夏目漱石を読むという虚栄
3000 窮屈な「貧弱な思想家」
3500 日本近代知識人のエゴイズム
3520 日本近代個人主義思想の限界その他
3521 個人主義と利己主義
さらに、話がややこしくなる。
<前半は「私」という学生の目で間接的に表現、後半は「先生」の遺書という直接的告白体の対照的手法で、近代エゴイズムが必然に自他を傷つけるというテーマを追究、明治の知識人の孤独な内面をあばいた傑作である。
(『ブリタニカ国際大百科事典』「こゝろ」)>
「近代エゴイズム」は意味不明。「自他」は変。エゴイストが自分を傷つけるのだろうか。そうだとすると、〈自殺はエゴイズムの極致〉ということになる。マゾか。「明治」は「明治の精神」からだろうが、「明治の精神」は意味不明。「あばいた」は「私の過去を訐(あば)いてもですか」(上三十一)からだろうが、実際に「あばいた」ことになっているのだろうか。
<罪悪感や孤独感、人間憎悪の念がついに自己否定に至るという、個人主義思想の極致を描く。
(『大辞泉』「こころ」)>
「自己否定」とは自殺のことだろうか。この辞書では、「自己否定」は「それまでの自己であることをやめること」と説明してあるが、意味不明。「やめること」には自殺も含まれるか。「個人主義」という言葉は『こころ』に出てこない。「極致」は自殺か。個人主義者は自殺すべきか。Sの自殺の有様はまったく描かれていない。死期や死因すら、不明。
『大辞泉』の「個人主義思想」は、すでに挙げた『日本国語大辞典』や『広辞苑』や『ブリタニカ』などの「エゴイズム」と同じだろうか。
- <《individualism》国家・社会の権威に対して個人の意義と価値を重視し、その権利と自由を尊重することを主張する立場や理論。⇒全体主義
- 「⇒利己主義」に同じ。
(『大辞泉』「個人主義」)>
この辞書は怪しい。
<利己(りこ)主義とは違う。⇔全体主義。
(『学研 小学国語辞典』「個人主義」)>
『大辞泉』の②は、小学生でも知っておくべきことを知らない人の誤用だろう。
では、『日本国語大辞典』と『広辞苑』と『ブリタニカ』と『大辞泉』の『こころ』に関する説明に用いられた「エゴイズム」や「個人主義」などのどれかは誤用なのだろうか。あるいは、どれも正しいのだろうか。もう、お手上げ。
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3522 エゴイズムと私情
〈個人主義・利己主義・エゴイズム〉といった言葉を、私は使いこなすことができない。Nの研究者や評論家たちは、こうした言葉を自分語にしてしまっているのではなかろうか。彼らは同業者の用いる自分語も理解できないはずだ。
<「行人」の発展で、孤独感や人間憎悪の念に救いがたい絶望を感じ、自己否定に駆り立てられる個人主義思想の限界を把握したとされる。
(『広辞苑』「こゝろ」)>
「発展」は意味不明。〈「念に」~「感じ」〉は変。「救い」の主語が不明。「人間憎悪」と「絶望」の関係が不明。「自己否定」は意味不明。「個人主義思想の限界」は意味不明。「エゴイズムへの頽落、全体主義への転化、大衆社会におけるアパシーの現出といった否定面」(『マイペディア』「個人主義」)のことか。
<ここにおいて、国家・教会・神・道徳およびそれらに関する諸秩序、それに人間性という概念等は実体のない亡霊にすぎないと彼は論断した。そして自らは、頭の中だけに存在するこれら精神の産物に煩わされることなく、自らにとって唯一無二である自分自身をみいだし、これを確固として所有し、この確固たる自分自身をのみ生きると宣言する。徹底した個人主義を説いたこの著作によって、一躍名声を博す。
(『日本大百科全書(ニッポニカ)』「シュティルナー」高山守)>
「ここ」および「この著作」は『唯一者とその所有』だ。
<彼の思想は無政府主義者たちに迎えられたほか、ニーチェの「超人」の思想にも影響を与えた。20世紀実存主義の一つの源泉とみなされることもある。
(『ブリタニカ国際大百科事典』「シュティルナー」)>
日本人の頭の中では、〈エゴ・イズム/私情・主義/私(わたくし)する・癖〉などといった考え、いや、考えに至らない和洋中の言葉の雰囲気が混交して漂っているのではないか。そして、そのあやふやな状態を〈思考〉と呼びならわしているのではないか。
- <自我。我。
- エゴイスティック・エゴイズムの略。
(『広辞苑』「エゴ」)>
世間では、〈エゴイズム〉を無根拠にマイナスの価値の事柄と決めている。その「略」である〈エゴ②〉を〈エゴ①〉に送り返す。日本語の〈エゴイズム〉の真意は〈いけないエゴのイズム〉だろうか。いや、意味など、ありはしない。罵詈雑言だろう。
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3523 空き巣狙いの個人主義
高等学校では、次のように教わるようだ。
<ホッブズは一国の主権があいまいなものであれば、内乱が起こり各人の自己保存は危なくなることを当時のイギリスの社会情勢そのものから把握していた。そこでかれは、強大な主権の絶対性を主張したといえよう。このことは、ホッブズを絶対君主や独裁者の擁護者だとする批判を生んだ。しかし、平等な個人の自然権から出発し社会契約を通じて国家を設立するという理論は、国家とはほんらい国民の安全と平和を保持するためにつくられたものであるという主張をその中核とし、国家主権の絶対性も国民ひとりひとりの自然権にもとづくと考えられている。これは近代民主主義の基本原理として、ロックやルソーに継承されていく。
(藤田正勝『理解しやすい倫理』)>
明治初期において、「一国の主権はあいまいなもの」だったろう。昨日勤王、明日は佐幕。「山嵐」は会津出身の不満分子。ちなみに、令和でも、会津戦争は「継続中」らしい。
<美濃部は19世紀ドイツの支配学説にならって主権は法人としての国家に帰属するという考え(国家法人説)をとっていた。この考えは、天皇にこそ主権がある(天皇主権説)とする穂積八束(ほづみやつか)・上杉慎吉の憲法学説ともともと対立するものであったが、1930年代半ばまではむしろ公認の支配学説であった。
(『日本歴史大事典』「天皇機関説」)>
「日本国憲法下でだれが元首かは必ずしも明確ではない」(『ブリタニカ』「元首」)という。「日本国憲法」は前文と第一条で国民主権を定めているが、だったら大統領制にしないと不合理だろう。戦後の日本国の主権も「あいまいなもの」であり、いまだに近代国家のなりすましを続けているわけだ。このことと文豪伝説は、決して無関係ではあるまい。
<一体国家というものが危くなれば誰だって国家の安否を考えないものは一人もない。国が強く戦争の憂(うれい)が少なく、そうして他から犯(ママ)される憂がなければないほど、国家的観念は少なくなって然るべきわけで、その空虚を充たすために個人主義が這入ってくるのは理の当然と申すより外に仕方がないのです。
(夏目漱石『私の個人主義』)>
「国家というもの」は〈天皇〉が適当か。「危うく」なってからでは手遅れかもしれない。「誰だって」は誇張しすぎ。敗戦すれば国家がなくなると決まっているわけではない。どのように「安否を考え」るかは、人によりけり。「一人もない」は不当な誇張。
「戦争の憂(うれい)」は意味不明。「国家的観念」は意味不明。「その空虚を充たすために個人主義が這入ってくる」なんて、まるで空き巣狙いだね。「理の当然」は意味不明。
(3520終)