前回までのあらすじ
小説キャナルタウン 1 兵庫運河祭 回転橋の謎
兵庫運河祭でもらった絵葉書の旋回橋の説明(和田旋回橋)が違っているのでは?と言うことで
小説キャナルタウン 2 謎の回転橋はどこ? 兵庫運河5橋巡り しかし新たが謎が
で兵庫運河旋回橋五橋巡りをして、じつは絵葉書の写真がが運河第一橋(今の高松橋)で有ったことが判明し
ましたが、しかし住吉橋だけがなぜ背が高いのかと言うしかし新しい疑問が出てきました。これが前回まで。
住吉橋は昭和46年7月頃に架けられた4車線の兵庫運河の南地区(運南地区)への幹線道路橋です。運南地区
へは、東には新川橋、西には高松橋の大きな橋がありその間に御崎橋、材木橋、住吉橋、第五橋(今の清盛橋)が
有りました。新川橋、高松橋は市電が廃止されそれなりのは幅員はありましたが、御崎橋・材木橋は道幅も狭く運河
を越えるため幹線道路としては不適な太鼓橋で、旧住吉橋・第五橋に至っては極めて貧弱な橋でした。交通量の増加に
対応するため兵庫区南部を縦貫する道路と橋が建設されました。しかし、なぜ住吉橋だけががこんなに背が高いのか。
当時、現在の清盛橋は第五橋と呼ばれ兵庫運河開削当時の旋回橋が残っていました。もしかして新川橋が可動橋で
大きな船が入ってきていたのかも。
と言うことで、新川橋に来ましたが、普通の橋です。実は数年前に老朽化のために架け替えられました。新川運河
の北の部分は早くから橋が架けられましたが南部分は船の出入りのために橋がありませんでした。新川橋がいつ架け
られた判りませんが昔の写真を見ても少なくとも大正14年(大正12年の地図で市電の路線が記入さていますが中
之島~今出在家町2丁目の開通は大正14年3月7日とされています)に市電が開通して以来ずっと普通の橋です。
高松橋は昭和12年に開閉を中止おり、兵庫運河に背の高い船が入ってくる可能性はありません。
とって付けたようですが、右の写真は新川橋の少し西から見たキャナルタウンウエスト7号棟です。UR賃貸のPR
ブログなもので。
ここで、初代住吉橋の写真が見つかりました。市民のグラフこうべ昭和46年10月号で「兵庫運河の住吉橋
老朽化のため新しいコンクリート橋が建設中で、この橋の消える日も近い」の説明があります。
(ネットから写真のプリントが出来ませんでした。液晶画面を写真に撮っていますので不鮮明です。市民のグラフ
こうべはデーターとして公開されていますのでネットでご覧下さい。)
初代住吉橋がいつ出来たのかは不明ですが、大正4年の和楽路屋発行「神戸市街全図」には記載がありません。一方
昭和5年の吉田初三郎の「大神戸市を中心とせる名所鳥瞰図絵」には記載があります。
この写真で「背の高い船が通るから説」は完全に否定されました。
初代住吉橋が出来た時代、兵庫運河は「海の難所 和田岬」を迂回するバイパスの役目を終えて運河沿いの工場に艀で
物資を運ぶ輸送の動脈の時代になっていました。和田岬が海の難所であったことは今の人には理解しがたいかも知れま
せんが、帆船の時代には潮流と風と三角波によって結構、海難事故があったのです。
艀の写真です。艀は150トンから300トン程度の動力を持たない運搬船で、曳舟に引かれて沖合の貨物船から港
に荷物を運んでいました。また船底が浅いので、川底の浅い運河にも運ぶことが出来ました。神戸港には最盛期には2,000艘
以上の艀がありポートタワーから見れば中突堤の東の艀だまりにはギッシリと並んだ艀が見られましたが、港の整備が進む
とともに減少し船のコンテナ化とともに殆ど見られなくなりました。兵庫運河でも住吉橋の西側には日清製粉・日本製粉が
あり艀で小麦が運ばれていました。兵庫運河支線にある増田製粉では平成20年頃まで見ることが出来ました。写真は明石
海峡大橋の下を引かれて東播磨港に行く艀です。
それでは、隣の清盛橋と同じで良かったのでは。工事費も桁違いに安いはずです。
そこで、地上に何か理由があるのでは?
仮説その1 運河の南にある道路と立体交差をするため。昔は交通量が多かったかも。
仮説その2 兵庫運河を埋め立て東西(北東・南西)に幹線道路の計画が有り立体交差をするため。
兵庫運河・真珠貝プロジェクト
住吉橋の下では兵庫運河・真珠貝プロジェクトでアコヤ貝を使った真珠貝の養殖が行われています。二枚貝には摂食の
際に大量の水を濾過し水質を改善する作用があります。この性質を利用して平成19年から地元のPTAを中心に水環境
の改善と環境体験学習として行われています。平成28年もたくさんの真珠が出来ました。手前に桟橋と船が写っています。
橋の上に見えるのがキャナルタウンウエストの7号棟です。ここはUR賃貸のPRブログです。
大変な物を見逃していました。写真左 落下防止ネット? 写真右 曲がった謎の空き地
仮説その3 新川貨物駅があり、これを越えるために高架とした。
落下防止ネットは単線の引き込み線ではなくて、複数線の幅があります。謎の空き地も同じぐらいの幅が有ります。
前回の昭和12年頃の「大神戸市景観図「」と明治30年の兵庫運河事業報告付属地図には戻ります。
大神戸市景観図の住吉橋の左上に新川貨物駅の表示があります。線路も2本から4本程度描かれています。
現在の住吉橋が建設させた当時は、新川駅本体は明和通2丁目にありましたが入れ替えのための線路等は芦原通
1丁目辺りまであったようです。
ここで新川(貨物)駅について少し考察します。(私案)
明治21年山陽鉄道が開業します。明治23年には山陽鉄道の建設資材運搬用に和田岬から敷設された線路を利用して
和田岬線が開業します。明治30年の付属地図から新川まで支線が伸ばされおりここに新川駅が作られていたものと思
われます。
兵庫運河の建設に伴い、支線の大半は撤去され、分岐部分から兵庫運河までの区間が残されここに新川駅が移った
と思われます。新川駅の名前から考えても新川運河に接続する形で新川駅があったと考えるのが自然であると思われ
名前はそのままに移転したと考えます。この点でウィキペディアの説明とは異なります。
(小説キャナルタウン 2 では線路は北側に移設されたと思われると書きましたが、大正4年の神戸市街全図には
線路の記載が無く、兵庫運河が出来る訳ですから、新川運河まで伸ばす必要がありません。また同時に兵庫運河支線が
兵庫駅まで作られました。)
その後、新川駅は拡充整備されて、支線は昭和7年には「神戸市場駅」昭和8年には駅「兵庫港駅」まで延伸され
ます。そして昭和59年兵庫臨港線全廃により新川駅も廃止されます。
まだ謎の2メートルが
まったく大ざっぱな測量で申し訳ないのですが「新川駅」説によっても住吉橋がまだ2メートルほど高過ぎます。
これは構造力学上また車の走りやすさから全体を緩やかなアーチ状にしたのではないかと思われますが他に理由が
あるのかも知れません。
住吉橋だけなぜ高いのか?兵庫運河7不思議に登録お願いします。
小説キャナルタウン 1 兵庫運河祭 回転橋の謎
兵庫運河祭でもらった絵葉書の旋回橋の説明(和田旋回橋)が違っているのでは?と言うことで
小説キャナルタウン 2 謎の回転橋はどこ? 兵庫運河5橋巡り しかし新たが謎が
で兵庫運河旋回橋五橋巡りをして、じつは絵葉書の写真がが運河第一橋(今の高松橋)で有ったことが判明し
ましたが、しかし住吉橋だけがなぜ背が高いのかと言うしかし新しい疑問が出てきました。これが前回まで。
住吉橋は昭和46年7月頃に架けられた4車線の兵庫運河の南地区(運南地区)への幹線道路橋です。運南地区
へは、東には新川橋、西には高松橋の大きな橋がありその間に御崎橋、材木橋、住吉橋、第五橋(今の清盛橋)が
有りました。新川橋、高松橋は市電が廃止されそれなりのは幅員はありましたが、御崎橋・材木橋は道幅も狭く運河
を越えるため幹線道路としては不適な太鼓橋で、旧住吉橋・第五橋に至っては極めて貧弱な橋でした。交通量の増加に
対応するため兵庫区南部を縦貫する道路と橋が建設されました。しかし、なぜ住吉橋だけががこんなに背が高いのか。
当時、現在の清盛橋は第五橋と呼ばれ兵庫運河開削当時の旋回橋が残っていました。もしかして新川橋が可動橋で
大きな船が入ってきていたのかも。
と言うことで、新川橋に来ましたが、普通の橋です。実は数年前に老朽化のために架け替えられました。新川運河
の北の部分は早くから橋が架けられましたが南部分は船の出入りのために橋がありませんでした。新川橋がいつ架け
られた判りませんが昔の写真を見ても少なくとも大正14年(大正12年の地図で市電の路線が記入さていますが中
之島~今出在家町2丁目の開通は大正14年3月7日とされています)に市電が開通して以来ずっと普通の橋です。
高松橋は昭和12年に開閉を中止おり、兵庫運河に背の高い船が入ってくる可能性はありません。
とって付けたようですが、右の写真は新川橋の少し西から見たキャナルタウンウエスト7号棟です。UR賃貸のPR
ブログなもので。
ここで、初代住吉橋の写真が見つかりました。市民のグラフこうべ昭和46年10月号で「兵庫運河の住吉橋
老朽化のため新しいコンクリート橋が建設中で、この橋の消える日も近い」の説明があります。
(ネットから写真のプリントが出来ませんでした。液晶画面を写真に撮っていますので不鮮明です。市民のグラフ
こうべはデーターとして公開されていますのでネットでご覧下さい。)
初代住吉橋がいつ出来たのかは不明ですが、大正4年の和楽路屋発行「神戸市街全図」には記載がありません。一方
昭和5年の吉田初三郎の「大神戸市を中心とせる名所鳥瞰図絵」には記載があります。
この写真で「背の高い船が通るから説」は完全に否定されました。
初代住吉橋が出来た時代、兵庫運河は「海の難所 和田岬」を迂回するバイパスの役目を終えて運河沿いの工場に艀で
物資を運ぶ輸送の動脈の時代になっていました。和田岬が海の難所であったことは今の人には理解しがたいかも知れま
せんが、帆船の時代には潮流と風と三角波によって結構、海難事故があったのです。
艀の写真です。艀は150トンから300トン程度の動力を持たない運搬船で、曳舟に引かれて沖合の貨物船から港
に荷物を運んでいました。また船底が浅いので、川底の浅い運河にも運ぶことが出来ました。神戸港には最盛期には2,000艘
以上の艀がありポートタワーから見れば中突堤の東の艀だまりにはギッシリと並んだ艀が見られましたが、港の整備が進む
とともに減少し船のコンテナ化とともに殆ど見られなくなりました。兵庫運河でも住吉橋の西側には日清製粉・日本製粉が
あり艀で小麦が運ばれていました。兵庫運河支線にある増田製粉では平成20年頃まで見ることが出来ました。写真は明石
海峡大橋の下を引かれて東播磨港に行く艀です。
それでは、隣の清盛橋と同じで良かったのでは。工事費も桁違いに安いはずです。
そこで、地上に何か理由があるのでは?
仮説その1 運河の南にある道路と立体交差をするため。昔は交通量が多かったかも。
仮説その2 兵庫運河を埋め立て東西(北東・南西)に幹線道路の計画が有り立体交差をするため。
兵庫運河・真珠貝プロジェクト
住吉橋の下では兵庫運河・真珠貝プロジェクトでアコヤ貝を使った真珠貝の養殖が行われています。二枚貝には摂食の
際に大量の水を濾過し水質を改善する作用があります。この性質を利用して平成19年から地元のPTAを中心に水環境
の改善と環境体験学習として行われています。平成28年もたくさんの真珠が出来ました。手前に桟橋と船が写っています。
橋の上に見えるのがキャナルタウンウエストの7号棟です。ここはUR賃貸のPRブログです。
大変な物を見逃していました。写真左 落下防止ネット? 写真右 曲がった謎の空き地
仮説その3 新川貨物駅があり、これを越えるために高架とした。
落下防止ネットは単線の引き込み線ではなくて、複数線の幅があります。謎の空き地も同じぐらいの幅が有ります。
前回の昭和12年頃の「大神戸市景観図「」と明治30年の兵庫運河事業報告付属地図には戻ります。
大神戸市景観図の住吉橋の左上に新川貨物駅の表示があります。線路も2本から4本程度描かれています。
現在の住吉橋が建設させた当時は、新川駅本体は明和通2丁目にありましたが入れ替えのための線路等は芦原通
1丁目辺りまであったようです。
ここで新川(貨物)駅について少し考察します。(私案)
明治21年山陽鉄道が開業します。明治23年には山陽鉄道の建設資材運搬用に和田岬から敷設された線路を利用して
和田岬線が開業します。明治30年の付属地図から新川まで支線が伸ばされおりここに新川駅が作られていたものと思
われます。
兵庫運河の建設に伴い、支線の大半は撤去され、分岐部分から兵庫運河までの区間が残されここに新川駅が移った
と思われます。新川駅の名前から考えても新川運河に接続する形で新川駅があったと考えるのが自然であると思われ
名前はそのままに移転したと考えます。この点でウィキペディアの説明とは異なります。
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線路の記載が無く、兵庫運河が出来る訳ですから、新川運河まで伸ばす必要がありません。また同時に兵庫運河支線が
兵庫駅まで作られました。)
その後、新川駅は拡充整備されて、支線は昭和7年には「神戸市場駅」昭和8年には駅「兵庫港駅」まで延伸され
ます。そして昭和59年兵庫臨港線全廃により新川駅も廃止されます。
まだ謎の2メートルが
まったく大ざっぱな測量で申し訳ないのですが「新川駅」説によっても住吉橋がまだ2メートルほど高過ぎます。
これは構造力学上また車の走りやすさから全体を緩やかなアーチ状にしたのではないかと思われますが他に理由が
あるのかも知れません。
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