ヒルネボウ

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ヘロシです。~差別者の烙印

2021-06-23 11:40:48 | ジョーク

   ヘロシです。

      ~差別者の烙印

ヘロシです。

小学四年のとき、ヘロヘロをやったら、

生まれて初めて友達ができました。

ヘロシです。

中学のとき、ヘロヘロをやったら、

女子に睨まれました。

ヘロシです。

高校のとき、ヘロヘロをやったら、

差別者の烙印を捺されました。

ヘロシです。

高校を出てからもヘロヘロをやっていたら、

病院に行けと諭されました。

ヘロシです。ヘロシです。ヘロシです。

(終)

 

 


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夏目漱石を読むという虚栄 3530

2021-06-23 00:02:11 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

3000 窮屈な「貧弱な思想家」

3500 日本近代知識人のエゴイズム

3530 個々人の主義

3531 「撲殺し合う」

 

Nは、個人主義と国家主義との対立について、異様なまでに矮小化している。

 

<必竟ずるにこういう事は実際程度問題で、いよいよ戦争が起った時とか、危急存亡の場合とかになれば、考えられる頭の人、――考えなくてはいられない人格の修養を積んだ人は、自然そちらへ向いて行くわけで、個人の自由を束縛し個人の活動を切り詰めても、国家のために尽くすようになるのは天然自然といっていいくらいなものです。だからこの二つの主義はいつでも矛盾して、いつでも撲殺し合うなどというような厄介なものでは万々ないと私は信じているのです。

(夏目漱石『私の個人主義』)>

 

「こういう」がどういうか、不明。だから、「程度問題」かどうか、不明。「いよいよ」は宙に浮いている。「戦争が」以下は、「一旦緩急アレ(ママ)ハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」(『教育ニ関スル勅語』)の拙い言い換えだろう。「考えられる頭」は意味不明。〈「教育勅語」を暗誦できる程度の「頭」の持ち主〉と、ちゃんと言えばいい。「考えられる人」で「考えなくてはいられない」ことはない「人」は、いるのか、いないのか。〈なくてはいられない〉は夏目語。「自然」はNの愛用語で、彼は根拠や論理が貧弱な場合にこれを用いる。「そちら」はどちら。「束縛し」と「切りつめても」の主語が不明。「天然自然といって」はいけないとしたら、どのように言うのか。Nは「教育勅語」を鵜呑みにしてしまい、それが「天然自然」のように感じ、出典すら思い出せないような「頭」になっていたか。

 

<「教育勅語」は、国民に天皇制国家への忠誠を命じるとともに祖先崇拝を強調し、国家神道の事実上の経典となった。

(『日本大百科全書(ニッポニカ)』「国家神道」村上重良)>

 

「教育勅語」は経典のない国家神道のための「事実上の経典」になった。言うまでもなかろうが、第二次大戦後、「国会で排除・失効確認を決議」(『広辞苑』「教育勅語」)した。

「教育勅語」が「明治の精神」と無縁でないとしたら、「明治の精神」も明治とともに滅びたのではなく、第二次大戦を潜り抜け、昭和から平成、そして令和以降も「継続中」なのに違いない。『こころ』を「再評価する動き」がなくならないのは、そのせいだろう。

「だから」は無効。「この二つの主義」は、「国家主義」と「個人主義」だ。「いつでも」ではないとしても、「矛盾して」いるようで「厄介なもの」になった場合の話をすべきだ。「主義」が「撲殺(ぼくさつ)し合う」ものか。「万々」は強がり。「信じている」のはNの勝手。

自称個人主義者の言説は、あらゆる個人主義をいけないエゴイズムと同一視する人々、つまり国家主義者や全体主義者の言説との対立においてのみ意味を有する。右でないのが左だ。上でないのが下だ。どちらでもないのは、ないのと一緒。風見鶏。二股膏薬。のだいこ。

『私の個人主義』におけるN式個人主義と個々人の主義は区別できない。個々人の主義には、当然、個人主義者の撲殺を正当化するような主義も含まれる。

 

 

3000 窮屈な「貧弱な思想家」

3500 日本近代知識人のエゴイズム

3530 個々人の主義

3532 民本主義論争

 

Nは民本主義の受け売りみたいなことをやりかけて失敗しているようだ。

 

<1910年代半ば、吉野作造によって精確に定義され主唱された民主主義論。主権の所在には触れず、その運用の民主化を主張、政党内閣制・普通選挙制を根拠づけた。

(『広辞苑』「民本主義」)>

 

ところが、普通選挙法が実現したのと同じ年、一九二五(びっくりふたご)年に、治安維持法も制定された。

 

<この語は日露戦後にすでに使用されており、とくに『萬朝報(よろずちょうほう)』の記者茅原崋山(かやはらかざん)が1912年(明治45)より「貴族主義・官僚主義・軍人政治」の対立概念として同紙上、および翌13年(大正2)自ら創刊した雑誌『第三帝国』で使用した。東京帝国大学の保守的教授井上哲次郎や上杉慎吉(うえすぎしんきち)も、帝王は臣民の福利を重んずべしとの趣旨で、民本主義を唱えている。この語に新しい生命力を吹き込み、一時代を画する思潮を作り出したのは、新進の東大教授吉野作造(さくぞう)であった。彼は『中央公論』1916年1月号に発表した「憲政の本義を説いて其(その)有終の美を済(な)すの途(みち)を論ず」において、欧米の政治概念「デモクラシー」(の意味内容)から、主権在民を意味する「民主主義」は君主国たる日本には適用できぬとして排除し、政治の目的は民衆の利福にあり、政策の決定は民衆の意向に従うべしとの意味だけを残して、「民本主義」と名づけた。

(『日本大百科全書(ニッポニカ)』「民本主義」松尾尊兌)>

 

『私の個人主義』は、『こころ』の連載が終わった年、一九一四年(大正3)の講演だ。

個人と社会のバランスを論じる前に、言葉の意味を確定しなければならない。

 

<吉野作造の民本主義論が雑誌『中央公論』の1916年1月号に掲載されたことを契機に引き起こされた民本主義論争の過程で、山川均(ひとし)らの社会主義者が、吉野の主張は人民主権論抜きの不徹底なデモクラシー論だと批判した。また上杉慎吉、井上哲次郎、内田良平らの国家主義者は、人民の利益幸福の実現を目指すわが国固有の仁政論的な民本主義を対峙(たいじ)させることによって、民意尊重を核とする吉野らの民本主義の反国体的な危険性を糾弾し、これを否定しようとした。

(『日本歴史大事典』「民本主義」栄沢幸二>)

 

私が不愉快なのは、民本主義論争の総括が教科書的になされていないように思われることだ。山川らと井上らのどちらかに軍配をあげたいわけではないし、吉野に同情しているのでもない。論争が尻切れ蜻蛉で終わっているらしいことを危ぶむ。論争に加われそうもないNの『私の個人主義』が重んじられすぎていることを、もっと危ぶむ。

 

3000 窮屈な「貧弱な思想家」

3500 日本近代知識人のエゴイズム

3530 個々人の主義

3533 ポピュリズム

 

社会的な事柄に関して論じるとき、意味が共有されていない言葉を用いる人は怪しい。

 

<近代国家の政治原理としては、主権は国民にある(国民主権主義)、政治は国民が選出した代表者からなる会議体(議会)の制定した法律によって運営される(法の支配)、国民の権利・自由は最大限に保障され(人権保障)、そのためには民主的政治制度(代議制・権力分立)の確立を必要とする、などがあげられる。

(『日本大百科全書(ニッポニカ)』「近代国家」田中浩)>

 

Nの用いる語句の意味は、しばしば、私が知っているつもりの意味では理解できない。それが百年前の意味か、専門語の意味か、夏目語の意味か、そんなことさえわからない。

 

<また20世紀の民主主義は極度に参政権を拡大し、また直接民主主義的制度をも採用したが、それは大衆社会状況がそのまま政治過程に浸透することを許したものであり、事実ファシズムはマス・デモクラシーを母体として出現したのである。

(『ブリタニカ国際大百科事典』「民主主義」)>

 

かつて国際政治学者として知られていた人物が、〈年収三百万円以下の人間には選挙権は与えるべきではない〉という趣旨の発言をしたことがある。ただし、〈三百万〉は私の記憶違いかもしれない。後に、その人物は東京都知事になり、〈セコい〉となじられて辞職した。セコい人の後で都知事になりたがった自称アウトサイダーの鳥ナントカさんも〈納税者には選挙権がある〉という趣旨の発言をした。この人は、セコいどころか、無知。

「ファシズムの母体」となるような思潮を指して、俗に〈ポピュリズム〉という。

 

<俗に、大衆に迎合するような政治姿勢をいう。

(『日本国語大辞典』「ポピュリズム」)>

 

〈裁判員制度はポピュリズム〉などという人がいる。だが、量刑を決めさせるような裁判員制度は、大衆迎合どころか、その逆の素人いじめだ。

 

<ジッド、バレリー、プルーストらによって知的難解度を強めていた文学を民衆の手に返そうとするもので、民衆をあたたかで誠実な目でとらえようと試みたが、人間の卑小面のみを描こうとする傾向があり、その点をコミュニスト作家から批判された。

(『ブリタニカ国際大百科事典』「ポピュリスム」)>

 

「知的難解度」がどんなに上昇しようと、趣味の範囲内なら、構わない。だが、俗語や自分語などの応酬が日常的になった社会は、もう、終わりだろう。バベルの塔だ。

日本語の終わりを、Nは準備した。あるいは、前世代から引きついで広めた。

 

(3530終)

 


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