散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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SS往来 #2 ~ 愛と大切

2023-05-07 08:42:13 | 聖書と教会
2023年5月7日(日)

来信転記:
 先のメールに,私,パウロの言葉は「あなたは愛されています」と言われて慰めを得ることのできる人には通じるのだろう,と書きましたね。
 以前にも,私は「愛」ではなく「大切」という言葉を使いたいということを言いました。

 私は「愛されている」と言われても全く嬉しくないし,どこにその良さがあるのかも分かりません。でも,「あなたは大切な存在だ」と言われたら,すごく嬉しいです。
 何が違うのかなと,もう一度考えてみました。
 そして,たぶんこういうことなのかな,と思いました。

 例えば,子供の落書きのような,よく分からない絵があって,1000万円という値が付いていたとします。それを見た人は,どこがいいのかさっぱり分からなくても,1000万円という値段ゆえに,傷つけないように大切に扱うでしょう。
 でも同じ絵が,値も付かないままに置かれていたとしたら,その絵に心が引かれた人は大事にするでしょうが,どこがいいのか全く分からないと思う人はぞんざいに扱うと思います。

 私にとっては前者が「大切」,後者が「愛」です。

 パウロの基礎にあるのは,「値も付かないような私を,神様は御心に留めて大事にしてくださった」ということなのだろうと思います。
でもそれは,私にとって慰めではありません。
 私自身が聖書から受け取ったのは,
 「どこがいいのかさっぱり分からないけれども,神様はあなたを尊いと言う。だから,あなたは大切だ。」
 ・・・というメッセージです。

 たぶん,私の心にパウロの言葉があまり響かないのは,この違いゆえなのではないかと思います。

***

返信素案:
 メールをありがとうございます。
 なかなか難しいですね、以前から伺ってきたことの背景がなかったら理解不能に陥りそうです。

 御自身を「どこがいいのかさっぱり分からず、普通は誰も目にとめない絵」に譬え、「私の目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ書 43:4)という聖句を1000万円の値札に譬えられたのですね。
 この事態を普通は「(神の)愛」と呼ぶのだと思いますが、あなたはそれを「大切」と呼ぶ、そのねじれが理解困難の第一の理由。
 もう一つは、パウロもまたそのような意味での「大切」を語っているというのが通常の理解だと思いますが、あなたはパウロの書簡にそうした「大切」を感じない、この乖離が困難の第二の理由なのでしょう。

 第一の点については、「愛」という言葉の浮き足だった感じをあらためて確認し、日本語をこよなく愛するものとしてそれが実に残念です。韓国朝鮮語は語彙の6割が漢語だそうで、固有語の存在感は日本語における大和言葉よりずっと薄いと思うのですが、「愛(する)」という言葉にピッタリの固有表現「サランヘヨ 사랑해요」をもつことばかりは何とも羨ましい。おまけに「サラン 사랑(愛)」と「サラム 사람(人)」が酷似する(同根?)という念の入りようです。
 戦国末期に来朝した宣教師たちが Θεός/Deus と並んで Αγάπη/Amare の訳に腐心したあげく、『どちりな・きりしたん』で採用したのが「大切」だったのでしたか?今、手許にないので違っていたらごめんなさい。
 そんなことを考えても、SS様のこだわりは大いに故あることと思います。

 第二の点については、ごめんなさい、まだよくわからないのです。パウロ書簡は正直なところ私もあまり好きになれず、ある会合でパウロ研究の専門家の前でそれを公言して、一悶着引き起こしたことがありました。
 ただ、パウロという人にはどこか嫌いきれないところがあるのですよ。パウロの話のあまりの退屈さに眠りこけて三階の窓から落ち、あやうく死ぬところだったエウティコを主人公に何か書けないかと考えたのも、この若者自身がひょっとしてそのようなパウロ観の転換を経験したのではないかと思うところがあったからなんです。
 
 今はこのあたりで御容赦願います。東京も雨でしょう、どうぞ気をつけてお出かけくださいね。

Ω

クサイチゴを掌に摘む

2023-05-06 11:54:53 | 花鳥風月
2023年5月6日(土)

 あたりの草むらに野イチゴの赤い実があり、一面の緑の中に宝石を見つけた気分になる。口に入れてみるとこれがほんのり甘くて美味しい。庭のサクランボは甘酸っぱいが、こちらは酸味がほぼ全くない。
 春に遊びに来てくれた姻戚が同じ世代の大阪郊外の育ちで、「ヘビイチゴはよく見かけました」というが、ヘビイチゴは味がなく口に入れたいものではない。あらためて調べてみると、野イチゴとはこちらが勝手に決めたことで、クサイチゴ(草苺、Rubus hirsutus)というのが正式名称らしい。バラ科キイチゴ属の落葉小低木ということになる。ヘビイチゴ(蛇苺、Potentilla hebiichigo Yonek. et H.Ohashi)はバラ科キジムシロ属の多年草で、見かけ以上に違ったものであるようだ。

 なにしろそのクサイチゴが、今年豊作なのかこれまで気づかなかったのか、裏庭で掌に溢れるほど集まった。


 集めながら、ベルイマンの映画『野いちご』を思い出したのは自然な連想である。原題は "Smultronstället"(英訳 "Wild Strawberries")、「野いちご」は野生のイチゴ類の総称と思われる。クサイチゴは帰化植物ではなく、中国・朝鮮半島・日本に広く分布するとあり、北欧の野に実るものとの類縁関係はよくわからない。
 それより、あの映画が「野いちご」と題されていることの面白さである。一緒に映画を観た後で学生たちに質問を振ってみると、このタイトリングの企みがすぐにピンと来ないことが多いようなのが、やや意外に思われた。
 若い娘のサラは映画の主人公であるイサクの許嫁である。親族の食卓に供すべく野いちごを籠一杯に集めたところへ、イサクの弟ビクトルがやってくる。ビクトルはサラに言い寄り、押し問答の中で野いちごが籠から散乱してしまう。1957年制作で当然ながら白黒の画面だが、それだけに観るもののイメージの中で散らばる野いちごの赤は、かえって鮮やかに想像されるだろう。古い写真のカラー化が最近の話題になっており、それを楽しむのは大いに結構だし自分も楽しむつもりでいるが、それに耽るほどに人の想像力が痩せ衰えていくことは考えておいた方がよい。
 この場面、「野いちご」は横溢した生命力とエロティシズムの絶妙な象徴となっている。籠に収まっていたものが、溢れて散らばってしまったのである。説明の必要などありはしない。
 映画『野いちご』は仕掛けの多い快作で、ビクトルとイサク、後には二人のヒッチハイカーが「サラ」を競い合うところに託されたヘレニズムとヘブライズムの相克は、その太い軸ともいうべきものである。
 甘やかな野いちごを誰が賞味堪能することになるのか、人生の醍醐味は一にかかってそこにある。何という贅沢でしょうこの朝は!

Ω

ツバメのこと、松明のこと

2023-05-03 09:02:41 | 花鳥風月
2023年5月3日(水)


 上の写真は3月14日に納屋の梁を見あげて撮ったものである。その数日後に巣が無残にも床に落ちていたことを前に書いた。帰省から引き上げる際、納屋の外の門の梁に板を打ちつけ、崩落の懸念なく巣作りできる場所を設けてツバメを誘致してみた。しかしGWに帰省してみたところ、好条件の新規提案には見向きもせず、写真と全く同じ位置に新たな巣を設けている。胸の緑がかった鳥は見当たらず、どうやら別のペアらしい。戻ってくれたのは嬉しいが、またぞろ同じ憂き目を見はしないかと落ち着かない。
 この納屋は二階建てのしっかりしたもので、昭和10年代に築造された時には棟上げの祝いに餅を播いた。播き手をつとめた80年以上前の思い出を、今でも父から聞くことができる。
 屋内に無造作に積み上げられているものの中には大正から昭和初年の古い書籍が散見され、保存状態も悪くない。それならという訳で、一階の半分ほどをかたづけて本棚を入れ、書庫に使うことにした。ツバメの巣を見あげながら『史記』だの『プロメテウスの罠』だのを読むのも乙な図であることと、こちらは悦に入っているが心配なのは頭上の住人の方である。

 一つには、こうして人家の屋内に入り込んで巣をかけながら、なかなかすぐには人に慣れないことである。肩に止まって挨拶しろとは言わないが、こちらが忍び足で出入りするたびに大慌てで飛び出していくのでは、何のためにこんな近さに営巣したものだか。飛び出した鳥は近くの電線から「ツピー、ツピー」という特有の警戒音を発し、時には「ギギギ」という不快な音まで立てて仲間に不安を振りまいている。
 もう一つの懸念は、納屋の二階に上がってしまうことである。上がっても降りてくるなら放っておけばよいのだが、信じられないことに上がったきり降りてこられないことがよく起きるのだ。十年以上も前だろうか、二階に上がって鳥の白骨死体を初めて見たときは、こちらも小腰を抜かした。一階と二階は階段でつながっており、人が上り下りするだけの大きな穴がそこにある。そもそも上がったものなら降りられない理屈がないだろうに、二階の三方向に取り付けられた窓ガラス越しの空にもっぱら注意が向くものか、入った穴から出て行く了見をもつことができない。
 留守の間、二階の窓を開け放しておく訳にはさすがに行かず、一階の扉は立て付けがよくないので、きっちり閉めたつもりで指3本分ほどのわずかな隙間が残る。一階のその隙間から自在に出入りしながら、二階にあがると降りてこられないのである。一昨日また二階で二羽の亡骸を拾い、重い心で荼毘に付した。数千㎞を過たず往復する力強い生き物に、何と哀れな死角のあることか。
 仕方がないので、本棚の部品が送られてきた大きな段ボール箱をにわか加工し、一階と二階の隙間を塞ぐことにした。当方は昇降が不自由だが、夏の間の辛抱である。二階に自らを閉じ込めた哀れな鳥は、力尽きて息絶えるまでの間に大量の白い糞を一面に撒き散らしている。その掃除も冬の仕事まで先延べとしよう。
 当方の配慮を知るよしもなく、当代のカップルは人の姿を見てはバタバタ・ツピーを繰り返している。せめて立派に雛を育ててくださいませ。

***


 わかりにくいが、今度は焚き火の写真である。火を制御するのはコツも工夫も要ることで、「火の番人」というものが人類学的に何か意味があるのではないかと考えたりする。『ニーベルンクの指輪』ならローゲの役どころで、「火」「言葉」「道化」などを一身に具現する影の主役である。
 北極圏先住民 〜 今はエスキモーと言わないようだが、急ぎ調べた範囲でエスキモーと呼んで悪い理由は見当たらず、最近よく使われるイヌイットはかえって不適切な可能性がある。今ここで火中の栗を拾う必要もないので、このように書いておく。ああバカバカしい 〜 の民話の中では、当然ながら火種を絶やさないことが死活問題の重要さで語られる。岩波の『カラスだんなのお嫁とり』の中には、火の番をしているのが小さな女の子であるのをいいことに、悪人たちが火種を奪い去り、それをフクロウが取り戻してくれるという話があった。
 焚き火もそろそろ終わりにしたいところ、最後にくべた松の枝が不思議になかなか燃え尽きない。細々した火なのに長時間にわたってちょろちょろ燃えているのを撮ったのが上の写真である。
 それで思いあたった。たいまつを「松明」と書くのは、そのためか。

> 明かりとして使うために手で持てるようにした火のついた木切れなど。通常、長い棒や竿などの突端に枯れ草や松脂など燃えやすいものに浸した布切れを巻きつけたもの」

> 古くは、手に持つ灯火を「秉炬」「手火」と書いてタビと読み、いまもこれをタイといっている地方がある。のちに「炬火」「焚松」「松明」などと書いてタイマツとよぶようになった。今日、タイマツと読まれている松明の語は、本来は、脂(やに)の多い松材の意で、続松(ついまつ)、肥松(こえまつ)のこと。

 前者の解説によれば、「松明」と「炬火」は『和名類聚抄』では別項目として扱われ、松明の項に「唐式云毎城油一斗松明十斤」とあるという。「斤」という言葉を久しぶりに見た。1斤は約600gだそうな。食パンの「1斤」はしかし、これとは別物だそうで、その子細がややこしくも面白い。

Ω

ドラマの台詞に反応したわけ

2023-05-03 09:02:41 | 日記
2023年5月2日(火)

 Q太郎君、何が問題か、ですって?
 そうですか…

 「存命」ってのは、読んで字の通り「生きている」ってことですよね。
 「ご存命とは存じあげず」は、敬語の粉飾を取り除いてしまえば「生きているとは知らなかった」ということです。
 「(まだ)生きているとは知らなかった」って、本人に向かって言いますか、とそういう意味でした。
 なに、言うでしょうって?
 ああ、そうですね、そういう名台詞がありましたね。
 
生きていたとは お釈迦さまでも
知らぬ仏の お富さん

 歌舞伎の切られ与三 〜 『与話情浮名横櫛』〜 を題材にした『お富さん』、昭和29年に発表され春日八郎が歌って一世を風靡した歌謡曲の傑作です。といっても私は生まれてなかったんだから、後で聞いた話ですよ、本当に。
 もともとの歌舞伎の名調子を転記しますね。ヤクザものが恨みつらみで凄む場面なら、これこの通り、ぴったりなわけです。生きていたとは知らなんだ、と。
 当該ドラマはヤクザものじゃないんだから、せめて「御健在でいらしたのですね!」ぐらいに加工してほしかったと思いますよ。
 え、違いが分からない?困ったな、どうも…

***

ええご新造さんへ、おかみさんへ、お富さんへ、
いやさ これお富、久しぶりだなぁ
**
 しがねえ恋の情が仇(あだ)、命の綱の切れたのを、どう取り留めてか木更津から、めぐる月日も三年(みとせ)越し、江戸の親には勘当うけ、よんどころなく鎌倉の、谷七郷(やつしちごう)は喰い詰めても、面へ受けたる看板の、疵がもっけの幸いに、切られ与三(よそう)と異名を取り、押借り(おしがり)強請(ゆすり)も習おうより、慣れた時代の源氏店、そのしらばけか黒塀に、格子造りの囲いもの、死んだと思ったお富とは、お釈迦様でも気がつくめえ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8E%E8%A9%B1%E6%83%85%E6%B5%AE%E5%90%8D%E6%A8%AA%E6%AB%9B
 
Ω

夢の効用

2023-05-01 07:16:27 | 日記
2023年5月1日(月)

 夢についての体験様式は人それぞれだが、僕はというと筋を語れるような意味の通った夢を見た例しがない。フロイトの『夢判断』を読んだとき、置き換えだの圧縮だの、例によって精緻に深読みされたメカニズムの数々に驚き入りながら、これはまぁ別世界・別人種の物語と思ったものである。
 しかるに今早暁、いったん覚めて二度寝の短時間に見た夢は、その種のメカニズムが見事に働いた筋の追える一幕芝居になっていた。
 そこで僕は壮年の男性の胸ぐらをつかんでがなり立てていた。相手はどうやら同じ職場の他部署に属する人間らしい。その彼が羊頭を掲げて狗肉を売りつける式に、ほとんど詐欺まがいで厄介な仕事を押しつけたやり口を難じているのである。
 これは事実それらしいことが最近あったのだが、軽くたしなめれば十分な程度のありがちな話で、実際こちらの気持ちをきちんと伝えて和解ずみのことである。それを何でこんなに怒るかと、寝ぼけ眼を何度かこするうちに理由が分かった。職場とはまったく別の社会領域で、ある女性が示しつつある不誠実な(と僕には思われる)コミュニケーションのあり方に、自覚する以上の強い不満を抱いていたのである。
 女性の胸ぐらをつかんで怒鳴りあげるわけには、夢の中でもいかない。ここに置き換えがあり、そして二つの文脈が一つに圧縮されていたわけなのだ。
 さてさて剣呑なこと、無自覚な強い感情はしばしば大事な場面で判断を誤らせる。夢がそのことを教えてくれたのだが、こんな風に夢に助けられたのはこの歳になって初めての経験である。
 人生にはまだまだ知らないことがあるらしい。

Ω