霊の「関東……もとい、長州ウォーキング」

「関東歩き旅」の続編で、「長州歩き旅」を始めました

大田から明木 その2

2010年05月08日 | 山口の歩き旅

2010年5月8日(土) その1からの続き

一の峠から絵堂宿に入る少し手前、道の左側に「絵堂の開戦」と書かれた説明板が立っていて、ここが実際に「大田絵堂の戦い」で最初に戦闘の火蓋が切られたところらしい。
この地にあった旧柳井邸に萩政府軍の本陣があって、ここに保存してある門には、開戦時に打ち込んだ銃弾の貫通痕が今も残っている(写真上の中程辺り)。

絵堂宿で出会った近所のお爺さんに話しかけられ、一服しながら世間話をしてみた。
つい今しがた長登銅山に立ち寄ってきたが、看板や説明板も薄汚れたままで最近余り手が入ってないですねと言うと、『美祢市に合併してからじゃぁ、美東町の時は職員がこまめに回ってくれちょったのに、合併してからは荒れ放題じゃぁ』とのこと。
変に広大な地域を無理やり合併してしまうと、いろんなところに弊害も出てくるもんですナァ。「平成の大合併」なぁんて、本当に地域の為になっているのかしらネ?

絵堂宿を後にして国道490号を更に北上し、小野公民館を過ぎたところで国道490号は左折して更に山中に入るのだが、ここは直進して県道32号に入り、雲雀峠へ向かう。
この辺り、道のところどころに「赤間関街道」なる道標が急に現れる(写真中)。この道標は、写真のように単に「赤間関街道」と書かれただけで、街道についての説明も設置者が誰かも全く見当たらない、頗る不親切な道標だ。
帰宅してから調べてみることにするが、長州人で「赤間関街道」をきちんと知っている人が、一体どれだけいるのだろうかネ?

雲雀峠を越えてからは萩市(旧旭村)に入り、山中の下り坂をしばらく行くと横瀬地区だ。道の傍らに、国登録文化財「下横瀬公民館」(旧明木村立図書館)と書かれた看板が立っていたので、立ち寄ってみた(写真下)。
説明板によれば、明治39年に当時の小学校内に開設された図書館が始まりだそうで、昭和の初期には村民の協力を得ながら読書組合を創設したり、ユニークな図書館経営で全国にその名を知られていたらしい。
その後、昭和34年にこの地の公民館として解体・移築されたようだが、これだけの山中に、かくも永きに渡って住民の間に読書文化が維持されていたことに、とても驚いた。
そして、その貴重な建造物を、今度は地域のコミュニティの場として再利用するなんぞは、「壊しては造り」が大好きな現代人どもに向けてのとてもいい見本ではないかと思う。

個人的な意見だが、たかが国体ごときで、陸上競技場を一から造り代えたり、不要不急な道路を新たに造るような愚行(浪費)を繰り返していては、いつまで経っても県財政なんて好転する訳がないと思う。
…と、この公民館を前にして、先人の賢明さと現代人の愚かさを、つい比較してしまったのだョ。

その先は、角力場(すもうば)で国道262号と合流し、更に明木宿の中程で、一升谷を越えてきた萩往還と合流する。
結局、大田から明木までは、普通に歩けば5時間程度なのだが、長登銅山で寄り道した関係で都合6時間のウォーキングであった。



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