散日拾遺

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写真でまとめる帰省の顛末

2018-10-14 08:24:10 | 日記

2018年10月20日(土)

 久しぶりにゆっくり過ごす土曜日。一週間前は朝の便で松山に入り、リムジンバスでJR松山駅へ。駅前ロータリーの北側に、これに限るという例の句碑。

 松山藩立藩の経緯:

 慶長5(1600)年、加藤嘉明(外様)が20万石で立藩。これが会津42万石に加転封となったので入れ替わりに・・・

 寛永4(1627)年、出羽国上山藩より、蒲生忠知(外様)が24万石で入封。寛永11年、嗣子なく死去のため蒲生氏断絶。

 寛永12(1635)年、伊勢国桑名藩より、松平定行(親藩)が15万石で入封。かく成立した「15万石の城下」が明治維新まで続く。「20万石」はまだしも、「24万石」では調子が悪いだろう。

 愛媛県内に、親藩から外様まで多彩な8つもの藩が並立していたことは、前に書いた。(上毛かるたと西条かるた(後)2018-06-16 https://blog.goo.ne.jp/ishimarium/e/263ca6bea04ac12f5124868380a64a8c)

 城下町も名城も全国に数多いが、松山城の値打ちは「平山城」の良さ、つまり標高132mの青垣籠れる勝山と山頂の城郭が、一体となって醸し出す風情である。加えてこの高さゆえ、町中どこからでも見あげればお城を見ることができる。ささやかな贅沢。

 山辺に向かひてわれ目を挙ぐ / 扶けはいづかたより来たるか (詩篇121/讃美歌 301)

 

 これは宿舎の11階から、さらに少々贅沢の上積み。講演のほうは、こんな内容。変わりばえもしないが、これがどうやら出発点のようなものである。

   

 今回特筆は、話の前後に訪れてくれた人々との縁や出会いの豊かなことで、その半ばは会場が郷里松山であったことに依るが、そればかりでもないのが面白い。

・ 松山市内のI小児科、満90歳の老先生と夫人が連れだって御来聴あり。I夫人は東京の教会のAさんの御親友で、そのつきあいは関西出身のAさんが戦時中、今治に疎開していたことに端を発する。疎開先の今治も苛烈な空襲に遭ったが、これについては項を改める。今回、Aさんが講演のことをI夫人に伝えてくれたので御来聴が実現したが、実は御主人の御尊父、つまり先代のI先生というのが父の命の恩人である。蒲柳の質であった父は何度か疫痢で死にかかり、I医院に入院して助かっている。

・ MB病院の相談室主任Oさんは血縁と判明。わが父とOさんの御母堂K子さんが従兄妹同士で、K子さんは昭和40年頃、松江に遊びに来られて大山(だいせん)で一緒にスキーしたりした。その温顔をよく覚えているが、惜しくもこの8月末に他界なさり、MB病院の緩和ケアチームがみとったとのこと。驚き合うやら慰め合うやら、このあたりは郷里ならではの密度の高さか。

・ MB病院の事務長さん、こちらは浜松周辺の御出身だが東京学芸大学の御卒業で、僕の通った高校で教育実習をなさっている。科目は保健体育、御尊名が名古屋時代の体育の先生と同じでもしやと思ったが、ここはただの偶然らしい。

 縁というのとは違うが、夕食会の席では半島系二世で今は帰化なさったQ先生のお話が面白く、すっかり聞き入った。というのも、医大時代の友人で当時は母語名を名乗り後に帰化したC君と、顔かたちではない語り口やものの考え方がよく似ている気がして無性に懐かしかったのである。

***

 翌日は20km郊外のわが家に移動し、庭・畑いじりを楽しんだ。↓ 右は芙蓉、左は?

   

 ↓ 何の幼虫だろうか、ただでさえ派手ないでたちのうえ、尾部(写真上方)を激しくしんどうさせている。「目立たない」路線でなく「威嚇」による生存戦略らしい。

 ↓ 目の届かずにあった八朔の枝に立派な鳥の巣。用済みの空き家と見えたので撤去したが、なんとも巧洒なものだ。

 ↓ 飼ってはいないが、何となくいついている数匹の一。

 ↓ ずいぶん日没が早くなった。

Ω

 

 


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