漫画の思い出
萩尾望都『トーマの心臓』(6)
サイフリートはユーリに何をしたことになるのか。不明。作者は読者に謎を掛けているのではない。作者自身、自分がどんなことを表現したつもりでいるのか、反省できなくなっている。
あの残酷な、退屈な劇の最中、「彼の妹が熱を出して入院したので、家にはだれもいない」という状況だった。「熱」は産褥熱だ。「妹」は母親だ。彼女は自分自身を出産した。「家」は無名で無性の自分だ。また、「熱」は女学生言葉の〈お熱〉の暗示でもある。つまり、〈誰かに恋をすることによって女が誕生する〉という物語の暗示だ。
「家にはだれもいなかった」というのは〈恋する少女は理性を失っていた〉という物語の暗示だ。このときのサイフリートは〈君は理性と母親を捨てろ〉と口説く色男だ。処女が彼を恐れるのは、凌辱を空想するからでなく、母親による束縛の反復を予想するからだ。サイフリートは、独占欲の強い母親が性転換した姿だ。
エーリクが、去勢されたような養父と同居するのは、母親の死を確認するためだ。オスカーも同様だろう。彼らは母親を美化する儀式によって葬る。
結論。『トーマの心臓』は、普通の意味で傑作ではない。しかし、冷笑的な意味では傑作かもしれない。夢のように出鱈目なのだ。出鱈目とわかって楽しむのは結構。しかし、出鱈目に深遠な意味を付与するのは誤読だ。
(終)