いすみ市の行元寺をご存知ないあなたへ
12月20日千葉日報の記事http://www.chibanippo.co.jp/news/chiba/local_kiji.php?i=nesp1261273246
「竜なら魔力があるように描かないと。最高級の色の天然岩絵の具などを使い、さらに彫刻に迫力が出るよう心掛けた」。そう話すのは、いすみ市の行元寺(市原淳田住職)から建築彫刻の彩色作業を引き受けた栃木県の日本画家、吉木丈さん(73)。
吉木さんは一流の筆さばきを生かし建築彫刻の修復でも第一人者。国宝の日光東照宮も手掛けた。そのプロの目が「東照宮以上かも」と出来栄えの素晴らしさを指摘するのが、徳川家の庇護(ひご)を受けた行元寺の本堂や山門の建築彫刻だ。
今回、彩色したのは山門裏側から取り外しができなかった竜や雲などが彫られた数点の彫刻。現場は地上高5メートルあり、足場の上で細部の仕上げに苦労しながらも、ほぼ完成させた。厳しい冷え込みの中、3週間泊まり込みで取り組んだ。(写真、記事は千葉日報さんよりお借りしています)
いすみ鉄道ファン 国吉周辺http://blog.goo.ne.jp/isumitetudo/c/699f5095c23730873857820688c57758
行元寺・市原淳田住職さんは、いすみ鉄道を応援しています。こちら
市原淳田さんが地元の人伝えたいメッセージはこちら
久我原さんの写真です。行元寺のお地蔵さま。鮮やか~\(^o^)/
管理人さんは何処の東照宮と比べていますか?
日光の東照宮を見たことがありますか?
陽明門と比べて行元寺・山門が東照宮以上という人は
日本中探しても誰一人いないと思いますよ(*^_^*)
行元寺、知れば知るほどすごいお寺!
住職の市原淳田氏のご努力でだいぶ、地元にも知られるようになりましたが、まだまだ知らない事ばかりです。高松又八郎邦教は、江戸では公儀彫刻師つまり徳川家御用を勤めた偉大な彫士!
いすみの田舎に作品がある事にもっと驚愕しアピールせねばなりませんね。
高松又八作品がから、当時行元寺がどれほどの地位にあったかが想像できます。
ぜひご覧になってください、それはそれは、絢爛豪華、当時の成熟した文化と賑わいを感じさせてくれます。市原住職のお話も大変興味深く、郷土への誇りに満ちた内容に心打たれます。
行元寺 歴史(龍・牡丹と錦鶏) http://www18.ocn.ne.jp/~gyoganji/history.htm
また、夢窓国師もいすみにゆかりがあったようです、興味津々~。
桃山文化を継承 日本各種彫刻を凌ぐ「幻の名工」
龍・牡丹に錦鶏
行元寺:千葉県いすみ市萩原2136
幻の名工 高松又八
高松又八郎邦教(?~1716)といい、彫工島村俊元の弟子とされ、先祖は足利幕府の側近で、のち花輪(群馬県東村)に移り沼田の真田家に仕えたといわれています。江戸では公儀彫刻師つまり徳川家御用をつとめ、弟子11人が活躍して、根本家、小沢家、石川家、後藤家など多くの流派を興し、高松家は彫刻界最高の地位にありました。
主な仕事として江戸城改修工事に、彫り物棟梁として活躍、上野寛永寺に徳川4代家綱・5代綱吉の廟、芝の増上寺に6代家宣の零廟に彫り物を残しましたが第二次大戦で戦災によって焼失してしまいました。
豪華絢爛 桃山文化
行元寺本堂欄間に「宝永3年(1706)彫物大工高松又八郎邦教」の銘があることから、この程大きな発見となりました。躍動する「龍」、ほかに牡丹を中央に雄雌の錦鶏が左右に配された「牡丹と錦鶏」があります。そこには岩絵具を駆使し、漆や金箔などかみ合わせた優雅な色彩と、豪華絢爛の桃山文化の雰囲気が漂っています。
「家康・家光と亮運」
行元寺は山号を東頭山と称し嘉祥2年(849)慈覚大使によって開山されました。東国の最初であることから東頭山の名があるのです。
その後、幾度となく戦火に遭遇しましたが、平重盛や二階堂行元、冷泉家、武田氏など再興に尽力しました。天正14年(1586)6月、現在地に移築して『本多忠朝』などの信仰を集め、徳川家の庇護のもとに10万石の処遇をうけ、学問寺として末寺100ヵ寺、人材育成と芸術や文化向上に努めてきました。 この間に多くの学僧など輩出し、亮運(当時巌海)は、天海と共に家康の信仰を集め、上野寛永寺学頭となって家康の師となったことで特に知られています。開山して1150年、冷泉家や二階堂行元が再興して700年になります。
高松又八郎の作は八坂神社・本殿(東金市松之郷)、證誠寺内陣境欄間「二十四考」(木更津市)にも在ります。
行元寺の欄間、彩色修復の前の作拝見しましたが傑作とは云えません
夢窓国師坐禅窟(金毛窟) 【記念物・史跡】
http://www.city.isumi.lg.jp/pcp_portal/PortalServlet;jsessionid=B410F9539FC019A6BA2EBE3463F403E9?DISPLAY_ID=DIRECT&NEXT_DISPLAY_ID=U000004&CONTENTS_ID=2199
所在地:いすみ市能実957番地
所有者:太高寺
公 開:見学可
旧夷隅町能実(のうじつ)の大高寺の裏山に、夢窓国師の座禅窟が現存し、その自然石に『金毛窟』の文字が大きく彫られている。その近くには『御庵』の地名もあって、そこが夢窓の退耕庵(たいこうあん)の跡であることを伝えてくれる。
後醍醐天皇や光厳天皇の尊崇を受け、それぞれ国師号を賄わった。
49歳の夢窓は二階堂氏や冷泉為相の縁りの、上総千町庄(旧夷隅町)の退耕庵に移る。
現大高寺の裏山には、岩をくりぬいた洞窟があるその背後には『金毛窟』の三文字が横に大きく彫られている。ここで夢窓が長い時間、座禅三昧を過ごしたことが偲ばれてくる。
座禅窟からは、その前方眼下によしやこもが生い茂る湿地帯が展開していた。優しくうねる夷隅の山々にとりかこまれたこの野を、美田とするために開拓への情熱を燃やしたのである。
1325年春、後醍醐天皇は退耕庵の夢窓をしきりと京に誘うが、上洛を断る。後醍醐天皇はその夏しかたなく執権北条高時の力を借りて京に誘った。
止む無く夢窓は京に赴くことを承知する
1325年8月、まだ地名のなかった地の豊作を祈って『能実』の地名を贈り、京へ向かう。
そして後の、本多忠朝 新田開発へと繋がるのですね。
ぜひ、市原淳田氏の著書を読んで、子供たちへ繋げましょう。
PS・金毛窟と行元寺は近いですよ!
車で3分かな。
昭和5年 夷隅町生まれ 千葉県立総南博物館学芸課長、県立安房博物館長など歴任。現在行元寺住職 著書に市原允として、『日本文化発信の地 みゆき野物語』『大多喜城物語』『夢を売った男』など
みゆみ野物語 まえがき
遠く逆上って、この夷隅地方には『伊甚屯倉』(いじみのみやけ)が置かれ、大和朝廷の直轄領となったことがある。ときの安閑天皇が行幸されたことで、行幸の野、つまり『幸野』と呼んだらしい。いま夷隅町の一廓にその名を留めているが、古事記、日本書紀のころから『伊甚牟』『伊甚』の名称で登場した、歴史とロマンに満ちた土地である。(いじみ⇒夷隅)
中略
僭越であるがここ20年、この『みゆき野』の歴史と文化の掘り起こしを、ライフワークとしてきた。そこには汲めども尽きぬ話があって、歴史とロマンの香りが漂っている。そしてそれは日本文化の発祥の地と称しても、なんら差し支えないほどの、格調高い地域であることを知った。
過去の歴史や文化の認識は、未来への展望となり、新たな希望と活力をもたらす。したがって、新たなる文化の創造に、本書が役立てば望外の喜びとするところである。
平成6年10月
市原 允
目次
☆夢窓国師 ☆狩野正信 ☆土岐頼芸 ☆小野次郎右衛門忠明 ☆本多忠勝 ☆本多忠朝 ☆千姫と忠刻 ☆行が元寺亮運 ☆一茶と里丸 ☆田丸健良と東一貫斎 ☆農業近代化の推進者たち ☆鈴木金一郎 ☆野々宮(荘司)きく子 ☆正岡子規 ☆大畠豊水 ☆正力松太郎 ☆海沼実 ☆津軽照子
国吉駅近く、田園の美術館(いすみ市郷土資料館)
http://www.chiba-web.com/chibahaku/2/index.html
で購入できます 1500円ぐらいだったと思う。
これは必読です!とても読みやすく、歴史ロマン満載!
島の田園地帯、能実という名の意味などなど、納得の数々!
現在は、大多喜町・いすみ市は線引きされているけれど、遡れば同じ夷隅郡!
大河ドラマ実行委員会も、いすみ市も一緒がいいかもな~。
平安末~鎌倉~室町~安土桃山~江戸 への歴史ロマン小説、優雅さと強さ
みどりさんのお陰で、鳥を見つけると嬉しくなるこの頃です
奥村さんのコメントから、そういう人がたくさんいらっしゃる土地なんですね~、きゃ~素敵!!
いすみ鉄道と地域の人柄でバッチリですね\(^o^)/
船橋市からきたみたいで行元寺まではまだ距離があったので車で送ってあげました…(^o^)
レンタル自転車は現在準備中って感じです…
でもタクシーが捕まらなくても国吉駅で「あの~行元寺まで乗せてくれます?」って言えば誰か乗せてくれるよ…(^o^)/
俺もおばさんグループや老夫婦とか数回駅から乗せてあげた事があるし♪いすみ市の人は優しい人が多いから勇気を出して言えば「どっから来たの?じゃ~乗りなよ♪」って感じになるよ…(^-^)v
行元寺といえば、波の伊八の彫刻がクローズアップされますが、学僧の巌海が天海大僧正の弟子だったとは、驚きました。
これは、もっとアピールしたほうがよいと思います。(僕が知らなかっただけだったりして、、)
ところで行元寺は国吉駅からタクシーで8分となっていますが、歩くと1時間くらいでしょうか?徘徊が好きな僕としても少々、遠い。レンタサイクルとかありませんか?
>調べていくうちに、何もないと思われていたこの地域が、実は明治までの時期、農業、商業、政治においても、多くの偉人が生まれたことが、わかってきた。
「農業ひとつ取っても、明治期、人耕にかわって馬耕が初めて行われたのもこの地域。それによって耕地整理が進められ、画期的な収穫を得ることができた。日本一の水車を用い、低い所から高い所に水を揚げる揚水に成功したのも夷隅地方なのです」。
文化においても例外ではない。「夷隅地域は、文化はつる所という印象を持たれている。ところが、逆なんですね。たとえば、近代絵画を支配した世界に誇る「狩野派」が生まれたのは夷隅町。といえば、みなさんはそんなことはない、と言うんです。だけど調べてみると、まちがいなく夷隅町・大野からは狩野派の始祖・狩野正信が生まれているんです」と市原さん。
偉人はいなかったのではなく出さなかった、といっても過言ではない。調べれば調べるほど、この地方が格調高い地域であることを確信する。しかし、そんな文化はあるはずもない、と思われていた地域。その事実を世間が認めるには時間がかかる。そのことを発信し続けなければいけない。なにより、地元の人に伝えたい。いかにこの地が勢いのある地域であったか。そしてふるさとを誇りに思ってほしい。