散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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五十肩の光と影

2018-04-05 07:53:33 | 日記

2018年4月4日(水)

 この一月ばかり右肩を動かすと痛みがあり、様子を見ていたがなかなか退かない。

 ちょうど30歳の時に右肩を強打し、肩甲骨と鎖骨を繋ぎ止めている肩先の靱帯をブッツリ切ってしまうケガをした。付着する筋肉の力関係(僧帽筋>大胸筋)で鎖骨が跳ね上がり、ゆくゆく肩の不自由を生じる危険があるという。整形外科で勧められ実施した手術が、上腕の筋肉の肩側の付着部を骨ごと付け替えるというものだった。上腕二頭筋の短頭と烏口腕筋が、肩甲骨の背外側上部にある烏口突起に収束している。この突起を筋肉ごとまるまる切り取り肩甲骨から鎖骨に付け替える、烏口突起移植術と呼ばれる術式である。付け替えによって上腕二頭筋・烏口腕筋が鎖骨を下方に引く力が加わり、鎖骨の位置は靭帯の結合力によってでなく、筋肉の力学的バランスによって正常に復することになる。

 こう書いてみると、吊り橋、とりわけ斜張橋の原理などが連想される。昔はやった水平思考とでもいうのか、神様の人体設計を部分変更するもので、最初に考えた人は真に偉い。偉いには偉いが、母校の附属病院での最初の手術はあっけなく失敗し、あえなく再手術となった。抜釘とあわせて三度の入院で患者として学んだことはきわめて多く、今となれば良い経験をしたと思うが、その時は苦痛で不便なばかりである。再手術は申し分なく成功したものの、その後しばらく冬場や梅雨時はその部分の疼くことがあった。それにいくらか似た感触が今回はある。手術部位に組織の増生が生じ、それが神経を圧迫しているといったような妄想が湧いてきて、日増しに心配が募った。

 医者はコワいが役に立つ。毎月手伝いに行くA君のクリニックに、同窓のK君がこちらは整形外科医として手伝いに来ており、実は30年間に二度ほど世話になっている。お恐れながらと訴え出て、さっそく診てもらった。

 当日は、さすがプロと思うことの連続。Yシャツを脱ぐ仕草を見て「ああ、そんな感じになっちゃってるんですね」、右腕を抜く動作に痛みを伴うので、まず左を抜いておいて左手で右腕を抜く、彼にとっては毎日見慣れた反応を確認して、既に視診が始まっている。

 次いで問診、「肩が痛い」のありようから可能性を三つほどに絞り込む。いくつか動作を指示して痛む筋肉を特定、頚部の痛みがないのを確認して可能性を二つに減らし、別室でレントゲンと、流れるようにスムーズだ。今どきは便利なもので、撮影するが早いか控えの部屋で画像を確認。「手術の跡は申し分ありません。肩関節にも肩鎖関節にも、骨の異常はナシ。ということは骨を取り巻く筋肉や軟部組織の問題ですね。」

 で、結論は「肩関節周囲炎」、別名を五十肩という。ご、五十肩ですか、十年ほども得したと思えばいいのね。

 「朝起きたときが、体が固まってる感じでいちばん痛いようです」とつけ加えたら、

 「ああ、出ちゃってますね、油ぎれ症状が」と、事もなげに即答が返ってきた。あ、油ぎれですか、と、内言がいちいちドモっている。薬の処方はなく、ただ丁寧な説明に添えて五十肩体操のチラシ2枚を渡された。お見事!

  

 現金なもので、確かな見通しがついたら同じ痛みがはるかに耐えやすくなった。五十肩、K君に依れば「少しケバが立っているぐらいの腱板炎」とのことで、そうと分かればそんなものに負けてられない。無理は避けつつ、ストレッチと筋力強化がミッションである。関連する筋肉は僕の場合、棘上筋・棘下筋・小円筋とのこと。A君と同班で解剖学実習に取り組み、これらの筋肉の名前をラテン語で覚えたのは36年前になる。

 帰り道にA君がウナギをおごってくれた。座敷のぐるりに大きな瓢箪がいくつもぶら下がっており、聞けば御亭主の親戚に瓢箪づくりを趣味にしている人があるという。瓢箪には人を魅了する魔力のあること、『西遊記』は金角・銀角の紅びょうたんやら、志賀直哉の『清兵衛と瓢箪』やら、例に事欠かない。おおかた御親戚もこれに取りつかれた口だろうか。蓋にする節くれ立った木片も山中を歩いて見つけてくる、中の種を取り除くのが難儀で、種はギンナンを思わせるような悪臭があってなかなか大変、手間ひまかけて立派な瓢箪ができたのなら、売れば良いのにとの周囲の勧めをよそに、作っては分け与えるあくまで高邁な趣味の瓢箪・・・伺うだに楽しいトリビアの数々。

 記念に写真を撮らせていただいたが、この大瓢箪が信じられないほど軽い。信長が腰の周りにやたらにくくりつけたのも無理からず、至って軽便なウェスト・ポーチだったわけだ。向かって右端が「川魚 根本」(三郷市)の御亭主である。御尊顔を露出して申し訳ないが、宣伝ということで許していただこう。さて、元・胸部外科医で現在は内科・小児科クリニック院長のA君と、整形外科一筋のK君、どちらがどちらでしょう?

 瓢箪をもって鰻を抑える・・・違ったっけ?

Ω

 


夜桜の記憶

2018-04-04 11:07:43 | 日記

2018年3月23日(金)

  この日に撮ったきり、ほったらかしてあった。肉眼に映った朧な美しさはこれとは微妙に違う。違うものに置き換えてしまうのが惜しかったのである。あらためて開き、しばらく眺めた。肉眼の記憶の方は既に何ほどか抽象化され、具(つぶさ)には思い出せなくなっている。

 逆さのようなのは、遊歩道で頭上の桜を見上げて撮ったからだ。逆さにするとまた趣が変わり、小さくするとこれまた別に見える。蛍光染色の顕微鏡写真を思い出すようだ。

 小さなピースが無数に集って大きな図を描く様相には何か共通の、胸をときめかせるものがある。個別の相貌と共通の法則、その関わりのどこにどう注目するかで、芸術と科学の諸分野が分かれ立つ。それらがまた大きな図を描いて広がっていき、そこにもまた規則性があり法則の影が垣間見えている。法則は確かに存在するのに、その全容は決して知り得ない。

 宇宙という池の面の、終わりのない波紋を連想する。

Ω


四大の不調が病のもと

2018-04-03 11:26:21 | 日記

2018年4月3日(火)

 火・曜日か。

 太子また問給はく、「何なるを病人とは為ぞ」と。答て云く、「病人と云は、耆(たしび)に依て飯食すれども癒ることなく、四大不調ずして、いよいよ変じて百節皆苦しび痛む・・・」(今昔物語 巻第一 「悉達太子、城に在りて楽を受けたまへる語」)

 東・南・西の門を出ては、老・病・死の苦悩に出会う有名な場面だが、いま気になるのは「四大ととのわずして」という部分である。四大とは「物質を構成する四大元素とされる地・水・火・風のこと。人体もこの四元素から成り、その調和が崩れると病気になると考えられた」と岩波文庫版の脚注にある。

 明解だが、これだと古代ギリシアの哲学・医学 ~ イオニア派の自然哲学からエンペドクレス、降ってヒポクラテスに至る思想の要約と寸分変わらない。実際、仏教にも【四大=地水火風】という枠組みはカッチリと存在するわけで、どちらがどちらに影響したのか、あるいは共通の淵源があるのかなどとすぐ考えたくなってしまうが、そういう問題の立て方が生産的でないのかな。

 頭の中の古代地図上で、メソポタミアとインドの間に境界線を引きたくなるのがたぶん間違いなので、どちらかといえば中国とインドの間に太めの境界線を引く方が正しさに近いかも知れない。インドは東洋ではなく、あえて西洋と区別したいなら中洋だと言ったのは、梅棹忠夫だったか。

 弥勒来迎という仏教の思想は、キリスト教の再臨思想を景教(ネストリウス派)異端を介して取り込んだものだと、どこかで読んだ。今昔物語の冒頭「釈迦如来、人界に宿り給へる語/釈迦如来、人界に生まれ給へる語」など、降誕物語の補遺を読んでいるような気もちになり、妙にアウェイ感がないのである。

 この間はNHKが古代エジプトの三人の女王に注目した番組を立て、その一人であるネフェルティティとの関連で紀元前14世紀の失敗に終わった宗教改革について紹介していたが、フロイトの妄想に依ればここで生まれた太陽神信仰を純化発展させるため、エジプト王族の一宗教指導者が一群の民を率いてカナンへ移住したのが、旧約聖書にいう出エジプトの真相だという。

 真偽はともかく、こうした相互作用の巨大な坩堝が向こう側にある。インドはその東の一翼を担っているが、中国からこちらはいちおう断絶しており、時折り風に乗って強い香りが伝わってくる、そんな距離感か。それだけに『今昔物語』の野心の大きさが眩しいようである。

 そういえば『聖☆おにいさん』、2006年以来堂々の連載進行中だが、最近はどんな話になってるのかな。こちらも大変な野心の大きさだ。

Ω


穴絓 何と読むのか 何をするのか

2018-04-02 13:32:28 | 日記

2018年4月2日(月)

 かかりつけの歯医者さんまで2km弱の道、昨年もこの季節に歯の定期健診に通い、道すがら桜や桃の開花を楽しみ、そして思いもかけない悲報を受けとったのだった。

 現役時代の王選手が、一本足で打つ瞬間に非常な力で噛みしめる、それで傷んだ歯の手入れをシーズンオフに入念に行うと聞いたことなど思い出し、自分も歯の手入れは誕生日過ぎと決めた。 

 世田谷の住宅街だが、どうかすると面白いお店があったりする。小さな製薬会社に名の分からない巨木がそびえる、その道向いに「◯◯穴絓」という看板が懸かっている。何だろう、どう読むのかと気になって、帰って調べたら同じ疑問をもった人がやはり世の中にある。店・看板の感じもよく似ており、ひょっとしたら同じ店かもしれない。

 https://sebit.exblog.jp/11031607/ より拝借

 ブログの主さんは丁寧に調査なさったうえで、「井戸の穴掘りだろうか?」と仮説を立てていらっしゃるが、どうやらこれは「穴かがり」らしい。そう言われてもピンと来ない世も末の我々のために、神田あたりのある会社が事例を挙げてくれている。「ボタンホール伸び/拡大不良の補修」などとあるのが「穴絓」の原型かな。他にファスナーの補修、服の裏地滑脱の補修、長袖➝半袖加工など、ボタン穴周辺の便利屋さんという趣きで、なるほど助かることが多かろう。

 

 いずれお世話になるかもしれないが、いま僕がお世話になりたいのは本のお医者さん、腕が良くてひどく高いことを言わない製本屋さんである。古い辞書や歌曲集など、手入れして使いたい。どなたか御存じありませんか?

 

Ω

 


復活節の感銘と落胆

2018-04-01 21:28:54 | 日記

2018年4月1日(日)

 何時の頃からか、この時期の月齢が気になるようになった。先日も書いた「春分の日の後の満月の次の日曜日」という規定があるからで、今年は3月30日(金)の晩、外出先の東南の空にきれいな満月を見た。地上の花も夜目に絢かである。

   

 そこでめでたく日曜日。新年度の初日がイースターであり、エイプリル・フールでもあるという暦のアヤが生じた。礼拝で使われた3曲の讃美歌の最後が初めて歌うもので、感銘ひとしおである。

 イースターはキリスト教暦のヘソのようなもので、クリスマスがないとしたらキリスト教は大破を被るが、イースターを失ったら信仰そのものが一撃轟沈である。とはいえ、暦にまつわる讃美歌の美しさと豊かさではイースターはクリスマスに遠く及ばず、比較にも何もならない。とりわけ日本ではその観が強く、それだけに「讃美歌21」が『球根の中には』といった比較的最近の名曲を拾っているのは嬉しい。334『よみがえりの日に』もその一つと思われた。

 ただ、例によって翻訳が問題で。

 素朴な三拍子の短調に載せてエマオ途上の物語が坦々と語られる。訳詞も、6番中5番までは概ねよくこなれていて ~ 「客が食卓で」は少々苦しいけれど ~ 苦労がしのばれる。大変だとは思うんですよ。

1 よみがえりの日に エマオの道で、とまどい、おそれて イェスに気づかず。

2 「何を悩むか」と見知らぬ人が 問いかけてくれる イェスと気づかず。

3 聖書ときあかす 言葉を聞いて 心が燃えたよ イェスと気づかず。

4 一日(ひとひ)のおわりに 「共に泊まろう」と 無理にひきとめた イェスと気づかず。

5 客が食卓で パンをとって裂くと 悲しみ消えさり イェスと気づいた。

 そして6番…

6 心を燃やして 現場にかえり 「主はよみがえった」と イェスを伝えよう。

 現場・・・ゲンバですか、マジで? 絶句・・・「げ」「ば」の音の荒さ(ゲバルト的な!)、「犯行〜」「工事〜」といった連想のろくでもない方向性、何よりもこれでは意味がわからない。いったい何のゲンバに帰れというのか。

 インターネット検索で出てきた原詞を末尾に掲げる。「現場」と訳されているのは scenes of pain だ。受難物語の狭義の文脈ではゴルゴタへ向かう道と、丘の上のあの場面ども、主の亡骸が取り去られたことを嘆き悲しむ女たち男たち、より広く取るなら、人の世のあらゆる種類の苦悩と喪失の現実であろう。

 そう思えば「現場」と訳す意味もわからないではないが、歌詞なんだからね。「悲しむ民に」とか「悩む巷に」とか、「燃やす」を受けて「闇夜を照らし」とか「闇路を戻り」とか、工夫はいろいろあろうではないか。そもそも「心を燃やして」は情緒と動機づけに注目した言葉で、opened eys, renewed convictions が理知的であるのとは開きがある。それならいっそ、これはどうか。

 「心啓(ひら)かれて 闇路を戻り」

 などなど考え巡らしつつ、あはれ今春みすみすまた過ぎ四月に入った。

*** 

(↓ http://www.singingthefaithplus.org.uk/?p=1492  に音源あり。)

On the day of resurrection
詞:Michael Peterson, 1954-   曲:Mark Sedio, 1954-

On the day of resurrection
to Emmaus we return;
while confused, amazed, and frightened,
Jesus comes to us, unknown.

Then the stranger asks a question,
‘What us this which troubles you?’
Meets us in our pain and suffering;
Jesus walks with us, unknown.

In our trouble, words come from him;
burning fire within our hearts
tells to us the scripture’s meaning.
Jesus speaks to us, unknown.

Then we near our destination.
then we ask the stranger in,
and he yields unto our urging;
Jesus stays with us, unknown.

Day of sorrow is forgotten,
when the guest becomes the host.
Taking bread and blessing, breaking,
Jesus is himself made unknown.

Opened eyes, renewed convictions,
journey back to scenes of pain;
telling all that Christ is risen.
Jesus is through us made known.

Ω