現役開成ボーイぎん太さん×元校長先生対談「入学したら勉強どころじゃなかった」|VERY
12/9(金) 6:30配信2022


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引用元:VERY
──偏差値40台から、ほとんど塾に行かず、独自の「おうち勉強法」で開成中学に合格!
現在開成高校在学中の現役高校生ぎん太さんが、家庭学習や中学受験の方法を紹介する『偏差値40台から開成合格! 自ら学ぶ子に育つ おうち遊び勉強法』が9月26日に発売。ぎん太さんの恩師である開成学園元校長の柳沢幸雄先生と素顔の「開成」について話していただきました。
もはや勉強どころじゃない……開成生の生活
──開成高校はどんな学校ですか? 柳沢幸雄先生(以下柳沢)
「今年で41年連続で東大合格者数トップの進学校」というと、「生徒はガリ勉ばかりなのでは」「入学すれば毎日厳しく勉強させてくれるだろう」と思われることもまだまだ多いんです。通学中も歩きスマホならぬ単語帳から目を離さない生徒ばかりだから人とぶつかっちゃう。多くの人にとっては、そんなイメージかもしれない。
でも実際の中身は全く違います。いざ入学してから「こんなはずじゃなかった」「想像していた学校生活と違っていた」と思うことのないように、私は著書や講演で、開成の実際の姿を繰り返し話してきました ぎん太さん(以下ぎん太)
開成は行事が多い学校です。毎年4月には、長い伝統を持つ筑波大付属高校とのボートレースがあります。中1の入学直後から先輩の指導のもと、応援の練習がはじまるんです。担任の先生から突然「これから先輩が来るから頑張ってね!」と言われ、体育館に連れていかれました。そこには大きくて何だか怖そうな高校生の先輩たちがズラッと並んでいて、
「明日までに校歌と応援歌を覚えてこい!」と。当時は「この学校に通うと先輩のようになってしまうのか」と震えていたことを覚えています。ボートレースが終わると今度は5月の運動会の練習で、また教室に先輩たちがあらわれて……。
「こりゃ、勉強どころじゃないな」と(笑)。
──このあたりがイメージとのギャップでしょうか?
柳沢「東大合格を目指して、毎日何時間も勉強しろ」なんてことは先生も先輩たちもいっさい言いません。新入生は今まで必死に勉強するのが当たり前だったでしょう。開成での生活は勉強以外にもやることがたくさんあります。入学後は、中学受験の勉強のやり方を一度断ち切ってもらうことになる。まずはそのギャップを埋めることが非常に大切です。
とはいえ、開成は進学校なので入学してくるのは、小学校時代に学校や塾でトップクラスの成績だった生徒ばかりです。でも、上には上がいるから1学期の中間試験で己の真の実力を知ることになる。開成は一学年300人ほどの大所帯です。成績上位層だけが優秀という評価をしてしまったら残りはつぶれてしまいます。そういったやり方はとても教育とはいえません。学校の勉強で一番が取れなくてもいい。好きなこと、得意なことを見つけてその分野で活躍してほしい。入学してすぐの頃から色々な行事を体験するのはそんな思いもあってのことなのです。
以下はリンクで
日本人が囚われた「仕事は苦痛を伴うからこそ意味がある」というヤバい価値観
誰も見ない書類の作成、不要な仕事を生み出す上司、嘘に嘘を重ねた広告、価値がないとわかっている商品を広める広報……世界中でこうした「クソどうでもいい仕事(ブルシット・ジョブ)」が増えています。
12/15/2021
クソどうでもいい仕事」という病 また、クソどうでもいい仕事とわかっていても、やめられず、苦しみ続ける人々が多くいるのです。さらには、クソどうでもいい仕事は高給である一方で、社会的価値の高い仕事ほど報酬が低いということもわかっています。
そうした世界的現象の「謎」をひもといたのが、大阪府立大学教授の酒井隆史さんによる『ブルシット・ジョブの謎 クソどうでもいい仕事はなぜ増えるか』です。
以前、酒井さんは週刊現代の取材のこのように答えています。
---------- 日本では、労働は苦痛を伴うからこそ意味がある、という倒錯したモラルが特に根強い。たとえ無意味であってもその苦痛に耐えてこそ、道徳心や倫理観が養われるという考えがある。 こうした考えは人間としての可能性を狭めていると言えます。長時間労働と無駄な仕事により、悩まなくてもいいことに悩んでいる。 もっと人々がやりたいことを突き詰められれば、本来はより文化的に豊かな生活を送り、人間社会の可能性も広がっていくはず。しかし残念ながら、そうなっていないのが現状です。(『週刊現代』2021年3月13日号)
---------- 労働は苦痛を伴うからこそ意味がある、無意味であってもその苦痛に耐えてこそ、道徳心や倫理観が養われるという考え方は、なぜ定着してしまったのでしょうか?
---------- 50年ぐらい前(1960年代)には、ほとんど働かないですむような世界を多くの人たちがもとめはじめた時代がありました。そして経済学者の予想した通り、客観的にも、可能性としては、その実現は遠いものではなくなっていました。 ところが、世界を支配している人々からすると、それが実現するということは、人々が、じぶんたちの手を逃れ、勝手気ままに世界をつくりはじめることにほかなりません。そうすると、じぶんたちは支配する力も富も失ってしまうことになります。 そこでかれらは、あの手この手を考えます。 そのなかのひとつが、人々のなかに長いあいだ根づいている仕事についての考え方を活用し、あたらしい装いで流布させることでした。
その考え方とは、仕事はそれだけで尊い、人間は放っておくとなるべく楽してたくさんのものをえようとするろくでもない気質をもっている、だから額に汗して仕事をすることによって人間は一人前の人間に仕立て上げられるのだ、と、こういったものです。 こういった考えを強化させつつ、二度と仕事から解放されようとか、自由に使える時間が増やそうとか、人生のほとんどの時間を生きるためにだれかに従属してすごさなくてすむとか、考えないよう、支配層にある人たちは、その富の増大分をほとんどわがものにし、仕事をつくってそれに人を縛ったうえでばらまくのです。
こうすると、なにかおかしいな、とおもっていても、でも仕事をするということはそれだけで大切だ、むなしかったり苦痛だったりするけれども、だからこそむしろ価値がある、というふうに、人は考えてしまいます。なにかこの世界はおかしいけれども、それがおかしいと考えることがおかしいんじゃないか、と多くの人が疑念を打ち消すことによって、この砂上楼閣のような世界はかろうじて成り立っているのです。(『ブルシット・ジョブの謎』より)
---------- では、理想の働き方、普遍的な仕事の仕方というのは、どういうものでしょうか?
---------- 実は、労働するとは、だれかがじぶんの時間を買ったことだ、だから、その時間内は労働をしなければならない――たとえすることがなくても――という発想は、けっして普遍的なものではありません。それどころか人類の歴史のなかでは、きわめてマイナーな、しかもごく最近生まれた「常識」であり、慣習でしかありません。 それでは、より普遍的な仕事のあり方はどのようなものか。それは「周期的激発性」といわれるようなものです。 つまり、仕事にふさわしいとき、それが必要なときに集中的に仕事をして、それ以外は、ぶらぶらしているとか、好きなことをしているとか、寝ているといったありようです。(『ブルシット・ジョブの謎』より)
---------- 要するに、狩猟採集民や農民、職人、作家などは、繁忙期に集中的に働き、そうでないときには休息をとったり繁忙期に向けた道具の手入れやこまごまとした準備をしたりして過ごすというものです。
後編「手書き文書、無能上司のケア、FAX注文、朝礼、印鑑…日本でも『仕事のための仕事』がこんなにあった!」では、日本の「クソどうでもいい仕事」の具体的事例を取り上げていきます。