「東急ハンズ」はなぜ追い詰められたのか コロナ前からの“伏線”と、渋谷文化の衰退
昨年12月22日、東急ハンズがカインズに買収されることが発表され、波紋を呼んでいる。
1/30/2022
【画像】変わる渋谷の文化と店(全8枚)
都心部・駅前立地の東急ハンズは、コロナ禍による外出の自粛で大きな影響を受け、2021年3月期の売り上げが632億円(前年同期比65%)と、前年のほぼ3分の2の規模へと大きく落ち込んでいた。また、営業損失は44億円の赤字に転落した。
22年3月期も、第2四半期までの売り上げが273億円となっていて、前年同期の291億円から18億円減少していた。営業損失は24億円で、前年同期より赤字が2億円増えていた。そのため、2期連続の期末赤字が濃厚であった。
コロナ禍が終息しても、密を避けるライフスタイルへの変化により、都心部の店舗がコロナ前の売り上げにまで戻るかどうかは不透明だ。
一方のカインズは、ホームセンター業界最大手。21年2月期の売り上げは過去最高の4854億円だった。前年比110%であり、好調に推移している。
カインズは群馬県前橋市を拠点とするベイシアグループの中核企業だ。カインズに限らずベイシアグループはこれまでM&Aを活用せず、自力で成長するポリシーを貫いてきた。それにもかかわらず、異例の大型買収に踏み切った。
ベイシアグループは、ベイシア、ワークマンなども含めて、グループ年商が1兆円を超える。
日本の小売業ではトップ10に入る規模だ。8兆円を超えるイオン、5兆円を超えるセブン&アイ・ホールディングスには遠く及ばないものの、三越伊勢丹ホールディングスの約8000億円よりも大きい。その巨大流通グループがいよいよM&Aを本格化させるとなると、小売業の地図が一変する起爆力を持つ。
東急ハンズは、東急不動産ホールディングス(HD)の傘下にある。傘下にある他の有力企業は、東急不動産や東急リバブルなど、ほぼ不動産業の範囲内だ。一方、東急ハンズは小売業で、性格を異にしている。東急不動産HD内の事業別売上高は6.8%で、都市再開発などを行う都市事業32.7%、住宅事業15.7%、マンションなどの管理事業19.8%と比べても、グループ内シェアが低かった。
同じ東急グループに属していても、東急百貨店、東急ストアは、東急電鉄と同じく東急の100%子会社で系統が違っていた。東急ハンズのグループ内の微妙な位置付けが、M&Aにつながった面もあった。
カインズでは、「東急ハンズをカインズにはしないが、店名は変更する」と明言しており、これまで見知ってきた東急ハンズの歴史は遠からず終わりを迎える。
東急ハンズのファンにとってはどうか。たとえ中身が大きく変わらなくても、別の店名に看板が書き換えられた“元東急ハンズ”になっては、寂寥(せきりょう)感を禁じ得ないだろう。
なぜ、東急ハンズは売却されることになったのか。
渋谷を訪れる人が減少
東急ハンズは、コロナ禍の前から業績が伸び悩んでいた。15~20年3月期の年商をそれぞれ見てみると、879億円、957億円、972億円、971億円、974億円、966億円。つまり、17年以降の行き詰まりがM&Aの伏線になっている。
17年頃より、20年に開催される予定の東京オリンピックを見据えて、渋谷の再開発が本格化していた。東急ハンズは、パルコ、ロフト、109などと共に、先進的といわれた渋谷文化の象徴だった。しかし、その渋谷が破壊され再構築されようとしていた。
東急ハンズは本店にあたる渋谷店の集客が、全体に及ぼす影響が大きい。ところがその渋谷店は、渋谷の交通事情、商業事情に業績が左右される。
JR渋谷駅における乗客数の推移を1日平均で見ると、12年は41万人だったが、13年は38万人に下がった。また、14~19年は37万人となっている。13年に東急東横線ホームが地下化したことが影響し、渋谷駅を使う人は減っていた。なお、コロナ禍の20年は22万人に激減した。
16年8月には、建て替えのため渋谷パルコがいったん閉店している。これが公園通り、宇田川町方面の人流に与えた影響は大きく、渋谷に来る観光客の人数も減っていた。
15年3月には、駅前の東急プラザ渋谷も、建て替えのためいったん閉店している。これでは渋谷店が苦しくなっても当然だ。
衰退した渋谷文化
1980年代から2000年代、渋谷文化は日本に大きな影響を与えていた。しかし、2010年8月にHMV渋谷店が閉店したあたりから、“衰退”が顕在化していた(HMVは15年11月渋谷モディに復活)
。HMV渋谷店の跡に入ったフォーエバー21渋谷店も、同ブランドの日本撤退で19年10月に閉店。16年8月には、カラオケのシダックス旗艦店、渋谷シダックスビレッジクラブが閉店している。
20年11月には、SHIBUYA109の主力ブランドに長らく君臨した、セシルマクビーの全店が閉店。同年5月に、ライブハウスのVUENOS、21年5月にはミニシアターのアップリンク渋谷が閉店した。
そして、渋谷シダックスの跡に入ったのが、ニトリ(2017年6月オープン)。フォーエバー21渋谷店の跡に入ったのが、イケア(20年11月オープン)。どちらも郊外のロードサイドに強い家具店であるが、雑貨に力を入れており、東急ハンズの競合店の1つ。これら、雑貨強化型の郊外型家具店が、渋谷に相次いで進出したのも、今回のカインズによる東急ハンズ買収の地ならしになったと思われる。
コロナ禍の直前には、渋谷の再開発がほぼ完了。渋谷スクランブルスクエア、渋谷ストリーム、渋谷ソラスタ、渋谷フクラス(新生東急プラザ渋谷)、新生渋谷パルコなどが一斉にオープンした。2000年頃にビットバレーと呼ばれた、ベンチャーの街・渋谷を取り戻すのがまちづくりの大きなテーマとなっており、主にIT産業が入居するオフィスビルが多い。商業施設も新生渋谷パルコではアニメやゲーム、飲食の横丁などの要素が多く取り入れられていて、ファッションからカルチャーへと軸足が移っている。
そうした流れから、東急ハンズには本来、追い風が吹いているはずだ。しかし、それら新築のビルを見てから渋谷店を訪れると、天井は低く、壁面の老朽化が目立ち、商品に到達する前に購入意欲を削がれてしまう。高低差のある難しい地形を逆手に取った、各階の中間階をつくっていく独特なフロアの設計も、商品数が狭いスペース内に押し込められているように映るのだ。特に園芸とペット用品の売り場は物足りない。
去り行くかつての渋谷を引きずったまま、ズルズルと来てしまった感がある。 本来、渋谷店はパルコや東急プラザのように、全店閉館して平成版にリノベーションするか、建て替えるべきだった。
しかし、東急不動産HDはそこまで踏み切れず、勢いのある郊外型ホームセンターのカインズに再生を委ねた。
東急ハンズのコンセプト
東急ハンズの歴史を振り返ってみよう。
元東急ハンズのバイヤー、和田けんじ氏が著した『“元祖”ロングテール 東急ハンズの秘密』(2009年、日経BP社刊)によれば、東急ハンズの歴史は1972年に東急不動産が現在の渋谷店が建つ土地を取得したことに始まる。当時の渋谷は、67年の東急百貨店本店オープン以来、西武百貨店渋谷店、東急プラザ、パルコと新しい商業施設が続々と開店。しかし、宇田川町周辺は、渋谷と代々木公園を結ぶ通り道で何もなかった。
73年にオイルショックが起こり、金融引き締めにより東急不動産は土地・建物を他企業に貸すのを諦め、自社で活用することを考えた。協議の末、物販の店に決まった。不動産会社らしく住宅関連の小売店にすることにした。
担当者は米国のホームセンターを視察し、自分の手で作る「DIY(ドゥ・イット・ユアセルフ)」と生活を改善する「HI(ホーム・インプルーブメント)」の考え方を採用。日曜大工の道具や材料、生活雑貨、手芸用品、ホビー用品、インテリア関連用品などが商品リストに加えられた。日本でも登場しつつあったDIYショップと差別化するため、一般向けだけでなくプロ向けの商品までそろえることにした。
コンセプトは、「手の復権」。手の延長である道具を使って、新しい生活を創造することに決まった。専門的な商品を販売するため、使い方を丁寧に説明するコンサルティング販売を重視した。
売れ筋のみを並べない、豊富な品ぞろえが特徴。何に使うのか分からないようなものまで販売し、ニッチな需要を徹底的に拾いまくることが、本来の東急ハンズの姿。今日のアマゾン・ドット・コムのような巨大通販サイト、ダイソーやセリアなどの100円ショップは、この「ロングテール」と呼ばれるビジネスモデルを採用していて、東急ハンズの競合となっている。
全く新しいタイプの店をオープンすると説明しても卸商に通じないので、仕入先は職業別電話帳をめくってコツコツと開拓。店員は、新聞広告を見て応募してきた、元大工や元機械工を訓練した。
そうして、小売の素人である不動産業者が苦難の末、東急ハンズを立ち上げた。徹底した消費者目線が圧倒的に支持され、渋谷の名所となった。
なお、78年に渋谷店がオープンする前、76年に神奈川県藤沢市、77年に東京都世田谷区にそれぞれ出店している(いずれも既に閉店)。これらは、プロトタイプの実験店と考えて良いだろう。
現在の店舗数は、東急ハンズ63店(FC9店、海外15店を含む)、小型店のハンズビー20店(FC2店を含む)、計83店だ(2021年11月1日現在)。
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