霊の「関東……もとい、長州ウォーキング」

「関東歩き旅」の続編で、「長州歩き旅」を始めました

小鯖から大道そして秋穂へ その3

2010年04月17日 | 山口の名所
その2からの続き

台道から大海を経て、秋穂東の中道海水浴場まで一気に南下し、中道湾越しに瀬戸内海に出くわす。
国民宿舎「秋穂荘」のふもとをぐるりと回り込んで、秋穂の市街地へ向かう途中に、「お上使道・一里塚跡」なるものがある。
説明板によれば、毛利氏が長州を治める前の大内氏の時代、つまり、平安時代末期から鎌倉・室町・戦国時代に至る約300年もの永きに渡る大内治世の頃は、京都や九州からの旅人は、ここ秋穂に上陸してから山口への陸路を辿るのが通常だったようだ(毛利氏時代には、それが三田尻へ移るようだが…)。
従ってこの時代においては、秋穂から山口への道(秋穂街道)は「お上使道」と呼ばれる重要な街道であったようで、後に徳川幕府が制定した「一里塚」設置の遥か以前に、既にこの街道には一里塚が整備されていたと思われる。流石ぁ~、大内のお殿様。

そのすぐ先には「加茂石風呂」なるものが現存していて、明治20年台に造られたものだそうだが、当時の秋穂の漁師達が、ここで一日の汗を流していたかと想像すると、なかなか興味深いものがある。

そして、ついに探し当てたのが「髪解橋」(かみときばし)だ。
秋穂街道の起点がこの髪解橋で、山口市にある終点は「袖解橋」(そでときばし)と呼ばれている。
つまり、舟で秋穂に着いた侍たち(旅人)は、髪解橋でまず髪を解き(整え)、服装はまだ旅姿のままで秋穂街道を歩き始め、山口の入口である袖解橋に着くと、狩衣や直垂の袖をくくっていた旅装を解いて身づくろいをし、愈々山口の大内館へ向かうということらしい。
古の人たちの智慧というか風流には敬服するしかないが、現代の地名の命名にも、せめてこのような精神が少しでも欲しいところだナ

で、結局、自宅⇒山口⇒小鯖⇒台道⇒秋穂⇒自宅と、ぐるっと右回りに約6時間のチャリ旅であったのだ。


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