散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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槙の実

2015-04-14 10:16:06 | 日記

2015年4月14日(火)

 

 「ほんなら先生、槙の実、食べたことあるか?あれ、美味しいんやで」

 「槙って、庭木にする、あの槙ですか?」

 「そうそう、あの槙や、実ぃがな、赤と青と、玉が二つくっついたような形してるんや。青の方は食べられへん、赤いところだけ食べるとな、これが甘くて美味しいんや。季節?さぁて、あれは何月頃やったかな、おかしなもんや、あれだけ馴染んでて、季節いわれたら、すぐには分からんな~」

 

 Iさんは先頃「肺年齢、90歳代」と宣告され、以来「寝返り打ってもしんどい」とぼやいている。客をないがしろにする店員だのマナーの悪い乗客だのに、一言いわずには済まない性分だが、最近は「口利くのがしんどい」と文句も言わず、それでストレスがたまるのだそうだ。

 が、

 この日はよくしゃべって、息切れする風もない。結構なことだ。

 

 槙の実について調べてみたら、Iさんの語る通りだった。多言するよりも、下記のサイトが素敵なのでこれに譲る。

 

 夢見る農園 http://blog.murablo.jp/inomura/kiji/345191.html

 「受け継いだ田畑の管理が十分できない状態が続いていました。時間を見つけては、その再生に取りかかろうとしています。」

 同じ志の人々が全国に散らばっている。簡単に地方が消滅したりするものではない。消滅の危機を孕んでいるのは、悟らない都会人の方だ。

 

 Iさん言うところの青い部分が種、赤い部分が果肉であるらしい。いつ味わえるかな。

 




どどめ賛歌

2015-04-14 08:40:06 | 日記

2015年4月14日(火)

 

 どどめ・・・どどめ色、どんな色?

 土留め色? まさかね~

 

 どどめとは桑の実の別称、知らなかった、恥ずかしい。

 「山の畑で桑の実を/おかごに摘んだは幻か」

 美しい歌だ。そして桑の実がどどめなのだ。

 

***

 

果実[編集]

果実は桑の実、どどめ、マルベリー (Mulberry) と呼ばれ、地方によっては桑酒として果実酒の原料となる。その果実は甘酸っぱく、美味であり、高い抗酸化作用で知られる色素・アントシアニンをはじめとする、ポリフェノールを多く含有する。旬は4月~5月である。キイチゴの実を細長くしたような姿で、赤黒くなる。蛾の幼虫が好み、その体毛が抜け落ちて付着するので食する際には十分な水洗いを行う必要がある。 また、非常食として桑の実を乾燥させた粉末を食べたり、水に晒した成熟前の実をご飯に炊き込む事も行われてきた。 なお、クワの果実は、キイチゴのような粒の集まった形を表す語としても用いられる。発生学では動物の初期胚に桑実胚、藻類にクワノミモ(パンドリナ)などの例がある。

(http://ja.wikipedia.org/wiki/クワ より)

 

***

 

 特別の地図記号をもつほど産業上重要だった桑畑だが、養蚕の衰退とともにかえってお荷物になっているという。

 桑の実を活用することで、再生の道が開けないかな。

 不老長寿の成分が、どどめから抽出されるとか。

 何しろ野趣があって美味だもの。

   


ギュンター・グラスとリューベック

2015-04-14 07:24:28 | 日記

2015年4月14日(火)

 

 『ブリキの太鼓』のギュンター・グラスが亡くなった。

 いつものことだが、訃報に接して初めて気づくことがある。彼は1927年生まれ、和暦なら昭和2年で、わが父と同年だ。

 この年代は特有の重荷を負わされてきた。敗戦時に満18歳というのは、どうにも残酷なタイミングである。善悪の判断のつかないうちに歴史の怒濤に呑みこまれ、幼い良心に従って最善を尽くし、世に出ようとする瞬間にすべてが転覆される。その転覆のありようが、昨日まで正しいとされたことが、悪として容赦なく断罪されるという、残酷この上ないありようである。

 10年年上の者は、まだしも自分の責任として引き受けることができる。10年年下の者は、まだ何も始まっていないから再適応のしようがあろう。しかしこの年代の人々は、ドイツでも日本でも、もって行き場のない苦悩に泣かされたはずだ。グラス自身、武装親衛隊員だった過去をノーベル賞受賞後に明かして波紋を呼んだが、その年代のそうした履歴に責任を問うことなど、できはしない。父が陸軍幼年学校に進んだのと基本的に同じ話である。

 「3歳で成長を止めた子どもの目から見たその時代」という構想は、こうした苦悩の世代ゆえの逆転の発想とも思われる。

 だから、

 「我々は第二次大戦中の生活について、日本の『ブリキの太鼓』を書く作家を持たなかった。これが日本とドイツの戦後の歩みの違いを象徴している。」(池澤夏樹、朝刊34面)

 悔しいとすれば、このことの方なのだ。

 

 少々トリビアルだが、僕にはもうひとつ面白く感じられることがある。

 彼の亡くなったのは、リューベックの病院であったとラジオのニュース。リューベックといえばトーマス・マンだ。

 グダニスク生まれのグラスが、終の棲家としてリューベックを選んだ事情は知らないが、ドイツの知性と良心、そして芸術性を代表するトーマス・マンへの敬慕と無関係であったとは、到底考えられない。1982年の春に知人の援助でドイツへ旅行したとき、リューベックの城壁に沿って町を歩いて一周してみた。ヨーロッパ中世都市の案外な小ささが実感され、逆にそのことに舌を巻いたものである。

 ブッデンブローク・ハウスを過ぎ、ホルステン門を抜けて、グラスの魂が天に昇ったことだろう。こうした都市をもつことが、ドイツの羨ましさである。

   

 


素人通訳

2015-04-14 06:51:17 | 日記

2015年4月14日(火)

 

 「99パーセント負けると思っていたけど、百パーセントじゃない。その1パーセントに何が起こるかわからないのがボクシングだと、自分に言い聞かせていました」

 それを日系人らしい若い男が英語に言い直した。

 「百パーセント負けると思っていたが、幸運にも勝つことができた」

 広岡は、まったくニュアンスの違う言葉になっていることを、ナカニシのために残念に思った。彼の言葉を正確に会場の観客とテレビの視聴者に伝えてあげたかった。

(中略)

 「ミラーの試合を録画で何十回も見て、攻撃も防御も完璧なボクサーだということはわかっていました。僕なんかとレベルが違う。でも、相手を追いつめてラッシュをかけているとき、頭からボディー、特に脇腹に右で決めのフックを叩き込もうとするとき、左のガードが一瞬だけ大きく下がることがあるのに気がついたんです。ミラーのディフェンスに穴が空くのは、そのときだけです。だから……」

 ところが、そこで、通訳はナカニシの話の腰を折り、勝手に「通訳」しはじめた。

 「ミラーはエクセレントなボクサーです。自分とは比べものにならない。あのパンチはラッキーパンチでした」

 広岡は、話をまったく異なる方向に要約してしまう通訳に腹を立てたが、一方で、ナカニシというボクサーの頭のよさに驚いていた。

(『春に散る』沢木耕太郎 ルート1 12・13回目)

 

***

 

 今週の日・月曜の朝刊から。筆者はもうずいぶん前に『一瞬の夏』を同じ朝日に連載していた。記事はろくに読まず、そこだけ追っていた自分が何歳だったのかな。単行本の出版が1981年だから、その直前の連載だったはずだ。

 

 ここに出てくる「通訳」は、たまたま会場にいた日本語の分かる者を臨時起用した素人らしく、でたらめな要約もあながち責められない事情がある。現実世界では、それで金を取る玄人が似たようなでたらめをするから、始末が悪い。映画の字幕など、驚きあきれることが珍しくない。

 他人事じゃないのだ、僕らの翻訳も時間不足で追いつめられている。同様の仕儀になったら、申し訳が立たない。


公布日と施行日

2015-04-13 23:37:18 | 日記

2915年4月13日(月)

 

 テレビの威力たるや驚くべきもので、4月1日の第一回放送の直後にさっそく学生から指摘があった。精神保健法の制定年が、教科書では1988年、放送では1987年になっているという。おっしゃる通り、恐れ入りました。

  なので「教科書がミスプリではないか」というのは、それなりに自分で調べた証拠と思われるが、結論から言えば、これはあながち、どちらが正しいとも言えないのだ。

  以下、回答(一部改変)

 

何某様:
 注意深く受講しておられますね。
 精神保健法は1987(昭和62)年に改正公布され、翌1988(昭和63)年7月から施行されました。このため公布日をとるか施行日をとるかで、年の標記が変わってきてしまいます。印刷教材では施行日、放送教材では公布日に従って記載したため、御指摘のような不一致が生じました。不注意についてお詫びいたします。
 公布日と施行日のどちらを優先すべきかについて、法律上の決まりは存在しないようです。たとえば日本国憲法は、施行日の5月3日を「記念日」としていますが、精神保健法については、「1987年」と標記する文献が多いようなので、これに従うことを考えています。
 御指摘ありがとうございました。

 

***

 

  回答としてはここまでなのだが、実はこの混乱にはちょっとした伏線がある。

 僕が医者になったのは1986年で、精神保健法の制定はその直後である。しかも、法の改正はお題目ではなく、僕らの実務に大きな影響を与えた。それを象徴するのが、「措置解除」である。

 旧・精神衛生法のもとでは、「経済措置」なる言葉と現実が存在していた。措置入院は自傷他害の恐れのある患者に対して適用される強制入院の態様で、本人の治療のために適用される同意入院と違って危機回避的・公安的意味合いが強く、いちだんと強制性の強いものであった。

 同意入院は現制度化の医療保護入院の前身で、本人の「同意」ではなく保護義務者の「同意」を得て行われる強制入院の制度である。措置入院は上述の目的から保護義務者の同意すら必要とせず、その代わり(現制度下では)精神保健指定医複数名の一致した判断が必要とされる。そして ~ ここがポイントなのだが ~ 措置入院の場合は、入院医療費の全額が公費負担とされることになる。

 

 なので、

 

 精神衛生法時代には、精神症状がおさまって措置要件が消滅したものの、なお入院が必要であるような患者に対して、本人や家族の経済的負担に対する配慮から、「措置入院の継続が必要」との診断書を医師が書き続け、措置入院が長期化するケースが多数あった。当時、たとえば措置入院の都道府県ごとの件数比較が公表され、著しく高い地域に対して注意が喚起されるということがあったが、なかなか是正されなかったのである。

 

 精神保健法の成立とともに、強力な行政指導によって是正されたのがこの問題であった。そして、医者になりたての僕らの仕事のひとつは、ワーカーの助けを借りて(というより、困難な家族調整作業などはほぼすべてワーカーがやった)経済措置を解除し、医療保護入院なり任意入院なりに切り替えることだった。その作業の開始の号令となったのが精神保健法の制定であったが、とりわけ現場の僕らにとって印象の強いのは、それが法として成立し公布された1987年9月ではなく、実際に施行された1988年7月だったのである。

 精神保健法の成立が「1987年」とされることが多いのは心得ていたが、印刷教材執筆の際ほとんど無意識に「1988年」を選んだのは、そういった体験的事情のためであったかと思われる。

 

***

 

 回答の中で、これまた筆が滑る形で「憲法記念日」に言及した。おかげで、これまで知らなかった「公布/施行」をめぐる逸話に注意を向けることになった。以下、wikipedia から拝借しておく。

 (文中に現れる「明治節」は、明治天皇の誕生日。現在、11月3日が「文化の日」とされているのは、1948年に公布・施行された祝日法によるもので、明治節ではなく日本国憲法の公布日を根拠としている。どちらにせよ、その意味を知る者が今どれほどいるか、怪しいものだ。)

 

*** 

新憲法の公布日・施行日をめぐる議論[編集]

日本国憲法の公布日および施行日については、その日をいつにするか議論があった。当時法制局長官であった入江俊郎は、後にこの間の経緯について次のように記している。

新憲法は昭和二十一年十一月三日に公布された。 この公布の日については二十一年十月二十九日[2]の閣議でいろいろ論議があつた。公布の日は結局施行の日を確定することになるが、一体何日から新憲法を施行することがよかろうかというので、大体五月一日とすれば十一月一日に公布することになる。併し五月一日はメーデーであつて、新憲法施行をこの日にえらぶことは実際上面白くない。では五月五日はどうか。これは節句の日で、日本人には覚えやすい日であるが、これは男子の節句で女子の節句でないということ、男女平等の新憲法としてはどうか。それとたんごの節句は武のまつりのいみがあるので戦争放棄の新憲法としてはどうであろうか。それでは五月三日ということにして、公布を十一月三日にしたらどうか、公布を十一月三日にするということは、閣議でも吉田総理幣原国務相木村法相一松逓相等は賛成のようであつたが、明治節に公布するということ自体、司令部の思惑はどうかという一抹の不安もないでもなかつた。併し、結局施行日が五月一日も五月五日も適当でないということになれば、五月三日として、公布は自然十一月三日となるということで、ゆく方針がきめられた。
公布の上諭文は十月二十九日の閣議で決定、十月三十一日のひるに吉田総理より上奏御裁可を得た。

 入江俊郎『日本国憲法成立の経緯原稿5』、入江俊郎文書[3]

なお、この閣議における議論に先だって、GHQ民政局の内部では、「11月3日」は公布日として相応しくない旨を日本国政府に非公式に助言すべきであるとの意見もあった[3]。また、対日理事会中華民国代表も、1946年(昭和21年)10月25日ジョージ・アチソン対日理事会議長に書簡を送り、明治時代に日本が近隣諸国に対して2回の戦争を行ったことを挙げ、民主的な日本の基礎となる新憲法の公布を祝うため、より相応しい日を選ぶよう日本政府を説得すべきであると主張した。しかし、アチソンは、同年10月31日の返信で、「11月3日」が公布日とされたことに特に意味はなく、日本政府の決定に介入することは望ましくないと書き送った。

こうして、日本国憲法は、1946年(昭和21年)の「11月3日」に公布、1947年(昭和22年)の「5月3日」に施行となった。

(http://ja.wikipedia.org/wiki/明治節)