にはそれを窺わせる何も書かれていないのが現実であり、そこからあたかも「無」から「有」を創造するかのように「皇位継承法」であるというような無理な議論を行っているのが現状なわけです。しかし、議論の根本は「不改常典」の中身であり、それは『続日本紀』の「詔」(宣命体)を直視すると、議論の余地なく明らかであると思われるのです。それは「食国法」とされており、支配・統治するものにとっての「根本法典」であるとされているのです。「皇位継承」の際に出てくるのは、それを遵守することで「皇位」の継承が成立するというのが「儀礼」として存在していたものであり、「皇位」につくものが誰であろうとこれを遵守すべきと言う「絶対的存在」であったからです。ですから当然「皇位」を継承する際にはこれに言及せざるを得ないものなのであったものです。そして、そのような「絶対的根本法典」を『書紀』内に探索すると「十七条憲法」以外に見あたらないのです。
「十七条憲法」はその「憲法」の名が示すように「絶対」であり、また「超越的」な存在ですから、それが「不改常典」つまり「代えてはいけない根本法規」という名にふさわしいのも当然です。

「持統」も「元明」即位の詔によれば同様に誓約したことが窺えます。

「元明の即位の際の詔」
「(慶雲)四年…秋七月壬子。天皇即位於大極殿。詔曰。現神八洲御宇倭根子天皇詔旨勅命。親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞宣。關母威岐藤原宮御宇倭根子天皇丁酉八月尓。此食國天下之業乎日並知皇太子之嫡子。今御宇豆留天皇尓授賜而並坐而。此天下乎治賜比諧賜岐。是者關母威岐近江大津宮御宇大倭根子天皇乃与天地共長与日月共遠不改常典止立賜比敷賜覇留法乎。受被賜坐而行賜事止衆被賜而。恐美仕奉利豆羅久止詔命乎衆聞宣。…」

 この「詔」はかなり難解ですが、大意としては「元明」が「即位」するにあたって「文武」から継承することとなった「食国天下之業」というものは、「藤原宮御宇倭根子天皇」つまり「持統」が「近江大津宮御宇大倭根子天皇」が定めた「不改常典」を承けて行っていたものであり、またそれを「文武」へと授けたものであるというわけです。そして今それを「自分」(元明)が今「継承」するというわけです。
 つまり、「持統」は「即位」にあたって「不改常典」に反しないという制約を行っていたことが推定されるわけです。
これを踏まえて「持統」の「伊勢行幸」を考察してみます。

 『書紀』の『持統紀』に「持統」が「伊勢」へ行幸したという記事があります。
 一連の記事は以下のものです。

「(持統)六年(六九二年)二月丁酉朔丁未(11日)。詔諸官曰。當以三月三日將幸伊勢。宜知此意備諸衣物。賜陰陽博士沙門法藏。道基銀人廿兩。
乙卯(19日)。詔刑部省。赦輕繋。是日中納言直大貳三輪朝臣高市麿上表敢直言。諌爭天皇欲幸伊勢妨於農時。
三月丙寅朔戊辰(3日)。以淨廣肆廣瀬王。直廣參當麻眞人智徳。直廣肆紀朝臣弓張等爲留守官。於是中納言三輪朝臣高市麿脱其冠位。擎上於朝重諌曰。農作之節車駕未可以動。
辛未。天皇不從諌。遂幸伊勢。
壬午。賜所過神郡及伊賀。伊勢。志摩國造等冠位。并兔今年調役。復兔供奉騎士。諸司荷丁。造行宮丁今年調役。大赦天下。但盜賊不在赦例。
甲申。賜所過志摩百姓男女年八十以上稻人五十束。
乙酉。車駕還宮。毎所到行。輙會郡縣吏民。務勞賜作樂。
甲午。詔。兔近江。美濃。尾張。參河。遠江等國供奉騎士戸。及諸國荷丁。造行宮丁今年調役。詔賜天下百姓困乏窮者。稻男三束。女二束。
夏四月丙申朔丁酉。贈大伴宿禰友國直大貳。并賜賻物。
庚子。除四畿内百姓爲荷丁者今年調役。
甲寅。遣使者祀廣瀬大忌神。與龍田風神。
丙辰。賜有位親王以下至進廣肆難波大藏鍬。各有差。
庚申。詔曰。凡繋囚見徒一皆原散。
五月乙丑朔庚午。御阿胡行宮。時進贄者紀伊國牟婁郡人阿古志海部河瀬麿等兄弟三戸服十年調役雜徭。復兔筴抄八人今年調役。」

 最後の「御阿児行宮」記事において、「大系」の注では同様の出来事を記した『万葉集』の「左注」について「誤り」と断定しています。つまり、この記事は上に書いたように「三月」の行幸の際の出来事であり、それに対する褒賞を授与したのが五月の時点だというわけです。
(以下万葉集「四十~四十四番歌」までについての「左注」)

「右日本紀曰 朱鳥六年壬辰春三月丙寅朔戊辰浄肆廣瀬王等為留守官 於是中納言三輪朝臣高市麻呂脱其冠位 擎上於朝重諌曰 農作之前車駕未可以動 辛未天皇不従諌 遂幸伊勢 五月乙丑朔庚午御阿胡行宮」

 つまり、「左注」はこの「阿胡行宮」記事を、その記事が書かれた「日付」である「五月」の出来事と解釈しています。これを「誤り」としているわけですが、しかし「大系」の言うように「三月」の出来事であるなら、他の「褒賞」記事と同様その時点で記せばいいことであり、五月といういわば時期外れの褒賞記事ははなはだ「不審」といえます。しかも「車駕還宮」記事の前に「阿児行宮」に直結する記事が全くないのはさらに疑わしく、この記事が「三月」の「伊勢行幸」とは別途に行われたと見るのが至当と思われます。
 また、この記事は「古田氏」などによる解釈では、「大系」の「注」とは異なり、三月から五月までずっと「伊勢行幸」を続けていたと考えられています。「筑紫」から「瀬戸内」をあちらこちら寄りながらゆっくりと進んだというわけです。しかし、「還宮記事」を無視しないとすると、上で見たように「阿胡行宮」記事を「別」と考える方が合理的であり、「伊勢行幸」からは「三月中」に「還宮」したと考えるべきではないでしょうか。

 そもそも、この記事の中では「持統」は「三月三日」という日付を出して、この日に「伊勢」に行くと宣言しています。『當(まさ)に三月三日を以て伊勢に將幸(いでま)さむ。』とは、単にこの日に出かけると言うような意味ではなく、この日の内に「伊勢」に到着しているという意を多分に含んでいると思われます。それは「干支」ではなく「数字」で日付が書かれている事からも推定できます。つまり、「三月三日」というように日付を明確に設定していることには「意味」があったはずであると思われるわけです。
 『書紀』の「本文」としての記事中に、「干支」ではなく「数字」で日付が書かれている例は非常に少なく、この「三月三日」以外には『推古紀』と『天智紀』に「薬猟」の行われたという「五月五日」だけなのです。それ以外は「補注」部分や「百済系資料」からの引用部分及び「伊吉博徳書」からの引用部分だけであり、「本文」としてはこのような「数字日付」は希有な例です。
 この事から、この「三月三日」という表記も「薬猟」同様「節」(節句)であったものと思われ、今で言う「桃の節句」が該当するものと思われますが、これは中国の古代では「疾病」などを祓う儀式を行うべき日とされていました。
 「藝文類聚」の「三月三日」の項には、「應劭」の「風俗通義」が引用されていますが、そこには以下のようなことが書かれています。

 「…應劭風俗通曰.按周禮.女巫掌歳時以祓除疾病.禊者潔也.故於水上盥潔之也.巳者祉也.邪疾已去.祈介祉也.…」

 これによれば「三月三日」という日には(昔は)「女巫」つまり「巫女」のような「祝子」(ほうり)(神と人の仲立ちをする人物)が、川の水の中に「盥」(たらい)を浮かべ、そこで「沐浴」をすることで「疾病」を祓うことができるとされていたのです。つまり、「女巫」が「疾病」を「祓除」するために「水上」で「みそぎ」の儀式が必要であったものであり、そのために「川」へ行く必要があったものです。
 ここでは「周礼」が引き合いに出されていることからも分かるようにかなり古くからあった儀式であると思われ、このようなものは相当早期に倭国に流入していたと考えられます。
 この事から考えて、この時の「伊勢行幸」は、「伊勢」のどこかで「沐浴」し「祓除」を行なうという目的があったのではないでしょうか。
 「持統」の「詔」の中には「宜知此意備諸衣物。」という指示があり、これは「沐浴」に使用する「練衣」(ねりぎぬ)の準備をするようにという意味を含んでいるという可能性もあります。
 このような典拠のある儀式であるとすると「日付」が重要であり、「三月三日」という日付が特に言及されている理由はそこにあると思われ、当然「三月三日」には「伊勢」にいなければならなかったものではないでしょうか。その日は儀式を行うべき日であったからこそ「日付」を明確にしていると思われるのです。そうであれば「五月」に「仮宮」にやっと到着したという解釈では「三月三日」という日付が宙に浮いてしまうでしょう。 
 このことから、当初目的としていた「三月三日」は「儀式」を行うべき日と推定されますが、実際には「出発日」として記事中には出てきます。この日に「留守官」などを定めたとしており、実際に出かけようとしていたと見られます。(これを「三輪高市麻呂」に阻止されたものと見られます)
 このことから考えて、「持統」は当初は「目的の儀式」を行う日と出発日を「同日」と設定していたように見受けられ、そうであれば「伊勢」はかなり近いところにあると考えなくてはいけなくなります。少なくとも「一両日」程度で行けるような範囲の中に「伊勢」はあると考えざるを得ないと思われます。

 後の『養老令』の規定によれば「車駕」による行程は「一日三十里」、「人が歩く」場合は「五十里」とされていました。また、「古代官道」の「駅間距離」も同じく「三十里」とされていますから、基本的には「車駕」であれば「官道上」を移動する際は「一日一駅」、「歩く」場合は「二駅」程度ていどとされていたようです。「倭国王」などの場合は「輿」に乗ったと見られ、これは「人が担ぐもの」と思われますから、「歩く」という場合に相当するかと思われます。すると「二駅」程度が一日で移動できる距離となり、「伊勢」は「都城」(宮殿)からその程度の距離に存在していたと考えられることとなります。
 そもそも中国の古代においてもこの「儀式」ははるか遠方の場所で行なうのではなく、都城の「郊外」で行なわれるのが常であったわけですから、この場合においてもそれほど遠距離の場所を想定するべきではないと考えられるものです。

 ところで、この「三月三日」の「儀式」は「曲水の宴」の原型でもあります。当初は「沐浴」だけであったものが、その後「直会」を行い(捧げ物がありますからそれを食する儀式も伴ったものでしょう)「宴」が催されたと見られ、「盥」を「杯」に変え、それを水に流してその間に歌を歌うという趣向が考えられたようであり、これはかなり早期にそのような様式が確立していたと見られます。
 この「曲水の宴」という儀式は古来「三月上巳」というように「三月」の最初の「巳」の日に行われていたものですが、「魏」の時代に「三月三日」という日付に固定されたものであり、それ以降については「日付表示」となったもののようです。
 『晉書』の「禮志」(巻二十一志十一禮下)を見ると以下のようです。

「漢儀,季春上巳,官及百姓皆禊於東流水上,洗濯祓除去宿垢。而自魏以後,但用三日,不以上巳也。晉中朝公卿以下至于庶人,皆禊洛水之側。趙王倫簒位,三日會天泉池,誅張林。懷帝亦會天泉池,賦詩。陸機云:「天泉池南石溝引御溝水,池西積石為禊堂。」本水流杯飲酒,亦不言曲水。元帝又詔罷三日弄具。海西於鍾山立流杯曲水,延百僚,皆其事也。」

 つまり「周代」以降「上巳」の日に行っていたが、「魏以後」「三日」と固定されたとされているものです。干支では「年毎」に日付が一定しませんから、宮廷儀式としては「日付」を固定する必要があり、そのため「三月三日」と固定したもののようです。
 この「魏」の時代以降「曲水の宴」の要素が増したとされているようですから、この『持統紀』で「日付表示」が為されているということは、その内容に「曲水の宴」の要素が多分に含まれているということを推察させるものです。

 この「曲水の宴」については「久留米市」の「筑後国府」跡から「遺構」が出ていることが注目されます。この「曲水の宴」遺構は「八世紀」以前のものと考えられており、また遺跡からも「七世紀後半」と考えられる建物跡なども見つかっており、『持統紀』記事といろいろな関連が考えられるものです。
 この時の「王城」(首都)と考えられる「筑紫」(「太宰府」)からの距離としても、「久留米」であれば、出発したその日のうちに到着して儀式を行うことも可能であり、この時の「伊勢行幸」の候補地としては可能性がかなり高いといえるのではないでしょうか。
 この久留米という場所は、「古代官道」の駅としては太宰府から「二駅目」、距離にして約二十五キロメートル程度であり、これは先に見た「一日」にして行くことが可能な範囲の中にまさに存在している事となります。

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