あしあと

愛悠館動物慰霊センター12年の歩み。趣味のマラソン、俳句のことや愛犬花ちゃんのこと。好きな小説や映画の話し。

思い出の映画館

2009-12-05 16:30:56 | Weblog
 私のふるさとの小さな田舎町には、映画館が二軒ありました。たしか「柏原劇場」と「ラッキー会館」という名前であったと記憶しています。映画館と言っても芝居小屋に毛の生えた程度のもので、事実、どさ回り(=大衆演劇のことを当時はそう呼んでいました)の一座が時折小屋掛けをすることもありました。
 大きなベルの音が「ジーッ」と鳴ると、おばちゃんがガタガタと音を立てて雨戸を閉めて回り、幕が左右に開いて映画が始まります。本編が始まる前には必ず竹脇昌作さんのナレーション入りのニュース映画があり、テレビが普及するまでは貴重なメディアの一つでもありました。
 私は父や、ときには母にも連れられてよく映画を見に行きました。ハイカラ好きの父は専ら洋画、母は「お母ちゃんは英語がチンプンカンプンやから」という理由で邦画しか見ませんでした。
 父と見た洋画の中でもジョン・ウェインの「駅馬車」(1939年アメリカ)やゲーリークーパーの「真昼の決闘」(1952年アメリカ)、「三銃士」などの映像は今でも断片的に記憶に残っています。

 子供のころからかぶれ易い性格だったのか、映画を見て家に帰ると、早撃ちガンマンの真似をしたり、傘の柄と給食の食器で三銃士の剣を作ったりしていました。
映画がカラーになったときには街角に張られたポスターに、「総天然色」という大きな文字が踊っていました。
 「世界初!シネマ・スコープ!(現在のワイド・スクリーン)」という謳い文句で「紅の翼」(1954年:ジョン・ウェイン)が上映されたとき、スクリーンの左右に画面がはみ出していて場内が大笑いになったこともありました。

 邦画はなんといっても「鞍馬天狗」「忠臣蔵」「次郎長」などの時代劇が主流で、チャンバラのシーンになると「危ない!後ろ後ろッ!」と画面に向かって掛け声が飛び交い、鞍馬天狗が杉作の危機を救おうと、ときには電柱のある松並木の街道を駆け抜ける場面では、場内から一斉に拍手が沸き起こりました。

 夏になると必ず、「四谷怪談」「牡丹灯篭」」「番町皿屋敷」などの怪談物が上映されました。お岩さんが出そうな場面になると、両手で顔を覆って指の間から恐る恐る見ていました。隣の席の母も同じような格好をしていて、顔を見合わせて笑ったことがありました。
 敗戦の影が色濃く残っていた当時、「長崎の鐘」(1950年松竹)「異国の丘」(1949年新東宝)などの戦争悲話をテーマにした映画が上映された時には、場内のそこ彼処から女性のすすり泣く声が聞こえていました。
 語れば限がありませんが、私の映画好きはどうやらこの頃に芽生えたもののようです。

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