団地小説短編集を歩く

団地小説短編集の舞台を歩きながら団地や地域の魅力をお伝えします。

小説キャナルタウン 9 新兵庫運河物語 4 兵庫大仏能福寺 大仏尊大法会

2017-05-19 06:46:23 | 日記
     恒例 大仏尊大法会  平成29年5月9日 11時

   大仏尊大法会は平成3年5月9日の兵庫大仏の再建をお祝いして始まりました。大仏様は一願成就の仏様。

   祈祷札に込められた祈願成就をお祈りします。

       残念ながら今年は小雨模様のため晴天の日の前撮り写真です。

      

       まず始めに案内板による能福寺と大仏様の歴史です。

        

         兵庫大仏尊像  

   明治初年、太政官布告により神仏分離令が発せられ廃仏毀釈により仏教界は壊滅状態だった。この時兵庫の豪商南條  

  荘兵衛の一大発願により兵庫の民衆はもとより仏教界全宗派を挙げて巨大な盧舎那大仏が建立された。以来、奈良、鎌倉

  と共に日本三大仏に数えられる。その後この兵庫一帯は大いに栄えて神戸一の繁華街を誇り、香の絶ゆる間なく内外の

  参詣者で賑わった。映画解説者の淀川長治氏は、この境内の活動写真を愛され、漫才の故砂川捨丸師匠、松竹新喜劇の

  故渋谷天外師匠の初舞台もこの境内の掛小屋だと、自ら語っておられました。今次大戦の敗色濃い昭和19年5月金属

  回収令により悲しみに沈む多数の市民に見送られ出征された。平成3年5月多くの市民の強い要望により、市内の有力

  企業多数の協賛を得て実に47年ぶりに再建された真の「民衆立」の信仰大仏である。

       身丈 11米・耳の長さ 2.1米・蓮台3米・台座4米

       地上よりの総高18米・重さ(蓮台共)60トン

         天台宗能福寺護国密寺

     開 基 伝教大師最澄上人 廷暦24年(西暦805年)

     本 尊 伝教大師御作 薬師如来立像

     御前立 弥陀三尊仏(藤原時代後期の優作)

         十一面観世音菩薩立像(弘仁年間の秀作)国指定重要文化財

   今から千年以上も昔、延暦23年(西暦804年)桓武天皇の勅命を受けて支那に留学され伝教大師は、その帰途、

  兵庫和田岬に上陸、庶民大いに大師を歓待し、堂を建立し教化を請うた。大師は御自作の薬師如来立像を御堂に安置し

  て国の安泰、庶民の幸福を祈願して自ら能福護国密寺と称された。即ち伝教大師の我が国最初の教化霊場である。

   平清盛公福原遷都の時(承久4年、西暦1180年)平家一門の帰依あり、小川忠快法印(平清盛公の甥)七堂伽藍

  を完備して兵庫随一の勢力を誇り福原京五山の第一に居し依って通称「福原寺」と称した。寺の壮大な外観から「八塔寺」

  とも称された。平家滅亡後、曆応4年(西暦1341年)震災により全焼、慶長4年(西暦1599年)明智光秀の臣、

  長盛法印堂宇を再建した。本朝編年集に曰く「仁安3年(西暦1168年)11月平清盛公、能福寺ニ於テ剃髪入道ス。

  養和元年(西暦1181年)2月4日京西八条ニ於テ薨去。歳64。翌日火葬トシ、円実法眼全骨ヲ福原ニ持チ来タリ、

  能福寺ノ東北ニ埋ル。」これは清盛公の遺言によるものである。円実法眼は当寺の住職にして徳大寺家祖左大臣実能公

  を父とする出処正しき人物である。


   初代大仏は明治24年5月、当時急速に拡大してきたキリスト教に対抗するため仏教徒の心のよりどころ、見える象徴と

  なるものとして建立されました。例えば日本基督教団神戸教会は明治7年神戸初の教会として建設されましたが、明治21

  年の三代目となる教会は下山手に巨大な教会を作りました。信者の数も増えたわけですが、巨大な教会には巨大な大仏様。

  わかりやすい理論です。

   身丈3丈8尺(約11.5メール)船からも見え海外にも知られました。大仏の鋳造には約1万五千面もの銅鏡が寄進さ

  れました。銅鏡と言えば古墳の出土物のイメージですが江戸時代の中期より一部で国産のガラス鏡は作られてはいましたが

  主に銅鏡に錫メッキをしたものが使用されていました。文明開化のシンボルとして錆びない手入れの簡単なガラス鏡が急速に

  に普及して不要となった銅鏡ですが元は大切な嫁入り道具、女性の分身とも言える鏡、大仏様の鋳造が銅鏡供養になったのか

  も知れません。兵庫津の幕末の家屋数が7,418戸人口、二万余と言われていますから銅鏡の寄進は兵庫津を越えた大き

  な広がりとなりその後の大仏人気につながったのではないでしょうか。

   兵隊さんと同じように赤襷をして出征された大仏様ですが実は戦後発見されたそうです。お寺の釣り鐘は戦後返還された

  ものもあるそうですが、無事に現在の大仏様に生まれ変わられたのでしょうか。

  (追記)当時の住職が回収保管し再建時に金属片が混入されました。強度的には組成がわかった新しい銅が良かったのかも知

      れません。
       
        

   写真 左 キャナルレガッタにある案内板の今と昔の兵庫大仏の写真です。耐震性も考えて安定したお姿になったそうですが

        阪神淡路大震災で証明されることになるとは大仏様もご存じ無かったのでは。

   写真 右 市民のグラフこうべ平成2年8月号 「ノスタルジー和田岬線1世紀の歩み」で紹介された昭和13年頃の大仏

        筋(能福寺の前面道路)の写真です。火燈窓のついた山門を模したゲートは垂木や欄干まで非常に精巧に造ら

        れています。開閉式の日除けテントが道路一面に張られ非常に繁華な商店街で有ったことがよくわかります。
       
        

   写真 左 奈良・東大寺 鎌倉・高徳院 とともに日本三大大仏で有ることの公認証です。東大寺様と高徳院様が公認して

        います。初代の兵庫大仏が日本三大大仏で有ったことはほぼ定説で有りますが、現時点では三番目は空位とする

        見方もあります。

   写真 右 非常に小さくて申し訳ありませんが階段の登り口の右側に  

            恒例 大仏尊大法会執行 とき 5月9日 午前11寺
    
            一願成就ご祈祷札ご希望の方は本坊寺務所で受付しております。

                           能福寺 大仏奉賛会

        と書いてあります。大法会飾り付けや案内板らしきものはこの一枚だけで非常に控え目です。

        大仏様の拝観は開門が午前9寺、閉門が午後5時で何と無料です。「ビルシャナ殿」は通常非公開です。


                大仏尊大法会

   晴天であれば台座の上の大仏様の前で厳粛にして華やかな儀式が行われるのですが雨の予報があったため、大仏様台座の

  の中にある「ビルシャナ殿」で執り行われました。「ビルシャナ殿」は木造十一面観音菩薩立像(国指定重要文化財)の周

  りを特大23㎝・一号18㎝・二号12㎝・三号7㎝の大仏様の形をした金色に輝く小さな大仏様四千体が取り囲む厳粛荘厳

  にして華麗な空間であります。(能福寺のホームページに写真があります。ホームページによれば「ビルシャナ殿」は永代祠

  堂でもあり小さな大仏様は永代仏様であります。)「ビルシャナ殿」で九人のお坊様による一大真言密教絵巻が繰り広げられ

  たのでありますが「ビルシャナ殿」は写真撮影禁止のため

        

  今年はお帰りになるお坊様のお姿で荘厳華麗な大法会ご想像下さい。来年は晴天でありますよう祈っています。

      来年は皆様もでひお参り下さい。

       

   決してお坊様のお経を信用しない訳ではありませんがお帰りの折りにも長い間大仏様にお願いをされていました。兵庫大仏

  は今も昔も女性達の厚い信仰心で支えられています。

        兵庫の大仏様は町中大仏として親しまれ有名ですが

        

   写真 左 大仏様の背中と茶色い建物の間にキャナルタウンウエスト7号棟が僅かに見えます。手前に落葉樹があります

        ので冬季限定の風景です。

   写真 右 残念ながら都市機構のキャナルタウンウエスト7号棟は建物の影にうなって写っていませんがキャナルタウン

        イースト(神戸市営シティハイツキャナルタウン)右とキャナルタウン中央(分譲)左を背にした大仏様です。

  小説キャナルタウン 23 兵庫大仏能福寺 大仏尊大法会 晴天バージョン(2018.5.25)もご覧下さい。

                 

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