2014年4月13日(日)
棕櫚の主日だが、訳あって教会へは行かず。
教会学校では例年の受難劇をやったはずで、石丸ピラト抜きでどうなったか、ちょっと気になる。
『セデック・バレ』は、CAT会の次回課題映画である。前編『太陽旗』144分、後編『虹の橋』132分の大作、その全体が、ひとつの部族の滅んでゆく様を描いた叙事詩である。寓話ではなく史実 ~ それも最近の ~ であること、舞台が台湾であり彼らを滅ぼしたのが日本人であることなどが、気持ちを厳粛にもし、沈痛にもする。勝沼さんが話してくれたように彼らはいわゆる首狩り族で、日本統治下でなくとも早晩、20世紀的文明に生息環境を奪われる宿命ではあったけれども。
冒頭の字幕で紹介されるように、彼らの最大集合は「セデック族」と括られ、そこに三つの「蕃」があり、さらに「社」に分かれるといった図式だが、字幕を追っていくと彼ら自身の言葉で「セデック」とは「人」つまり人間そのものを意味することが分かる。「セデック・バレ」は「真の人」の謂であり、ここでの「真」は狩猟民族としての彼らのあり方において純粋であること、とりわけ男子では「首狩り」に象徴される勇敢さを備えていることに他ならない。
男なら手を血に染めていること、女なら機織り作業による胼胝(タコ)が手にあること、それが死後に祖霊の済む天上の楽園へ迎えられる条件である。勇者たちはそこへ虹の橋を渡って運ばれていくことなど、北欧神話のヴァルハラのあり方と酷似している。虹とはそういうものらしい。
高山の森林は彼らには固有の狩り場であり、よそ者に汚させないことを祖霊に誓った聖地でもあるが、日本統治が持ち込んだ「文明」は容赦なくこれを破壊していく。(清朝までの中国歴代王朝は、これを「化外の民」として鷹揚に見下し、あえて干渉しなかった。)
敵の首を狩ることで一人前の男子と認められ、勇者として死ぬことで楽園に迎えられることを確信する人々に対して、経験の浅い先進統治者はあまりにも理解と共感を欠いていた。忍び難きを忍んで秩序に服する誇り高き狩人たちを、描かれる日本人は野蛮人として侮蔑することを止めない。日本の近代軍隊の圧倒的な強さを彼らは知悉し、戦えば滅ぼされることもよく分かっていたけれども、生きることの苦しさと惨めさがそうした歯止めの力を奪いつつあった。
そして1930(昭和5)年の霧社事件が起きる。部族の婚宴に通りすがりの巡査を招き入れて酒を振舞おうとしたところ、不潔を嫌った巡査が相手を殴ったことがきっかけだったと伝えられる。口で噛んで発酵させた酒はいかにも不潔に思われたろうが、日本でもそうした「醸造法」は嘗て各地に見られたことだった。
***
さまざまな点で、この人々はアメリカ先住民に重なって見える。「文明」の水準の違いとともに(あるいはその原因として)、狩猟民と農耕民の生活様式の根本的な違いがあることも、アメリカの場合と同じである。
首狩りと聞けば背筋が寒くなるが、いっぽうで首狩り族と呼ばれる集団が、(おそらく)何世紀にもわたって社会の均衡を保ってきた不思議が思われる。彼らは同じ部族内では、首を狩りあったりしない。部族Aと部族Bがあるとすれば、Aの成員はBの成員を襲って首を狩り、またBの成員は専らAの成員の首を狩る。彼らは激しく憎みあって敵対しているが、もしも一方が他方を完全に圧倒してしまったら、勝者はもはや首を狩ることのできる敵がいなくなり、彼らの「文化」を自滅に委ねるしかない。してみると、一見敵対しているかのようなAとBとは、実はメタ水準では相互依存的な一対なのである。そのようなやり方で諸部族は互いに必要としあっているのだ。
そのことに目覚めた時、セデック族全体が一致して「外なる侵略者」である日本人と戦うことも可能になるのだが、そこで部族間の敵対感情が「大同団結」の邪魔をするのも、アメリカ先住民のやアラブ遊牧民の場合と共通している。それはたぶん、明治維新の際に日本国内の「諸部族」が克服せねばならなかったものでもあった。
***
悲しく、感動的な物語であることは言うまでもない。祖霊への面目のために絶望的な蜂起に至る過程は、セネガル映画『エミタイ』でも見たところだし、これまたアメリカ先住民も同じだっただろう。
とりわけ印象に残ったのは、セデック族出身だが内地の師範学校に学び、事件当時は日本の警察官として故郷で勤務していた花岡一郎・二郎兄弟の最期である。(実在の人物たちだ。)
頭目モナ・ラダウらの蜂起を知った花岡一郎は、成算のない暴挙を断念するよう頭目を諌めるが、容れられない。しかし彼はこれを密告するに忍びず、かえって銃器のありかを教えて密かにこれに加勢する。蜂起後の混乱の中で、彼ら二人とも家族とともに自決する道を選ぶ。降りしきる雨の森で妻子を手にかけ、今や自分に刃を向ける一郎は、同じく妻子を先に送った二郎に語りかける。
「俺たちは、天皇の赤子(せきし)だろうか、それともセデックの子だろうか?」
二郎が答える。
「葛藤を切り裂け、どちらでもない自由な魂になれ。」
現地語でなされたそのやりとりに、一郎が日本語で「ありがとう」と答え、そして蛮刀を大きく振るっていく。
またしても「自由」、しかし何と悲しい自由であることか。
棕櫚の主日だが、訳あって教会へは行かず。
教会学校では例年の受難劇をやったはずで、石丸ピラト抜きでどうなったか、ちょっと気になる。
『セデック・バレ』は、CAT会の次回課題映画である。前編『太陽旗』144分、後編『虹の橋』132分の大作、その全体が、ひとつの部族の滅んでゆく様を描いた叙事詩である。寓話ではなく史実 ~ それも最近の ~ であること、舞台が台湾であり彼らを滅ぼしたのが日本人であることなどが、気持ちを厳粛にもし、沈痛にもする。勝沼さんが話してくれたように彼らはいわゆる首狩り族で、日本統治下でなくとも早晩、20世紀的文明に生息環境を奪われる宿命ではあったけれども。
冒頭の字幕で紹介されるように、彼らの最大集合は「セデック族」と括られ、そこに三つの「蕃」があり、さらに「社」に分かれるといった図式だが、字幕を追っていくと彼ら自身の言葉で「セデック」とは「人」つまり人間そのものを意味することが分かる。「セデック・バレ」は「真の人」の謂であり、ここでの「真」は狩猟民族としての彼らのあり方において純粋であること、とりわけ男子では「首狩り」に象徴される勇敢さを備えていることに他ならない。
男なら手を血に染めていること、女なら機織り作業による胼胝(タコ)が手にあること、それが死後に祖霊の済む天上の楽園へ迎えられる条件である。勇者たちはそこへ虹の橋を渡って運ばれていくことなど、北欧神話のヴァルハラのあり方と酷似している。虹とはそういうものらしい。
高山の森林は彼らには固有の狩り場であり、よそ者に汚させないことを祖霊に誓った聖地でもあるが、日本統治が持ち込んだ「文明」は容赦なくこれを破壊していく。(清朝までの中国歴代王朝は、これを「化外の民」として鷹揚に見下し、あえて干渉しなかった。)
敵の首を狩ることで一人前の男子と認められ、勇者として死ぬことで楽園に迎えられることを確信する人々に対して、経験の浅い先進統治者はあまりにも理解と共感を欠いていた。忍び難きを忍んで秩序に服する誇り高き狩人たちを、描かれる日本人は野蛮人として侮蔑することを止めない。日本の近代軍隊の圧倒的な強さを彼らは知悉し、戦えば滅ぼされることもよく分かっていたけれども、生きることの苦しさと惨めさがそうした歯止めの力を奪いつつあった。
そして1930(昭和5)年の霧社事件が起きる。部族の婚宴に通りすがりの巡査を招き入れて酒を振舞おうとしたところ、不潔を嫌った巡査が相手を殴ったことがきっかけだったと伝えられる。口で噛んで発酵させた酒はいかにも不潔に思われたろうが、日本でもそうした「醸造法」は嘗て各地に見られたことだった。
***
さまざまな点で、この人々はアメリカ先住民に重なって見える。「文明」の水準の違いとともに(あるいはその原因として)、狩猟民と農耕民の生活様式の根本的な違いがあることも、アメリカの場合と同じである。
首狩りと聞けば背筋が寒くなるが、いっぽうで首狩り族と呼ばれる集団が、(おそらく)何世紀にもわたって社会の均衡を保ってきた不思議が思われる。彼らは同じ部族内では、首を狩りあったりしない。部族Aと部族Bがあるとすれば、Aの成員はBの成員を襲って首を狩り、またBの成員は専らAの成員の首を狩る。彼らは激しく憎みあって敵対しているが、もしも一方が他方を完全に圧倒してしまったら、勝者はもはや首を狩ることのできる敵がいなくなり、彼らの「文化」を自滅に委ねるしかない。してみると、一見敵対しているかのようなAとBとは、実はメタ水準では相互依存的な一対なのである。そのようなやり方で諸部族は互いに必要としあっているのだ。
そのことに目覚めた時、セデック族全体が一致して「外なる侵略者」である日本人と戦うことも可能になるのだが、そこで部族間の敵対感情が「大同団結」の邪魔をするのも、アメリカ先住民のやアラブ遊牧民の場合と共通している。それはたぶん、明治維新の際に日本国内の「諸部族」が克服せねばならなかったものでもあった。
***
悲しく、感動的な物語であることは言うまでもない。祖霊への面目のために絶望的な蜂起に至る過程は、セネガル映画『エミタイ』でも見たところだし、これまたアメリカ先住民も同じだっただろう。
とりわけ印象に残ったのは、セデック族出身だが内地の師範学校に学び、事件当時は日本の警察官として故郷で勤務していた花岡一郎・二郎兄弟の最期である。(実在の人物たちだ。)
頭目モナ・ラダウらの蜂起を知った花岡一郎は、成算のない暴挙を断念するよう頭目を諌めるが、容れられない。しかし彼はこれを密告するに忍びず、かえって銃器のありかを教えて密かにこれに加勢する。蜂起後の混乱の中で、彼ら二人とも家族とともに自決する道を選ぶ。降りしきる雨の森で妻子を手にかけ、今や自分に刃を向ける一郎は、同じく妻子を先に送った二郎に語りかける。
「俺たちは、天皇の赤子(せきし)だろうか、それともセデックの子だろうか?」
二郎が答える。
「葛藤を切り裂け、どちらでもない自由な魂になれ。」
現地語でなされたそのやりとりに、一郎が日本語で「ありがとう」と答え、そして蛮刀を大きく振るっていく。
またしても「自由」、しかし何と悲しい自由であることか。
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