散日拾遺

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5月13日 ヨハネ・パウロ二世が銃撃される(1981年)

2024-05-13 03:13:29 | 日記
2024年5月13日(月)

> 1981年5月13日、教皇ヨハネ・パウロ二世はバチカンのサン・ピエトロ広場で銃撃された。犯人はトルコ人メフメト・アリ・アジャで、至近距離からの発砲だった。
 実は、この銃撃事件は、1978年の教皇就任の時に、ピオ・フォルジョーネ神父によって予言されていたという。その予言は、「ヨハネ・パウロ二世が教皇に選ばれ、教皇は血にまみれて短い任期を終えるだろう」というものだった。銃撃までは予言通りだったが、ヨハネ・パウロ二世は奇跡的に一命をとりとめ、その後ほぼ24年間教皇の座にあり、2005年4月に世を去ったのである。
 ヨハネ・パウロ二世の教皇選任は運命的なものだった。1978年にパウロ六世が死去し、コンクラーベの末、65歳のヨハネ・パウロ一世が教皇になった。ところが、ヨハネ・パウロ一世がわずか33日で急死したため、再びコンクラーベが行われ、ヨハネ・パウロ二世の誕生となったのである。
 ポーランド出身のヨハネ・パウロ二世は、455年ぶりのイタリア人以外の教皇であり、スラブ系の教皇としては史上初めてだった。神秘神学と哲学の博士号を持ち、「空飛ぶ教皇」と呼ばれるほど世界各国を飛びまわり、平和のために活動した。特に故国ポーランドの民主化には大きな影響力があったと言われている。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.139

ヨハネ・パウロ2世(羅:Ioannes Paulus II, 伊:Giovanni Paolo II)
本名カロル・ユゼフ・ヴォイティワ(Karol Józef Wojtyła)
1920年5月18日 - 2005年4月2日)


 傑物である。そして、かなり好きな人物だ。世界100カ国以上を訪問した「空飛ぶ聖座」は、訪問先の言語で簡単な演説をすることで有名だった。1981年の来日時には広島と長崎を訪れ、日本語で「戦争は人間のしわざです」「戦争は死です」と述べている。職掌に由来する観念的な平和主義ではなく、第二次世界大戦中にドイツとソ連に侵攻され、故国ポーランドが焦土と化した実体験に裏づけられている。
 だからこそ、だ。
 2003年、イラク戦争に際してジョージ・W・ブッシュ米大統領が「神の加護を」「神の祝福あれ」と「神」を引き合いに出したのに対し、このパパ様は「神の名を借りて殺すな」と不快感を表明し、「イラクでのこの戦争に正義はない、罪である」と公然と言い放った。「信仰によって」参戦を決めたというブレアの世迷い言が思い出される。そういえばブレアは首相退陣後にカトリックに転じたのだったな。
 
>  1980年代後半以降の東欧の民主化運動において、精神的支柱の役割を果たした。特に冷戦下で独裁政権下に置かれていた母国ポーランドの民主化運動には大きな影響を与えている。
 ポーランドは国民の98%がカトリック信者であり、教皇が着任8ヶ月後に初めての故国訪問をした際には熱狂的に歓迎された。ヨハネ・パウロ2世はワルシャワのユゼフ・ピウスツキ元帥広場に集まった人々に「恐れるな」と呼びかけた。その4ヶ月後の「独立自主管理労働組合「連帯」」が率いたストライキなどを経て政権は軟化の兆しを見せ始め、1980年代後半の冷戦終結時には民意に押されて民主路線へ転換した。
 このような民主化運動への後援の姿勢がソ連を始めとする東側諸国の政府に脅威を感じさせ、上述の暗殺未遂事件につながったという指摘がある。
 また貧困問題・難民や移住者の問題などの社会問題にも真摯な取り組みを見せた。議論を呼んだ1995年の回勅「エヴァンジェリウム・ヴィテ」(『いのちの福音』)では、プロライフの立場から妊娠中絶や安楽死を「死の文化」であると非難し、「いのちの文化」の必要性を訴えた。 

 問題の暗殺未遂事件、「イスラム教徒がカトリックの教皇を撃った」という単純な構図でないことは明らかで、メフメト・アリ・アジャは見事に踊らされたらしい。別のソースから転記:

>  1981年5月13日、ヨハネ・パウロ2世はバチカンのサン・ピエトロ広場にて、トルコ人マフィアのメフメト・アリ・アジャから銃撃された。銃弾は2発命中し教皇は重傷を負ったが、奇跡的に内臓の損傷を免れ一命を取り留めた。アジャは逮捕され終身刑が宣告されたが、その後恩赦に浴し、送還先のトルコで以前に犯した罪により服役した。
 1983年のクリスマスの二日後、ヨハネ・パウロ2世は狙撃犯人のアジャを刑務所に訪れた。二人は面会し、短時間の会話を行った。教皇は「私たちが話したことは、彼と私の間の秘密にしておかねばならないでしょう。私は彼を許し、完全に信頼できる兄弟として話しました」と語った。2005年4月にヨハネ・パウロ2世の訃報を聞いたアジャは深い悲しみを表し、喪に服したことが家族により伝えられている。
 2005年2月には、ヨハネ・パウロ2世自身が著書で「犯行は共産主義者によるもの」と発表。同年3月には証拠書類が東ドイツで発見されていた旨、ドイツ紙が報道した。それによると事件はソ連国家保安委員会 (KGB)が計画し、トドル・ジフコフ率いるブルガリア人民共和国、東ドイツなどが協力していたという。祖国ポーランドをはじめ当時の社会主義圏東側諸国における反体制運動の精神的支柱である、ヨハネ・パウロ2世の絶大な影響力を取り除くことが目的であった。
 2010年1月18日、アジャがトルコの刑務所から釈放されたことをBBCワールドニュースが伝えた。2014年12月27日、アジャはサン・ピエトロ大聖堂を訪問し、ヨハネ・パウロ2世の墓に献花した。アジャはフランシスコ教皇との面会も求めたが、バチカン側に拒否された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ヨハネ・パウロ2世_(ローマ教皇)

 ヨハネ・パウロ2世は翌年の同じ日、すなわち1982年5月13日にまたしても暗殺未遂に遭っている。今度は超保守的なスペイン人司祭、フアン・マリア・フェルナンデス・イ・クロン(Juan María Fernández y Krohn)に依るものだった。

> クロン神父は群衆の中からキャソック姿で現れ、ヨハネ・パウロ2世の背後から近づくと、「打倒教皇、打倒第二バチカン公会議」と叫んでから、長さ40cmのモーゼルライフルの銃剣で教皇を刺した。ヨハネ・パウロ2世は負傷したものの生命に別状はなく、彼を殺害しようとしたクロン神父を祝福し、巡礼旅行を続けた。クロン神父は犯行現場で治安部隊に無抵抗で逮捕され、懲役6年の判決を受けてリスボンの刑務所に3年服役した。

 このフェルナンデス・イ・クロンという人物は1948年頃の生まれで健在である。事件後に破門されて司祭職を放棄し、ポルトガルを追放されベルギーに渡ったが、ベルギーでは反ユダヤ主義の文書を配布し、ブリュッセルの裁判所で裁判官を殴っている。
 2000年7月、スペイン王フアン・カルロス1世がベルギー王アルベール2世を訪問した際には、何事か激怒し王たちに詰め寄ろうとして逮捕された。4ヶ月の懲役の後、精神鑑定で「危険なし」と判断されて釈放されたというが、誰がどんな鑑定をしたものか。
 その後も「ヨハネ・パウロ2世はアジャの時と違って、自身を決して許してくれなかった」などと述べたという。
 診断はいろいろ考えられそうだが、アンリ4世を殺害したフランソワ・ラヴァイヤックが哀れな病人だったのに対して、クロンの方は責任能力なしとは言えそうもない。
 もっとも、責任能力とは何かと考え始めると収拾はつかなくなる。

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