散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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雑草という名の草はなし

2023-05-07 12:40:08 | 花鳥風月
2023年5月7日(日)
 中予というより瀬戸内一帯と言うべきか、ともかくこのあたりは雨が少ない。晴耕雨読は生活の理想だが、天気に任せていると「読」は少しも進まないこと必定で、そこは人為的な修正を加える必要がある。野原で遊んでいると、読み書きがバカバカしく思えてくるから困ってしまう。

 雨天を幸い骨休めかたがた、ここ数日出会った草花の記録から。

 カタバミ(酢漿草、片喰、傍食、Oxalis corniculata

 こちらが有名なカタバミさんだと知らなかったのは実に恥ずかしい。わが家の家紋は「三扇に剣方喰(みつおうぎにけんかたばみ)」だから、なおさら知らないで済まない理屈である。ちなみに「剣方喰」や「丸に剣方喰」など、方喰系の家紋は多いものの、三扇というヴァリエはなかなか見ることがなく、由来が気になっている。

 

 カタバミのすぐ近くで見たもので、検索では「タチカタバミ」という変種と出てくるが、それで良いものかどうか確信がもてない。

 
アメリカフウロ(亜米利加風露、Geranium carolinianum

 フウロソウ科フウロソウ属、在来種のゲンノショウコと同じ仲間だが、北アメリカ原産の帰化植物で1932年に京都で発見され、今では全国の道ばたでよく見かけるのだと。

トキワツユクサ(常磐露草、Tradescantia fluminensis

 ツユクサ科ムラサキツユクサ属の多年草。ドクダミの中に埋もれて見過ごしかけていたが、小さな貴婦人の風情あり。名前の漢字から在来種かと思えば実は南米原産、昭和初期に観賞用として持ち込まれ野生化したもので、外来生物法により要注意外来生物に指定されているとのこと。

 
ミゾソバ(溝蕎麦、Polygonum thunbergii または Persicaria thunbergii

 タデ科タデ属 (Polygonum) またはイヌタデ属 (Persicaria) に分類される一年生草本で、これは東アジアの在来種。田んぼの用水路がコンクリートで護岸されていなかった時代には、溝の縁などにごく普通に見られたという。ただし名前は「溝傍」ではなく「溝蕎麦」、見た目が蕎麦に似ていることから来るという。さらに「ウシノヒタイ(牛の額)」という別名があり、これは葉の形に依るのだと。下掲はピントがぼけているが、葉の形がよくわかる。
 

 
 サルスベリの足下にツルニチニチソウが密生し、その中からミゾソバやオオツルボが頭を出している。その向こうの石垣沿いの草むらの中で、クサイチゴをたくさん摘んだ。こうした細部に目をとめると、おいそれと草刈りなどできなくなってしまう。いっそ刈らずに置いておこうか。

 ついでに庭の果実から。
 

 もちろんサクランボ。甘酸っぱい美味で、ヒヨドリはじめ野鳥に6割はもっていかれる。ソメイヨシノよりは早く咲き、桃色味のない白い花弁に長い雄蕊が密生するのが特徴だが、何桜なのかよくわからない。

 
 これはアンズ(杏子・杏、Prunus armeniaca)、ヨーロッパでは近世に至るまでアルメニアが原産地と信じられていた故の学名だが、実際には中国北部説が有力らしい。『本草和名』(延喜18年/918年)には「杏子」と記し、和名をカラモモとしていたという。

 
 最後のオマケは柿の花、黄色い小さな花が枝先にびっしり付いている。秋の実りはこの時期から準備されているわけだ。

Ω



SS往来 #2 ~ 愛と大切

2023-05-07 08:42:13 | 聖書と教会
2023年5月7日(日)

来信転記:
 先のメールに,私,パウロの言葉は「あなたは愛されています」と言われて慰めを得ることのできる人には通じるのだろう,と書きましたね。
 以前にも,私は「愛」ではなく「大切」という言葉を使いたいということを言いました。

 私は「愛されている」と言われても全く嬉しくないし,どこにその良さがあるのかも分かりません。でも,「あなたは大切な存在だ」と言われたら,すごく嬉しいです。
 何が違うのかなと,もう一度考えてみました。
 そして,たぶんこういうことなのかな,と思いました。

 例えば,子供の落書きのような,よく分からない絵があって,1000万円という値が付いていたとします。それを見た人は,どこがいいのかさっぱり分からなくても,1000万円という値段ゆえに,傷つけないように大切に扱うでしょう。
 でも同じ絵が,値も付かないままに置かれていたとしたら,その絵に心が引かれた人は大事にするでしょうが,どこがいいのか全く分からないと思う人はぞんざいに扱うと思います。

 私にとっては前者が「大切」,後者が「愛」です。

 パウロの基礎にあるのは,「値も付かないような私を,神様は御心に留めて大事にしてくださった」ということなのだろうと思います。
でもそれは,私にとって慰めではありません。
 私自身が聖書から受け取ったのは,
 「どこがいいのかさっぱり分からないけれども,神様はあなたを尊いと言う。だから,あなたは大切だ。」
 ・・・というメッセージです。

 たぶん,私の心にパウロの言葉があまり響かないのは,この違いゆえなのではないかと思います。

***

返信素案:
 メールをありがとうございます。
 なかなか難しいですね、以前から伺ってきたことの背景がなかったら理解不能に陥りそうです。

 御自身を「どこがいいのかさっぱり分からず、普通は誰も目にとめない絵」に譬え、「私の目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ書 43:4)という聖句を1000万円の値札に譬えられたのですね。
 この事態を普通は「(神の)愛」と呼ぶのだと思いますが、あなたはそれを「大切」と呼ぶ、そのねじれが理解困難の第一の理由。
 もう一つは、パウロもまたそのような意味での「大切」を語っているというのが通常の理解だと思いますが、あなたはパウロの書簡にそうした「大切」を感じない、この乖離が困難の第二の理由なのでしょう。

 第一の点については、「愛」という言葉の浮き足だった感じをあらためて確認し、日本語をこよなく愛するものとしてそれが実に残念です。韓国朝鮮語は語彙の6割が漢語だそうで、固有語の存在感は日本語における大和言葉よりずっと薄いと思うのですが、「愛(する)」という言葉にピッタリの固有表現「サランヘヨ 사랑해요」をもつことばかりは何とも羨ましい。おまけに「サラン 사랑(愛)」と「サラム 사람(人)」が酷似する(同根?)という念の入りようです。
 戦国末期に来朝した宣教師たちが Θεός/Deus と並んで Αγάπη/Amare の訳に腐心したあげく、『どちりな・きりしたん』で採用したのが「大切」だったのでしたか?今、手許にないので違っていたらごめんなさい。
 そんなことを考えても、SS様のこだわりは大いに故あることと思います。

 第二の点については、ごめんなさい、まだよくわからないのです。パウロ書簡は正直なところ私もあまり好きになれず、ある会合でパウロ研究の専門家の前でそれを公言して、一悶着引き起こしたことがありました。
 ただ、パウロという人にはどこか嫌いきれないところがあるのですよ。パウロの話のあまりの退屈さに眠りこけて三階の窓から落ち、あやうく死ぬところだったエウティコを主人公に何か書けないかと考えたのも、この若者自身がひょっとしてそのようなパウロ観の転換を経験したのではないかと思うところがあったからなんです。
 
 今はこのあたりで御容赦願います。東京も雨でしょう、どうぞ気をつけてお出かけくださいね。

Ω