散日拾遺

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ついで『老子』

2022-10-11 12:50:46 | 日記
2022年8月23日(火)~10月11日(火)

 ついで『老子』あるいは『老子道徳経』
 『道徳経』といっても、いわゆる「道徳」の「経」ではなく、「道」と「徳」についてであることをこのたび知った。

『老子』蜂屋邦夫訳注(岩波文庫)
原文は右 https://ja.wikisource.org/wiki/%E8%80%81%E5%AD%90%E9%81%93%E5%BE%B3%E7%B5%8C

 書き留めようとしてあらためて思うに、体系的な「思想」をそこに学ぼうとするよりも、その全体を集合的な警句として味わう方が自分にはぴったり来る。そのことが『荘子』以上に『老子』で顕著に感じられる。
 高校倫社の先哲研究で老子をとりあげた同級生のことをよく覚えているが、後に理学部に進んだ長身痩躯の彼は、どこで調べて練習したのだか『老子』の一節を中国語で朗誦して教室を煙に巻いた。これこの通り、聞いて楽しむのが『老子』の面目であり、思想というよりまず文学として受けとるものだと弁じたものだが、案外そんなことかもしれない。
 方の力を抜いて読むなら、なるほど『老子』の行を追うのは楽しいもので、転記し始めると81巻の全篇を書き写すことになりかねない。『荘子』でそれをやったらひどい胃もたれから胃潰瘍まで起こしそうだが、『老子』は案外するりと消化管を通過しそうな気がする。「巻」と言ったが、各巻がきわめて短いのでもある。
  • 第1巻 道の道とすべきは、常の道にあらず。名の名とすべきは、常の名にあらず。名無きは天地の始め、名有るは万物の母。故に、常に欲無くして以てその妙を観、常に欲有りてその徼(きょう)を観る。この両者は同じきより出でてしかも名を異にす。同じきをこれ玄という。玄のまた玄、衆妙の門。
 いきなりである。これが第1巻の全体で、一部を切り出すことができない。「玄」は『玄玄碁経』、「衆妙」は『碁経衆妙』という古典詰碁集を連想させる。前者は南宋から元代に成立した中国の古典、後者は江戸の文化年間に林元美が編んだものである。
  • 第2巻 是を以て聖人は無為の事に処(お)り、不言の教えを行う。万物は作(おこ)りて辞せず、生じて有せず、為して恃まず、功成りて居らず、是を以て去らず。
     「そういうわけで、聖人は無為の立場に身をおき、言葉によらない教化を行なう。万物の自生にまかせて作為を加えず、万物を生育しても所有はせず、恩沢を施しても見返りは求めず、万物の活動を成就させても、その功績に安住はしない。そもそも、安住はしないから、その功績はなくならない。」
     これは聖人でなくてもこうありたい。親が子どもを「生育しても所有せず」、先輩が後輩に「恩沢を施しても見返りは求めず」、よろずの活動を「成就させても功績に安住せず」、これらは無為自然に似つかわしくはあるが、儒家・墨家でも似たことを言いそうだし、耶蘇家でももちろん同じである。

  • 第3巻 是を以て聖人の治は、其の心を虚しくして其の腹を満たし、其の志を弱くして其の骨を強くし、常に民をして無知無欲なら使め、夫(か)の知者をして敢えて為さざら使む。為す無きを為さば則ち治まらざること無し。

     (被治者の)心を単純にして腹を満たし、志を弱めて筋骨を丈夫にさせ、つねに無知無欲の状態におくというのである。愚民思想もあからさまなものだが、国民と有権者を尊重するそぶりを見せながら、その実、操作の対象としか見ていない現代の実情と比べ、どちらが上等かは大いに考えさせられる。「百姓は生かさぬように、殺さぬように」と命じた家康を思えば、腹一杯食べさせてもらえるだけこちらの方がマシである。

  • 第5巻 天地は仁ならず、万物を以て芻狗(すうく)と為す。聖人は仁ならず、百姓を以て芻狗と為す。

     さてこれだ。『老子』全体から一箇所選ぶとしたら、好悪はさておきこれを外すことができない。
     「天地に仁愛などない、万物をわらの犬のように扱う。聖人に仁愛などない、人民をわらの犬として扱う。」
     そうあるべきだというのではない、事実そうでありそれ以外ではあり得ないという。
     この結句が「多言は数(しばしば)窮す。中を守るに如かず」である。
     「言葉が多いとしばしば行きづまる。虚心がいちばんよい」ということらしいが、論語なら「巧言令色鮮仁」として「仁」に関連づけるところ、『老子』は「窮」でかたづける。
     天地不仁、聖人不仁、多言数窮、まことに身も蓋もない。身も蓋もないのが実相である。

  •  第8巻 上善は水の如し。水は善く万物を利して争わず、衆人の悪む所に処(お)る、故に道に幾(ちか)し。

     一転、これはほっとして心和むようである。先の部分を「外せない」と書いたが、老子全巻から好きなところを一つ選ぶとしたら、ここに落ちる。ただ、以下のように続くこの下りは、仁愛の否定ではなく仁愛のススメのようであり処世訓の香りが強く漂い、早くも老子の正体がわからなくなるのだ。

  • 第8巻(続) 居は地を善しとし、心は淵を善しとし、与(まじわ)るは仁を善しとし、言は信を善しとし、正は治を善しとし、事は能を善しとし、動は時を善しとす。夫(そ)れ唯だ争わず、故に尤(とが)無し。
    「身の置きどころはは低いところがよく、心の持ち方は静かで深いのがよく、人とのつきあいは思いやりを持つのがよく、言葉は信(まこと)であるのがよく、政治はよく治まるのがよく、ものごとは成りゆきに任せるのがよく、行動は時宜にかなっているのがよい。そもそも争わないから、尤(とが)められることもない。」

  • 第10巻 之を生じて之を畜い、生じて有せず、為して恃まず、長じて宰せず、是を玄徳と謂う。
    「万物を生みだし、養い、生育しても所有はせず、恩沢を施しても見返りは求めず、成長させても支配しない。これを奥深い徳という。」
     劉備玄徳の名の由来。「玄」の字は第一巻から登場しており、老子色をよく表すものらしい。同謂之玄。玄之又玄、衆妙之門。

  • 第13巻 寵辱に驚くが若くし、大患を貴ぶこと身の若くす。何をか寵辱に驚くが若くすと謂う。寵を下と為す。之を得て驚くが若くし、之を失いて驚くが若くす。是を寵辱に驚くが若くすと謂う。何をか大患を貴ぶこと身の若くすと謂う。吾に大患有る所以の者は、吾に身有るが為なり。吾に身無きに及びて、吾に何の患いか有らん。
     「「栄寵や恥辱を受けることに恐れおののいているようだ」とは、どういうことか。「栄寵は下らないものだ。それなのに、栄寵を得れば得たことに恐れおののき、失えば失ったことに恐れおののく。これを「栄寵や恥辱を受けることに恐れおののいているようだ」というのだ。
     「大きな災禍を重んじることは、わが身に執着しているのと同じようだ」とは、どういうことか。わたしに大きな災禍が降りかかるのは、わが身に執着するためだ。わたしがわが身に執着しないならば、なんの災禍が降りかかろうか。」」
     納得するかどうかはともかくとして、ここまでは首尾一貫している。ところが結句は一転、掌を返すかのように…
     「そこで、その身を大事にしながら天下のためにする者ならば、その者に天下を託すことができ、その身を愛おしみながら天下のためにする者ならば、その者に天下をあずけることができる。」
     …え~っと?

  • 第22巻 曲即全、枉即直、窪即盈、弊即新、少即得、多即迷。
    「曲がっているからこそ全うでき、屈(かが)まっているからこそ真っ直ぐになれ、窪んでいるからこそ満ちることができ、破れているからこそ新しくでき、少なければこそ得られ、多ければこそ迷うものである。」
     いいリズムだ。
     解説に、「『荘子』人間世篇の、曲がりくねった樹木が柱や梁に用いられることなく天寿を全うしたとの思想を格言としたもの」とあるのは、よくわからない。そちらは「何が幸いするかわからない」という話、こちらは「すべては相依相待」という話で、視座がだいぶ違いはしないか。

    少々飛んで…

  • 第48章 学を為す者は日に益し、道を為す者は日に損す。之を損し又た損し、以て無為に至る。無為にして而も為さざるなし。
    「学問を修める者は日々にいろいろな知識が増えていくが、道を修める者は日々にいろいろな欲望が減っていく。欲望を減らし、さらに減らして、何事も為さないところまで行きつく。何事も為さないでいて、しかもすべてのことを為している。」
     
     これは良い、こうありたいと思ったところへ…

  • 天下を取るは、常に事無きを以てす。其の事有るに及びては、以て天下を取るに足りず。
     …突然、功利に反転するのですよ。第13巻の不全感、再燃。

     以下三つ、余計な感想を付さずに転記しておく。いずれも第8巻に連なって魅力的だ。

  • 第57巻 天下に忌諱多くして民いよいよ貧に、民に利器多くして国家ますます昏し。人に伎巧多くして奇物ますます起こり、法令ますます彰らかにして盗賊多く有り。
    「いったい、世の中に禁令が多くなればなるほど、人民はいよいよ離反していく。民間に武器が多くなればなるほど、国家はますます混乱する。人々が巧みな技術を持てば持つほど、邪悪な物や事はますます生まれる。法なるものが明らかになればなるほど、盗賊はたくさん現れる。」

  • 第68巻 善く士為る者は武ならず。善く戦う者は怒らず。善く敵に勝つ者は与にせず。善く人を用いる者は之が下と為る。是れを争わざるの道と言う。是れを人の力を用いると謂う。是れを天に配すという。古の極なり。
    「すぐれた武将は猛々しくない。すぐれた戦士は怒りに任せない。うまく敵に勝つ者は敵とまともにうつからない。うまく人を使う者は、彼らにへりくだる。これを争わない徳といい、これを人の能力を使うといい、これを天に匹敵するという。むかしからの最高の道理である。

  • 第76巻 人の生くるや柔弱、其の死するや堅強。万物草木の生くるや柔脆、其の死するや枯槁。故に堅強なる者は死の徒、柔弱なる者は生の徒。是を以て、兵強からば則ち勝たず。木強からば則ち共さる。強大は下に処り、柔弱は上に処る。

     着手してから50日、やれやれ何をしていたんだろう?転記は以上、あとは繰り返し読むだけ。
Ω