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ヒルネボウ

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夏目漱石を読むという虚栄 3450

2021-06-16 15:55:33 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

3000 窮屈な「貧弱な思想家」

3400 「自由と独立と己れ」の交錯する「現代」

3450 『山月記』

3451 「我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心と」)

 

『こころ』のファンは『山月記』のファンかもしれない。「高校教師や中島研究者の中には、高校時代に「山月記」を読んで感動したことをきっかけに現在の職業に就いた者もいる」(佐野幹『「山月記」はなぜ国民教材となったのか』)とか。「国民教材」は業界用語か。

 

<なぜこんな運命になったかわからぬと、先刻は言ったが、しかし、考えようによれば、思い当たることが全然ないわけでもない。人間であった時、己(おれ)は努めて人との交わりを避けた。人々は己(おれ)を倨傲(きょごう)だ、尊大だといった。実は、それがほとんど羞恥(しゅうち)心(しん)に近いものであることを、人々は知らなかった。もちろん、かつての郷党(きょうとう)の鬼才(きさい)といわれた自分に、自尊心が無かったとはいわない。しかし、それは、臆病な自尊心とでもいうべきものであった。己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就(つ)いたり、求めて詩友と交わって切磋琢磨(せっさたくま)に努めたりすることをしなかった。かといって、また、己は俗物の間に伍(ご)することも潔しとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心とのせいである。己(おのれ)の珠(たま)にあらざることを惧(おそ)れるがゆえに、あえて刻苦して磨こうともせず、また、己(おの)れの珠なるべきをなかば信ずるがゆえに、碌々(ろくろく)として瓦(かわら)に伍することもできなかった。

(中島敦『山月記』)>

 

「運命になった」は意味不明。語り手の李徴は「虎」になったのだ。虎になった人間を〈人虎〉と書く。「考えように依(よ)っては」と、語り手はもぞもぞと始める。

陰口がどうしてヒッキー本人の耳に届くのか。妄想だろう。

〈「殆ど」~「近い」〉は意味不明。「人々は知らなかった」ということを、なぜ、彼は知っているのか。妄想だろう。「羞恥(しゅうち)心(しん)に近いもの」の中身は空っぽ。

「郷党の鬼才」という評価を、どうやって知ったのか。やはり、妄想だろう。

「鬼才といわれた自分」と、「自尊心」と、どういう関係があるのか。

「臆病(おくびょう)な自尊心」なんて気障な言葉遣いをするのは、人虎だからだろう。

「思いながら」の前後が繋がらない。「切磋琢磨(せっさたくま)」は無用。瑠璃も玻璃も照らせば光る。

「かといって」の前後が繋がらない。「俗物の間に伍(ご)すること」が簡単に思えるらしい。

「共に」は不合理。「臆病な自尊心」のせいで「師」の評価を恐れ、「尊大な羞恥心」のせいで、「詩友」の評価を恐れたのだろう。「臆病な自尊心」とは〈〈「自尊心」を装う虚栄心〉だろう。「尊大な羞恥心」は〈「羞恥心」を装う虚栄心〉だろう。

『山月記』には、落ちがない。

 

<『人虎伝』では、永遠に人寰を去って、虎となりきりで終わるように書かれているが、やはり一時的に虎となってもまた再び人間に復するというのが、「精霊憑き」の本来の形により近いものであろう。

(内田泉之介・乾一夫『新釈漢文大系44 唐代伝奇』「人虎傳(じんこでん)」)>

 

原典の『人虎伝』自体が尻切れ蜻蛉だったらしい。

 

 

 

3000 窮屈な「貧弱な思想家」

3400 「自由と独立と己れ」の交錯する「現代」

3450 『山月記』

3452 人虎伝ブーム

 

『山月記』の内部の世界における李徴の容姿は不分明だ。

 

<天に躍り地に伏して嘆いても、誰一人己の気持ちをわかってくれる者はない。ちょうど、人間だった頃、自己の傷つきやすい内心を誰も理解してくれなかったように。

(中島敦『山月記』)>

 

「天に躍り地に伏して嘆いて」いるから「誰ひとりとして」寄ってこないのだ。「わかってくれる者はいない」ということが、どうして本人に知れよう。「わかってくれる者」ほど、近寄りたがらないのではないか。そうした反省ができないから、人虎に成り果てたのだろう。

「自己の傷つき易い内心」は意味不明。つまり、こんな言葉は人虎の言葉であり、「誰も理解して」くれないものなのだ。〈「内心を」~「理解して」〉も意味不明。

 

<中国唐代伝奇「人虎伝(じんこでん)」を素材とし、自己を投影し、強い自意識を持つ芸術家の自嘲(じちょう)と苦悩を描いた作品。

(『近現代文学事典』「山月記」)>

 

「投影」は「物の見え方や解釈の仕方に、心の内面が表現されること」(『広辞苑』「投影」)という意味らしいが、この説明ではよくわからない。ほら、また、「自意識」だ。

 

<ところが、当時の文学状況の中で『人虎伝』を捉え直せば、「人虎伝ブーム」が起きていたことがわかる。中島敦は、決して「孤高」の文学者ではなかった。ある意味で、「時代の子」だったのである。

(島内景二『中島敦「山月記伝説」の真実』)>

 

「孤高」を気取れば友だちができるような甘い「時代」が「明治」だろう。この「ブーム」は二十一世紀も国語科業界では「継続中」らしい。いい加減にしないか。

 

<孤独な群衆とは、高度に工業化の進んだ経済的に豊かな社会、サービス産業の発達した社会に発生する性格類型の1つである。この性格類型をもった人びとは、他人に対して常に友好的であることを要求され、他人から好意を受けることがないと孤独感をもつ。

(『心理学辞典』「孤独な群衆」)>

 

Sも、李徴も、「孤独な群衆」の一人なのだ。彼らは、自分のことを「群衆」よりは上位の選民のように思いたくてならない。「大衆」でさえなければ人虎でもいい。自己欺瞞に失敗したら、自殺や自虐の演技を始める。彼らは孤高を気取るが、実際には孤独に耐えられない「淋しい人間」だ。ちやほやされたい。本音では群れたがっている。「孤独な人間」は全体主義を準備する。『メフィスト』(サボー監督)参照。

 

 

 

3000 窮屈な「貧弱な思想家」

3400 「自由と独立と己れ」の交錯する「現代」

3450 『山月記』

3453 カニバリズム

 

『人虎伝』の真相は、〈李徴はカニバリストになった〉というものだろう。

 

<未開ノ蠻民ニハ人肉ヲ食フ者往々コレアリ怪シムニ足ラス、支那ノ若キハ夙ニ文明ノ國ト稱シ道徳仁義ヲ以テ高ク目標スル者ナリ、而ルニ古來史中人肉ヲ食ヒシコト續々トシテ絶エス、

(神田孝平『支那人人肉ヲ食フノ説』)>

 

『狂人日記』(魯迅)の主人公は、周囲の人々をカニバリストと疑う。

 

<『狂人日記』は文学的フィクション、文学的虚構(きょこう)であるが、武宣県は全く血塗られた現実である。

(鄭(ツェン)義(イー)『食人宴席 抹殺された中国現代史』「3章 《人肉宴会》大流行」)>

 

日本人は、良くも悪くも、中国文化のすさまじさを軽視しがちだ。

人肉嗜食には、三種ある。飢えを凌ぐだけの行為と、呪術的な行為と、病的な行為だ。ただし、病的な行為は、呪術的な行為の無自覚な反復だろう。

 

<きわめて熱心にカニバリズムの風習を守っている人びとでも、ふつうは軽々しく人を食べたりはしない。また、犠牲者の身体のどの部分がカニバリズムの食卓に供されるかについては、たいてい厳しい選別がなされ、ほんの数片しか使われないこともある。その場合心臓が使われることが多い。こうしたことのすべてが、厳密に儀式化される傾向がある。

(フェリペ・フェルナンデス=アルメスト『食べる人類誌 火の発見からファーストフードの蔓延まで』「第二章 食べることの意味――儀式と魔術としての食べ物」)>

 

非常事態の人肉嗜食を大袈裟に扱った『ひかりごけ』(武田泰淳)や『行き行きて、神軍』(原正人監督)などは、鬱陶しい。『野火』(大岡昇平)は、ちょっぴり不条理かもしれない。『ベンガルの虎』(唐十郎)は不条理だろう。『佐川君への手紙』(唐十郎)の主人公は精神を病んでいる。彼は、食べてしまいたいぐらい好きな相手を食べちゃう。

だが、李徴は、彼らとは違う。

『人虎伝』から、次の三つの異本が構想できる。

 

 Ⅰ (伝奇)李徴は魔物などによって虎にされた。ボーモン夫人『美女と野獣』参照。

Ⅱ (猟奇)李徴は精神を病んでカニバリストになった。『青頭巾』(上田秋成)参照。

Ⅲ (不条理)李徴は理由もなく虎に変身した。『変身』(カフカ)参照。

 

『山月記』は、これらのどれにも属さない。不合理であり、未完成だ。国語科教師は不合理で未完成なのを文芸的と勘違いするらしい。

(3450終)

(3400終)