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麹町、日本テレビの跡地です

2024年05月14日 23時05分51秒 | 日々の出来事
ここが、周囲に名門女子校があるのに90階のビル建設を計画して問題になっている場所ですね❗





5・10・2023
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渋沢栄一の「変わり身テクニック」 ブレても問題なし>時勢をとらえて決断する

2024年05月14日 22時05分07秒 | 歴史的なできごと

渋沢栄一の時勢をとらえて決断する「変わり身テクニック」、ブレても問題なし


人生のターニングポイントでいかに決断するか



4/2/2021

幕末の動乱を経て、新しい明治時代の幕が開けたとき、一人の実業家が躍動した。男の名は、渋沢栄一。500社もの会社設立に携わり、「資本主義の父」と呼ばれた。渋沢は、相手の主張をいったん受け止めてからひっくり返す「説得テクニック」を用いて、数々の局面を乗り越えてきた。



【参考記事】⇒渋沢栄一に学ぶ、相手を説得するテクニック。
「いや」「でも」と否定しない  だが、ビジネスパーソンが渋沢から学ぶべきことは、ほかにもまだある。
※写真はイメージです(以下同)


 それは、渋沢の「決断力」である。もし、渋沢が決断力に欠けていたならば、実業家として名を残すことも、大蔵省で活躍することもなかっただろう。いや、それどころか、おそらく幕末期に命を落としていたに違いない。  ビジネスパーソンには欠かせない局面局面での「決断力」を、渋沢はいかに発揮したのか。そこには、時勢をとらえた「変わり身テクニック」があった。 
   

勇気ある撤退で「損切り」を


 マシュー・ペリー率いる黒船が来航して江戸が大混乱に陥るなか、青年時代の渋沢は、尊王攘夷の思想に傾倒していた。尊敬する10歳年上の従兄弟、尾高惇忠(おだか・じゅんちゅう)の影響である。

  また惇忠の弟、長七郎が江戸帰りだったため、時事に精通しており、渋沢に今の日本の状況を話して聞かせた。22歳になった渋沢は、江戸に初めて遊学。幕府は危機的な状況にあると、あちこちで聞くうちに、こんな決意を固めた。 「ここは一つ派手に血祭りとなって、世間に騒動を起こす踏み台となろう」  

渋沢と師の尾高惇忠、そして、もう一人の渋沢の従弟である喜作の3人が中心となり、「高崎城を乗っ取って、横浜の外国人商館を襲撃する」という計画を立てる。 

 あまりにも現実味がなかったが、本人たちは大真面目だ。渋沢は実行前に、父に打ち明けて、勘当されている。つまり、家族との縁を切られたのである。計画実行後に実家に迷惑をかけないようにと、渋沢がそれを望み、父がそれを受け入れた格好となった。


  70人のメンバーを集めて、武器となる刀も調達して準備万端。あとは決行日を待つのみだ。渋沢は京にいる長七郎に飛脚を飛ばして、計画を知らせている。  

思えば、実際に見聞きした江戸の状況を、自分に教えてくれたのは長七郎である。そのおかげで、こうして危機感を持つことができた。長七郎が今回の計画をどれだけ喜び、また、どんな反応をするか、渋沢は楽しみだったに違いない。  だが、長七郎は慌てて飛んできては、いきなりこう言った。

 「暴挙を起こす計画は大間違いだ!」  

まさかの長七郎の大反対にメンバーたちは唖然としたことだろう。だが、長七郎は「すでに攘夷の実行があちこちで失敗に終わっている」と説明し、計画を必死に止めようとした。  

想像してほしい。もし、自分が渋沢の立場だったら、どんな決断をするだろうか。 

 実家と縁を切ってまで、これまで進めてきた計画である。かけてきた時間や費用、そして、なによりも注いできた情熱を思えば、何としてでも実行したいという思いに駆られることだろう。 

 しかし、渋沢は3昼夜にわたって激論した結果、こう結論を出している。 「犬死にするかもしれない。なるほど長七郎の説が道理にかなっている」  放送中の渋沢を主役としたNHK大河ドラマ「青天を衝け」では、渋沢の強情さがうまく描写されている。だが、渋沢はそんな強情さとともに、「相手が自分より優れた見識を持っている」と思えば、素直に意見に従うところもあった。

 このときもまさにそうであり、渋沢よりも長七郎のほうが明らかに新しい情報を豊富に持っている。ならば、長七郎の考えのほうが、自分より上であると、合理的に認めてしまうのが、渋沢の強みだった。 

 計画にかけた時間と費用は無駄になってしまったが、もし決行していたならば、幕府に捕らえられて、処刑されていてもおかしくはない。傷が浅いうちに撤退する「損切り」を、渋沢は冷静に決断することができたのだ。 



名」より「実」をとった


  さて、問題はそのあとである。計画を断念したのはよいが、実家も捨ててしまったし、行くあてもない。故郷を追われた渋沢は、同じ状況にある喜作とともに、いったん江戸に出て、さらに京都へ向かう。  

そこで渋沢は一橋家の家臣、平岡円四郎のもとを訪ねている。そして、喜作とともに、一橋家の家臣として生きる道を選ぶこととなった。

 もともと、平岡から誘われていたのがきっかけだったが、それにしても大胆な決断である。なにしろ攘夷という名のもと、幕府へのテロ行為を企んでいたのだ。その幕府に極めて近い一橋家の家臣になるなど、「みっともない」と考えてしまいそうなものだ。  

現に、同行者で従兄弟の喜作は一橋家に仕官することに反対。こう抵抗している。 「これまで幕府を潰すことを目的に奔走してきたのに、我が心に恥ずかしく思わないではいられないではないか」 

 渋沢の活躍を知っている身からすれば、喜作の心配はいかにもスケールが小さいように思ってしまう。しかし、実際には、「ブレていると思われなくない」という恐れから、この喜作ように考えて、自分の行動を縛ってしまいがちである。 

 だが、渋沢は、周囲からどう見られているかを気にしなかった。「ただの浪人よりも、一橋家の家臣のほうが社会に対して影響力を持てる」という極めて合理的かつ、シンプルな考えで、軽やかに決断を下している。  この変わり身の速さこそが、渋沢の真骨頂といえるだろう。 
   

時代の変化に応じた決断を下す


  渋沢は喜作の説得に成功すると(前回記事参照)、一橋家の家臣となり、財政の立て直しのために次々と施策を実行する。いったん、この道と決めたならば、後ろを振り返ることなく、突き進むのも渋沢の特性である。 

 その手腕を認められ、のちに第15代将軍となる徳川慶喜に推薦され、パリ留学を果たした渋沢。ところが、渋沢はパリの地で、慶喜が大政奉還したことを知る。渋沢が帰国したときには、すでに明治維新は成し遂げられていた。そのときの心情をこう書き記している。

「主家がひっくり返ってしまった次第であるから、江戸が東京となったばかりでなく、すべての変革は誠に意外でした」 

 そう驚くのも無理もないが、さらに意外なことが渋沢の身に降りかかる。税務の担当として大蔵省の官僚に抜擢されたのである。 

 蟄居した慶喜とともに駿河で一生を過ごすつもりだった渋沢は、これを固辞。静岡藩の体制の立て直しに専念したいと理由を述べた。だが、大隈からこんなふうに言われてしまう。

「われわれがこれからやろうという仕事は、そんな小さなものではない。日本という一国を料理するきわめて大きな仕事である」

 税務の知識もないだけに渋沢は戸惑いながらも、大蔵省に入所することを決意。かつて自分よりも長七郎のほうに知見があると見るや、攘夷の計画を中止したように、このときも、大隈のほうが明らかに広い視野を持っていると気づいたのだろう。このときも渋沢は相手の意見に従っている。 

 大蔵省のキャリアになった渋沢は、アメリカ式会計法を導入するなど、一橋家と同様に改革を進めていく。まだ何もかもが手探りの明治政府にとって、渋沢のように海外の事情を知る人材は貴重だったようだ。 

 しかしながら、大蔵卿の大久保利通と反りが合わずに対立を深める。その溝が埋まることなく、渋沢は大蔵省を辞して、実業家への転身を果たす。

 実行家として独り立ちした渋沢は、日本で初となる銀行を設立。その後、あらゆる分野での起業に携わり、日本を近代国家に生まれ変わらせる先導役となった。 

ビジネスパーソンこそ変幻自在であれ


  尊王攘夷の志士から一橋家の家臣へ。そして、一橋家の家臣から大蔵省へ。さらに、大蔵省から実務家へ……。  


目まぐるしい転身は、まるで軸がない生き方のようにも見えるかもしれない。特に日本では「一つのことに打ち込んで極める」「一所懸命に働いて、筋を通す」ことが美徳とされがちである。

  もちろん、一本筋の通った生き方は尊敬に値するべきものだが、ビジネスの世界では、その方法だけだと壁にぶつかることも多い。なにしろ時代や社内外の変化に応じて、消費者や働き手の価値観が変わり、技術も革新していく。

  むしろ、渋沢のように変幻自在に自分の立場を変えながら、それでも自分を失わない生き方を模索したほうが、ビジネスパーソンとしては、充実した人生を過ごせるのではないだろうか。

  自分自身のなかにある声によく耳を傾けながら、時代をつかむ。そのうえで、変節もまた一興と、受け入れてしまう。そんな渋沢の、時勢をとらえた「変わり身テクニック」を、ビジネスの世界でぜひ生かしてみてほしい。

  人生は、自分が思っている以上に自由に生きられるのだから。


<文/真山知幸> 

参考文献】 渋沢栄一、守屋淳『現代語訳論語と算盤』(ちくま新書) 渋沢栄一『青淵論叢道徳経済合一説』(講談社学術文庫) 幸田露伴『渋沢栄一伝』(岩波文庫) 木村昌人『渋沢栄一――日本のインフラを創った民間経済の巨人』(ちくま新書) 橘木俊詔『渋沢栄一』(平凡社新書) 鹿島茂『渋沢栄一(上・下)』(文春文庫) 渋澤健『渋沢栄一100の訓言』(日経ビジネス人文庫) 岩井善弘、齊藤聡『先人たちに学ぶマネジメント』(ミネルヴァ書房)



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中央大学の誇り「法学部」の都心移転が巻き起こす私大文系の乱

2024年05月14日 21時05分05秒 | 受験のこと
中央大学の誇り「法学部」の都心移転が巻き起こす私大文系の乱

中央大学、郊外移転のワケ


1・21・2020
 
 少子化に伴い、大学間での学生獲得は熾烈(しれつ)を極めています。そのため、1980(昭和55)年前後から押し進められたキャンパスの郊外移転は近年、変革のときを迎えています。東洋大学は2021年に朝霞キャンパス(埼玉県朝霞市)からの学部撤退を表明し、文系学部のほとんどが都内のキャンパスに集約されることとなりました。

【画像】アクセス抜群! 中央大学法学部の移転先を見る

 都心回帰の動きはMARCH(明治大、青山学院大、立教大、中央大、法政大)の中で唯一、大学本部を郊外に持つ中央大学(八王子市東中野)でも見られます。同大は2018年12月、看板学部である法学部を2023年に都心キャンパスへ移転することを発表しました。

 中央大学が八王子にキャンパスを移転したのは、1978(昭和53)年です。その理由は、1960年代から1970年代初頭にかけて盛り上がりを見せた学生運動を遠ざけるためだったと言われています。

 私立大学の最古参にあたる中央大学は学生運動が盛んで、当時、講義を行うのもままならない状況でした。そのため、騒ぎとは無縁の新しい場所を求める必要が出てきたのです。

  それ以外にも、ベビーブーム世代以降の大学志願者の急増も影響しています。大学側が定員増加で対応しても、既存のキャンパスでは収容が間に合わない状態に。近隣で新たに土地を取得しようにも、都心の土地価格は高騰し、簡単に手が出せません。そこで郊外である八王子に、広々とした大学施設を新築することになったのです。
     
中央大学・多摩キャンパスの位置(画像:(C)Google)        
 


アクセスの悪い大学は受験生から敬遠される
 
 八王子の多摩キャンパスが開校してから40年以上が経過し、時代背景は当時と異なってきています。少子化の現代、受験生は中央大学が第1志望でない限り、通いやすさを重視して、都心にある早稲田大学や慶応大学、中央大学を除くMARCHの法学部を進学候補としてしまう可能性もあります。

 そのような背景から、中央大学は看板学部の法学部を丸の内線「茗荷谷駅」からほど近い文京区大塚1丁目に移転し、優秀な学生の受験増加を狙っているのです。

 このような試みは、もちろん他の大学から注目されています。特に文系学部は実験棟や研究室が必要な理系学部とは異なり、大規模施設が必須ではありません。そのため受験者数の増加や優秀層の獲得などといった、大学の思惑は成功する確率が高いと言えます。

  中央大学にならい、郊外から都心部への流れが加速するのは自然の流れかもしれません。しかし、都内の私立大学の定員を国主導で増やせない状況下では、やみくもに都心回帰をしても、受験生のニーズに合う学部でなければ意味はありません

偏差値上昇が予想される法学部
 
 中央大学の新キャンパス2023年度開校にともない、東京大学の文科I類、早稲田大学や慶応大学、上智大学、明治大学の法学部を志望する受験生は、これまで以上に中央大学を併願することは間違いないでしょう。看板学部の都心回帰のインパクトは大変大きく、今後数年間は受験生や保護者の注目を集めるはずです。

 一方、多摩キャンパスに残った他の学生との交流は減少し、サークル活動の選択肢が狭まったり、活動が限定的になったりするなど、キャンパスライフが満喫できなくなることも考えられます。

  都心回帰といえど、学生にとってメリットばかりとは言い切れません。大学側は単にキャンパス移転というハード面に目を向けるのではなく、学生のキャンパスライフといったソフト面で起こりうる変化も十分に考慮すべきです。
     
法学部の移転を告げるポスター(画像:中央大学)        
 


地元経済への打撃をどう考えるのか
 
 多摩キャンパスから移転するのは現段階で法学部のみですが、その分、学生は少なくなるため、少なからずとも地元経済に影響を与えるでしょう。法学部の在学生数は2019年5月1日(水)時点で、5800人を上回っています。学生向けのアパートや飲食店、または学生のアルバイトに頼っていた塾や飲食店は、人手不足に陥ることも考えられます。

  郊外キャンパスは、これまで築いてきた地元との関係性を無視できません。大学側の判断だけではなく、地元自治体と話し合いの場を設けて、地元住民にきちんと説明することが求められます。
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「井戸」は絶対に埋めるな!工事関係者から「ヤバい」「怖い」体験談が殺到…なぜ「井戸の息抜き」をしないといけないのか?

2024年05月14日 20時05分22秒 | 社会のことなど


【祟り】「井戸」は絶対に埋めるな!工事関係者から「ヤバい」「怖い」体験談が殺到…なぜ「井戸の息抜き」をしないといけないのか?







2023/05/16(火) 19:47:00



はすみんさんが撮影した、竹製の「井戸の息抜き」。「間違えてへし折ったりしないでね!」とツイートしていた、はすみんさん(画像提供:はすみん@設備屋さん @irohasumi)

https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/t/amd-img/20230516-11428074-maidonans-000-27272636-view.jpg

「これは元請けが井戸を埋めようとして(ほぼ埋めてた)たから、懇願して駐車場の脇に付けさせてもらった井戸の息抜き」というつぶやきと共に、はすみん@設備屋 (@irohasumi)さんがTwitterに投稿した「井戸の息抜き」の写真が大きな注目を集めました。給排水換気工事などの設備業を営む、はすみんさんにお話を聞きました。

■「井戸」だけはほんまにやばい

さらに、はすみんさんは続けてこんなツイートを投稿しました。

「ちなみに、埋めようとした人は右腕折ってた」
「その類の工事だとお客さんとかにいらないと言われても、これだけは料金に含めないのでやらせてくださいって言ってでもやってますね。師匠からそれだけは絶対守れって教わりました」
「(師匠は)オカルト系まじで信じない人なのに、井戸だけはダメって真顔で言われたなぁ」
「井戸だけはまじで絶対に息抜きつけて完全に埋めるなって、どの人にも言われたし、未だに守ってる」
「井戸の息抜きを迷信と思ってるとマジでケガする」
「井戸だけはほんまやばい」

すると、はすみんさんのツイートに対して、なんと、建設業界の問題を描いた漫画『解体屋ゲン』の作者、星野茂樹先生も反応!さらにリプ欄には、建築・解体工事関係者など、プロの方たちから「井戸」にまつわる驚くべき証言や不可思議な経験談が殺到しました。

「古井戸の蓋開けて中覗いたら、ブゥアアアッと冷気?みたいのが吹いてきて、その瞬間風邪ひいたみたいな倦怠感がその日一日残ると言う。あれは怖かった」

「以前の現場で、重機のオペさんが体調不良になり、その重機の下に土砂で埋まっていた蓋がけされた井戸が出てきた…」

「呪いや迷信は経験則や統計的なもので、例えば災害や事故や犯罪などの確率が高くなる行動・場所などを伝えていると思っている。ただし、井戸は別。井戸を埋めようとすると必ずある」

「元解体業者だけど、井戸だけはやりたくない」

なぜ多くのプロは「井戸」を恐れるのか?そしてなぜ、「井戸」を埋めてはダメなのか?はすみんさんに詳しくお話を伺いました。

※プロの方々から寄せられた多くの証言や不可思議な経験談は、最後に詳しくご紹介します。

■危険回避と、神様への感謝

ーー「井戸の息抜き」とはどんな設備なのですか?

「井戸を撤去(埋める)したりフタをする際に、塩化ビニールの管か竹を使い、井戸と外を完全に仕切らないようにするものです。直径20~25mmの塩ビ管を使用することが多く、雨水が侵入しないように施工します。竹を使う場合は節を抜き、配管のようにして突き刺します。明確にいつまで息抜きをしなければならないという決まりはないのですが、竹の場合は自然と腐り落ちて消失します」

ーーなぜ完全に「井戸」を埋めてはいけないのですか?

「完全に埋めてしまうと井戸内が密閉され、他の地下水脈に影響が出てしまったり、メタンガスが溜まって爆発する危険が生じます。そして、寄せられたリプライの中でも多かった、『井戸には神様がいる』という理由からです。地域によって違いはありますが、『神様』『水神様』『蛇神様』『龍神様』と呼ばれたり、お稲荷様がいるという地域もあると聞いています。

つまり、井戸を埋める、蓋をしてしまうということは、神様が呼吸できなくなる、神様が外に出られなくなるということ。神様に失礼がないよう、そして、今まで水を使わせてもらったことに対する感謝のために、配管や竹を使って息抜きをします」

■やはり「何か」があるのかもしれない

ーー「井戸の息抜き」の手順について、「お塩とお酒でお清めの儀を行い、手を合わせてから作業する」「塩、酒、梅を入れて拝んでから埋め戻してた。梅=埋めて良しからきてる」というリプライも寄せられていましたね。

「地域によって違いますが、正式にはまず、神社さんに来て頂き、地鎮祭のように棚を用意し、果物、野菜、清酒、米などを供えてお祓いをしてもらい、可能であれば井戸の中の掃除をした後、息抜きの工事を行います。その後、砂利や砂などを入れて埋め戻します。

果物や野菜、清酒、米を用意する理由は、どれも水がなければ作れない物なので、神様へのお礼として捧げると言われています。(以下ソース)

5/16(火) 17:15配信 



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「世界2番」盛岡に海外から注目>行くべき52カ所>NYタイムズ効果、問い合わせ増加

2024年05月14日 19時05分17秒 | 社会のことなど
【特集】「世界2番」盛岡に海外から注目 NYタイムズ効果、問い合わせ増加

>盛岡、いい街ですが、国内でもあまり注目されたことがない街なのですが、なにが受けるかわからない時代ですね。




2023/02/20(月) 18:20:



2023年2月20日 7時30分


 盛岡一の繁華街、大通り

人口30万人弱の東北の地方都市が、世界の都市の中でにわかに注目されている。今年1月、米紙ニューヨーク・タイムズ(NYT)が「2023年に行くべき52カ所」の一つとして、ロンドンに次いで2番目に盛岡市を紹介したのだ。これを受け、観光情報などを求める盛岡市役所への問い合わせが急増するなど反響が広がっている。

 「はい、じゃんじゃん」

 「はい、どんどん」

 岩手名物のわんこそばを提供している盛岡市のそば店「東家(あずまや)」で今月8日、外国人観光客3人が慣れない箸を使い、次から次へと給仕されるそばをかきこんでいた。100杯を超えると「too much」。

 同店の馬場暁彦社長(52)によると、NYTで紹介されてから、欧米からの客らが増えているという。

 「52カ所」は、NYTの記者らが推薦した世界各国の都市から毎年選ばれる。国内ではこれまで大阪や東京、京都などが選ばれていて、今年は盛岡市のほか、福岡市が19番目に載った。

 NYTの記事は盛岡市について、混雑を避けて歩いて楽しめる美しい場所▽山に囲まれ、いくつもの川が流れる豊かな自然がある▽盛岡城跡や赤れんがの岩手銀行旧本店本館など和洋折衷の伝統的な建物が並ぶ▽東京から新幹線で約2時間、などと紹介している。

      ===== 後略 ===== 


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