散日拾遺

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アクト・オブ・キリング

2018-04-08 00:14:33 | 日記

2018年4月7日(土)

 『アクト・オブ・キリング』という異色映画のDVDを勝沼さんが貸してくれたが、ずいぶん長いこと見ずにほってあった。さすがの勝沼さんも「先生そろそろ」と促し、今日のことようやく見たという体たらくだが、これも内容の重さが予め察せられたからである。
 この映画が何を企てたかについては、映画冒頭の字幕部分が的確に要約している。

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 「1965年、インドネシア政府が軍に権力を奪われた。軍の独裁に逆らうものは”共産主義者”として告発された。組合員、小作農、知識人、華僑、西側諸国の支援のもと1年足らずで100万人を越す”共産主義者”が殺された。実行者は”プレマン”と呼ばれるヤクザや民兵集団。以来、彼らは権力の座につき敵対者を迫害してきた。殺人者たちは取材に応じ、自らの行為を誇らしげに語った。その理由を知るため、殺人を自由に再現し撮影するよう彼らに依頼した。本作はその過程を追い、成行きを記録したものである。」

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 やや詳しく言えば、監督らは当初、被害者に対する取材を試みたが、これを察知した軍部から被害者らに圧力が加わり、取材を続けることができなくなった。その時、被害者らが「加害者たちに取材してほしい」と言い出した。加害側が率直に語ってくれるだろうかとの懸念に反し、加害者らは大喜びで取材に応じた。以下は上記の通りであるが、この作業が思いがけない変化を加害者の少なくとも一部にもたらし始めたことが、166分に及ぶ長い作品の末尾に至って漸く明らかになる。

 「自分たちが若い頃に何をしたか、未来に伝えることが必要だ」と目を輝かせて「記録映画」制作への熱意を語った、1965年の殺人者アンワル・コンゴ、「戦争犯罪は勝者が作るものだ」「ブッシュはイラクに大量破壊兵器があると称して戦争を正当化したが、事実はどうだったか」と傲然と居直る盟友アディ、作品の後半でこの彼らが確かに変化し始めている。

 変化をめぐって映画が何を為しえたか、あるいは映画をスプリングボードとして人々が何をなし得るかについては、ジョシュア・オッペンハイマー監督のインタビューを転記するのがわかりやすい。

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 "Absolutely my primary moral motivation was to create a film at an opener space for people to finally talk without fear about some of the most frightening and painful aspects of their reallity.  I think the film has helped catalyze a transformation in how Indonesians are talking about its past, and that there cannot be reconcilliation or anything that resembles justice until that spece is open.  So I am more optimistic than I ever was that genuine change can come."

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 僕のヒアリングは威張れるようなものではないが、大略間違いないはずである。

 「私がこの映画を撮ったモラル面での最大の動機は、何といっても人々によりオープンな場を提供することにありました。彼らが実際に経験した最も恐ろしく苦痛に満ちた体験について、安心して話せるような場です。この映画は、インドネシア人の過去についての語りを変容させる、触媒の役割を果たしたと思います。オープンな場で話し合うことができない限り、融和だの正義だのは存在しようもないのです。(この映画を撮り終えた今)本当の変化が起きる可能性について、私はこれまでにないほど楽観的になっています。」

 それにしても疲れた。筋だらけの分厚いビフテキを、切れないナイフでこすりながら160分かけて食べたような心地がする。誰にでも勧められるというものではないが、少なくともこの映画の存在 ~ そして1965年にインドネシアで何が起きたかについては、せめてもう少し知られてほしいと思う。

 https://www.youtube.com/watch?v=Mu68nD5QqP0(予告編)

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 蛇足ながら。1965年のインドネシアの向こうに、ポル・ポト時代のカンボジアやミャンマーの軍政が透見される。そして、妙なことを言うようだが、僕らはそのいずれに対しても間接的な責任を負っている。同時代に生きることから発生する、必然的な結果というものだ。

 さらに蛇足、というかほとんど無関係のこと。西部邁(にしべすすむ、1939-2018)氏の自死と幇助が世間を騒がせている。これをめぐっていささか言いたいこともあるのだが、これは止めにしておく。ヤクルトスワローズが昨年の超不振を一掃する勝ちっぷりを示しても、某局のニュースはなぜか決して同チームを主語にしない ~ 「DeNAが連勝を逃した」「巨人が今季初の連敗を喫した」等々 ~ という、不可思議な偏向ぶりに悪態つくぐらいにしておこう。

 Ω