夏目漱石を読むという虚栄
3000 窮屈な「貧弱な思想家」
3400 「自由と独立と己れ」の交錯する「現代」
3440 「自分を呪(のろ)うより外に仕方がないのです」
3441 現代病
「自由」と「独立」と「己れ」という言葉を、Sはマイナスの価値としてのみ提示しているわけではない。基本的にはプラスの価値を有するものとして提示している。つまり、この宣言は皮肉なのだ。ただし、どういう皮肉なのか、よくわからない。
<「何でも奥歯に物の挟(はさま)った様な皮肉ばかり云うんですよ」
「皮肉なら好いけれども、時々気の知れない囈(ね)言(ごと)を云うにゃ困るじゃないか。何でもこの頃(ごろ)は様子が少し変だよ」
「あれが哲学なんでしょう」
(夏目漱石『虞美人草』十二)>
甲野欽吾に関する義妹とその母の批評。
「覚悟」宣言は、「皮肉」のような、「囈(ね)言(ごと)」ような、「哲学」みたいな、しかし、いずれでもない意味不明の自己完結的な呟きだ。何かの症状だろう。
<欽吾は腹を痛めぬ子である。腹を痛めぬ子に油断は出来ぬ。これが謎の女の先天的に教わった大真理である。この真理を発見すると共に謎の女は神経衰弱に罹(かか)った。神経衰弱は文明の流行病である。自分の神経衰弱を濫用(らんよう)すると、わが子までも神経衰弱にしてしまう。そうしてあれの病気にも困り切りますと云う。感染したものこそいい迷惑である。
(夏目漱石『虞美人草』十二)>
「先天的に」は意味不明。「先天的に教わった」は意味不明。誰に「教わった」のだろう。「大真理」は語り手の皮肉だろうが、皮肉でなければどんな言葉が適当だろう。
「大真理」が「真理」に変わっている。「大」だけが皮肉で、「真理」は皮肉ではなかったのか。「教わった」のに「発見する」とは、どういうことか。どちらかが冗談なのだろう。両方とも冗談なのかもしれない。「謎の女」は義母のことだが、「謎」の意味は平明ではない。「神経衰弱」は意味不明。〈「神経衰弱に罹(かか)った」ので「この真理を発見する」〉という話ではない。語り手は因果関係を逆に語っているようだ。わざとか。
「近代病」と「腹を痛めぬ子」と、どんな関係があるのだろう。無理に関係づけることが「近代病」の症状だろうか。
<都市化、産業化が進むとともに目だってくる疾病のこと。医学上の用語としてよりは、ジャーナリズムによって作られた用語。
(『日本大百科全書(ニッポニカ)』「現代病」真田是)>
「神経衰弱を濫用(らんよう)する」は意味不明。「わが子」は甲野のこと。
「感染した」は意味不明。
「親譲りの無鉄砲」は〈「母」から「感染した」「神経衰弱」〉のことかもしれない。
3000 窮屈な「貧弱な思想家」
3400 「自由と独立と己れ」の交錯する「現代」
3440 「自分を呪(のろ)うより外に仕方がないのです」
3442 『イロニーの精神』
多くの人は「明治の精神に殉死する」が「笑談」であることを忘れているようだ。
Nの言葉は、おおむね、皮肉だ。冗談のような、哲学のような、呪文のような、スローガンのような、得体のしれない何かだ。真面目ぶった笑い話。笑い話のような気取り。とぼけるほど、虚栄心が傷く。傷ついているから、とぼける。とぼけるから、なおさら傷つく。自傷と自証の区別がつかない。虚栄と自尊の仕分けが、誰にも、本人にすらできない。奇を衒っているようで、そうでもない。要するに意味不明。
<イロニストは自分自身の無関心な態度に自信をもつあまり、われとわが身を試みる。ところが、その脆弱な鎧は、イロニストを十分に守ってくれない。かれの中立性は、笑うための中立性である。とはいえ、イロニストがこの生れたての共感の公平さに、反逆することも起る。すなわち、言葉の洒落はイロニストから逃げてしまうこの言語をまどろませるのに、まさに役立つ。しかしいくつかの地口だけではイロニーにはならない。イロニストはほとんど冷かしに近いようなことを言いながら、まじめなのである。イロニストは自己を超脱していると思いながら、実は呆然としている。今しがたイロニストは純真素朴にもどったばかりであった。今や、頭がぼうっとし、めまいに襲われ、よろめき、現実と遊びの間で、混乱している。
(ウラディミール・ジャンケレヴィッチ『イロニーの精神』「第三章 イロニーの罠」)>
Sは、誰にも通じない皮肉、お洒落な虚偽によって、「孤独な人間」に成り果てた。「遺書」は「笑談」なのだ。ただし、笑いようがない。『吾輩は猫である』や『坊っちゃん』でさえ笑いようがない。何となく変なのだけれど、おかしみの具合が伝わってこない。
<ここにおいても十七世紀と二十世紀は相通ずるのである。社会学的原因は明白である。十七世紀にあっては諸階層の革命的地すべりにたいする貴族文化の擁護、二十世紀にあっては大衆‐文明にたいするエリート‐文化の擁護である。それはかならずしも、当時の貴族文化の擁護者が悪意ある自由(リベラ)思想家(ルタン)たちであり、今日のエリート-文化の擁護者が(万事に、ことごとに反対する)攻撃的な革命家であるという可能性を排除するものではない。
シェイクスピアの隠喩法は、かけ離れたものの合一という意味で、しばしば観念連合的である。しかしシェイクスピアの作品(ドラマは彼にとって〈引き伸ばされた隠喩〉のごときものであった)のなかにはそれ以上のものが開顕している。言語の両義性や多様性にたいする彼の衝迫は、転形期であった当時の時代全体に特有の深い言語的分裂、不確かなものとなった言語の無垢、ある深刻な懐疑(スケブテ)主義(イズム)のあらわれである。
(G.R.ホッケ『文学におけるマニエリスム』「9.シェイクスピアの変形(デフォルマチオン)」)>
明治の日本においては、「貴族文化の擁護」に「エリート‐文化の擁護」が加わり、さらに、古代的ないわゆる天皇制の擁護と西洋文化の擁護が加わる。忙しすぎる。
3000 窮屈な「貧弱な思想家」
3400 「自由と独立と己れ」の交錯する「現代」
3440 「自分を呪(のろ)うより外に仕方がないのです」
3443 「二人の間にどんな用事が起ったのか」
「覚悟」宣言の直前に異様な緊張感が漂う。
<「信用しないって、特にあなたを信用しないんじゃない。人間全体を信用しないんです」
その時生垣(いけがき)の向うで金魚売らしい声がした。その外には何の聞こえるものもなかった。大通りから二丁も深く折れ込んだ小路(こうじ)は存外静かであった。家(うち)の中は何時(いつ)もの通りひっそりとしていた。私は次の間へ(ママ)奥さんのいる事を知っていた。黙って針仕事か何かしている奥さんの耳に私の話し声が聞こえるという事も知っていた。然し、私は全くそれを忘れてしまった。
「じゃ奥さんも信用なさらないんですか」と先生に聞いた。
先生は少し不安な顔をした。そうして直接の答を避けた。
「私は私自身さえ信用していないのです。つまり自分で自分が信用出来ないから、人も信用でき(ママ)ないようになっているのです。自分を呪(のろ)うより外に仕方がないのです」
「そうむずかしく考えれば、誰だって確かなものはないでしょう」
「いや考えたんじゃない。遣(や)ったんです。遣った後で驚ろ(ママ)いたんです。そうして非常に怖くなったんです」
私はもう少し先まで同じ道を辿(たど)って行きたかった。すると襖(ふすま)の陰で「あなた、あなた」という奥さんの声が二度聞こえた。先生は二度目に「何だい」といった。奥さんは「一寸(ちょっと)」と先生を次の間へ(ママ)呼んだ。二人の間にどんな用事が起ったのか、私には解らなかった。それを想像する余裕を与えない程早く先生は又座敷へ(ママ)帰って来た。
「とにかくあまり私を信用しては不可ませんよ。今に後悔するから。そうして自分が欺(あざ)むかれた返報に、残酷な復讐(ふくしゅう)をするようになるものだから」
「そりゃどういう意味ですか」
(夏目漱石『こころ』「上 先生と私」十四)>
「信用」は意味不明。「人間全体」にはS自身が含まれるから、無意味。
「存外」は変。
「忘れてしまった」は〈「忘れて」質問をして「しまった」〉などの不当な略。
「私自身さえ信用しない」のなら、その「私自身さえ信用しない」のだから、無意味。
Pの「考えれば」と、次のSの「考えたんじゃ」の二つの「考え」は、その対象が異なる。Sは話をすりかえている。
「呪(のろ)う」を読み落としてはならない。「覚悟」宣言は「自分」含む「人間全体」に対する呪言なのだ。「現代」限定でもなかろう。
「用事」について、語り手Pには「想像する余裕」があるはずだ。「余裕を与えない」意図が「二人」にはあった。この物語を、作者は隠蔽しながらも部分的に暴露している。
「欺(あざ)むかれた」は被害妄想。常識的には〈買い被って損をした〉などだ。Sは、相手に対する想像力などの欠如を相手のせいにしている。そのことに、Sは気づかない。作者も同様。
「覚悟」宣言でSが「この淋しみ」と「現代」を繋げたのは、静の耳を慮ったからだ。
(3440終)