御坂サイフォン
お馴染みになりました淡河川・山田川疏水の看板です
右上部分は共通です。
英国陸軍工兵少将ヘンリー・スペンサー・パーマーが助言を求められるに当たって示された条件は
①毎秒1立方メートル以上の水を常時取水すること。
②疏水工事費69255円中、25000円以内で工事を完成すること。(最終的には幹線水路の工事費は84473円に
なりました。)
軟鉄は鋳鉄に比べて重さ当りの単価自体は高価なものですが、軟鉄官の重さは鋳鉄管の1/5の重量ですみます。鋳鉄管は1
本2トンにもなり当時の田舎道では輸送困難で急斜面での施工も考えなければなりません。計算上必要な太さは32インチです
が34インチ・36インチの3種類の管を作り、入れ子にすることにより英国からの船賃を大幅に節約することが出来ました。
鋳鉄管に比べて6割程度の工事費で建設することが出来たと言われています。
淡山疏水・東播用水博物館 稲美町野寺84-5
淡山疏水・東播用水博物館に現物の一部が保存されています。左側の初代管(明治23年~昭和28年)は英国トマス・ピ
ゴット社製錬鉄管で鉄板を曲げてリベットで2重に止めたもの一本の長さが20フィートです。厚さ数ミリの鉄板が50m以
上の水圧に耐えた事は驚きです。周りの鉄筋コンクリートは補強のために大正年間に施工されました。これにより初代管は6
4年間も使用されました。右側が2代目管(昭和28年~平成4年)で現在は3代目となります。但し地下と橋の中の部分は
2代目の管の中をプラスチックで強化して使用しています。
追加説明 初代管の鉄板の厚さは1/4インチ(6mm)です。
初代鉄管の中の写真です。2列にきれいな並んだリベットから英国の工業力と、英国人の几帳面さが伝わって来ます。
前回の淡河川頭首工の説明文で「淡河川疏水の実現には地元の人々の努力に加え近代化によって入ってきた測量術・鉄管・煉
瓦などの外国の技術が大きな役割を果たした」とありますがこの鉄管が御坂サイフォンを可能にしました。
‥通潤橋、水路の仕組みは‥ 熊本国府高等学校パソコン同好会のブログを参考にさせて頂きました。
熊本県阿蘇の通潤橋は雄大な放水(本来は石管内の清掃)で有名な石造りのアーチ橋ですが安政元年(1854)に完成した
30m近い谷を越えるための水道橋です。橋の高さは約21mで不足分は当時の伏越の技術(サイフォン?連通管?逆サイフォ
ン?)が用いられています。7.5m高い上流側から通潤橋を通り6.2m高い下流側に流れます。当初木製の樋で実験するも失
敗を重ね溝を付けた石柱を2枚合わせて特殊な漆喰で固めることによりやっと水圧に耐えるものが出来ました。50m以上の水
圧に耐えるには鉄管しか有りません。
サイフォンの誤用の始まりもここ?
サイフォンは理科的にはサイフォンの原理によるものではなく連通管の原理を利用したものです。この誤用?に耐えられない
人は形状から逆サイフォンと言う名を使う場合もあります。熊本国府高等学校の皆様もこの混乱を心配されています。
高価な「サイフォン管」を使用したのが「サイフォン」に、やがて「伏越」に変わる名称に?
サイフォンはギリシャ語で「管やチューブ」を現します。「サイフォン管」が単なる鉄管であったのか本当のサイフォンの負
の水圧にも耐えられる特殊な鉄管で高水圧の御坂サイフォンに利用されたのかは判りませんが御坂サイフォンの名はサイフォン
管に由来するそうです。谷の両側の巨大なサイフォン管の印象は強烈だったのでしょう。サイフォン管が転じて施設自体がサイ
フォンに。十分にあり得る話だと思います。新名所だったのかも知れませんね。
御坂サイフォンはこんなに大きい
中央のサイフォン橋(眼鏡橋)が御坂サイフォンとして紹介されることもありますが、御坂サイフォンは淡河川疏水が谷を
越える施設ですので全体はこんなに大きなものです。
水平距離735.30m、管の延長749.32m、眼鏡橋56.95m
北側海抜132.34m、南側海抜129.89m 高低差2.45m (平成3年工事実測値) 眼鏡橋海抜77.7m
東はりま加古川 水の新百景 御坂のサイホン(眼鏡橋)
「御坂のサイホン」は、淡河川(神戸市北区淡河町)から加古台地への引水のために淡河川疏水工事が、明治21年(189
1)にかけて施工されたとき、山から志染川を経て向いの山へ導水するために造られたものです。山から川を通って向かいの山
へ水を運ぶこの工事は、わが国初のサイホン(噴水管)工法が用いられました。当時としては画期的な大事業で、御坂神社の前
を流れる志染川の清流にかかる部分は、眼鏡橋としてした親しまれています。
淡河川疏水は、疏水としては琵琶湖疏水(滋賀、京都)、安積疏水(福島)とともに“三大疏水”に数えられるものですが、
大きな特色は他の二つの疏水が国策として建設されたのに対し、淡河川疏水は地域の住民が自費で完成させようとしたことで
す。なお、サイホンの設計は、わが国初の横浜近代水道を建設し、神戸近代水道の計画書をつくったイギリス陸軍少将ヘンリー
・スペンサー・パーマーによるものです。
御坂のサイホンは何度か改修されましたが、眼鏡橋の姿は今でも周囲と美しい調和を保っています。
日本三大疏水は淡山疏水を外し那須疏水を入れる場合もありますが、地方の寒村(安い輸入綿花により崩壊寸前まで行った綿
作の村)の計画が国の知遇を得て(国から45000円の貸し付け・パーマー氏の参加等)準国家プロジェクトになったのはな
ぜでしょうか。私は、水の少ない荒れ地でのワイン造りを目指した実証実験施設を誘致した国営播州葡萄園で出来た中央での知
名度が大きかったのではないかと思います。しかし皮肉なことに淡河川疏水の完成により水の少ない畑作地は美田と化し葡萄の
疫病の蔓延もあり播州葡萄園は巨大な葡萄園池にその名を残し歴史の中に消え去ります。小説タウンハウス 5 再録小説タウン
ハウス 第4回岩岡観光ぶどう園(2017.8.25)をご覧下さい。
近くにある近畿自然歩道の看板の一部です
サイフォン橋(眼鏡橋)
サイフォン橋は似ているけれどもイメージの違う2種類の写真がありますがその訳は。
下流側から見たサイフォン橋です。下流側には遊歩道があり川原まで下りていくことが出来ます。
河原を少し上流側に歩くと二つの橋が並んでいることが分かります。しかし進めるのはここまでです。この先は水は少ない
冬季に長靴を履いていくか、水の中を歩くことになります。(冬季に撮影したものです。)
昭和28年に架けられた鉄筋コンクリート製の新橋の橋脚(下流側)と「淡河川疏水御坂噴水管架載志染川弧石橋」(正式名
称)(上流側)の石積みの橋脚が並んで見えます。さらに行くと弧石橋が見えてきます。
コンクリート橋は下流側から見ると弧石橋と重なって分かりませんが中空構造になっています。
真下から見た2本のアーチです。
上流側から見た「淡河川疏水御坂噴水管架載志染川弧石橋」です。地元産の砂岩を組んでをモルタルで接着しています。
この橋は河原を歩いてさかのぼら無い限り見ることは出来ません。
サイフォン橋の上手が淡河川(左側)と山田川(右側)合流点となるます。相当の水量がある渓谷に見えます。山田川
はもっと上流まで志染川と呼ばれています。
サイフォン橋の上から淡河川疏水の上流側を見たところです。(落葉した冬季に撮影)橋の上は完全に一体化して4.5
mの生活道路となっていましたが、強度の問題から、石橋の上の部分は立入禁止になっています。
少し離れて同じ方向です鉄管が下った下の盛り土部分は鉄管が埋まっています。
上流側の鉄管
淡河川疏水上流側の鉄管の下からと、上からの写真です。前回はここで終了でした。3代目は長さ6mのダクタイル鋳鉄
管が使用されています。
下流側の鉄管
下流側の鉄管の登り口になります。
東はりま加古川水の新百景 淡河川疏水
神戸市北区淡河町木津の川から引かれたこの疏水は、総延長26.3㎞の水路である。
明治24年に完成した水路には、28ヵ所の隧道(ずいどう)があり難工事であった。中でも芥子山(けしやま)隧道は、土
質がくずれやすく湧水が多いため請負人の手に負えず、県の直営工事に改められた。
3年4ヶ月を要した隧道も同25年に初めて宿願の新田開発を潤した。しかし豪雨によって築堤は崩壊し明治27年に復旧
完成した。
芥子山隧道は次回に予定しています。
兵庫県立三木総合防災公園 スポーツの森ゾーン
サイフォンの出口は野球場の近くになります。
鉄管が登ってきます。
特に意味はありませんが、上流側・下流側の鉄管を両方写せるおそらく唯一のスポット。(逆は鉄管が木の陰になります。)
サイフォンの出口
登ってきた鉄管はここが出口となります。
御坂サイフォンの案内板にあった同じ場所の建設時の写真です。ここでは煉瓦が活躍しています。
この日は水がなかったので、噴出口を確認出来ました。種も仕掛けもありません。
サイフォンの出口付近から情報公園都市方面です。左端の照明塔付近の山中の黒い陰がサイフォンの上流側となります。
まったく海抜を下げることなく淡河川疏水が導かれてきたことが分かります。
御坂神社
御坂神社は延喜式内神社の非常に古い神社ですが天正年間の羽柴秀吉の中国征伐で兵火により古い記録が全て失われてしま
いました。しかし多くの神事が今に伝わっています。
旧郷社の社格を持つ志染の氏神様です。ご祭神は、八戸桂掛須御諸神・大物主神・葦原志神ですが全て大国主神の別名にな
ります。
神社の左側の道の下をサイフォン管が通っています。奥で境内は広がってますので御坂神社の境内の中をサイフォン管が通
過しています。明治の文明開化の時代とは言え御坂村を二分し氏神様の境内をサイフォン管が通ったのです。これには御坂の
人々の文化の高さと優しさを感じます。サイフォン管や石のアーチ橋は文明開化の象徴だったのでしょうか。お礼にサイフォ
ンを利用した消火栓が作られたそうです。東京に消火栓の設置が決まったのが明治23年です。
本殿の前に築200年と言われる能舞台があり能が神様に奉納する芸能であることがよくわかります。播磨地方では20社
程度で見ることだ出来るそうです。人々の文化の高さ村の豊かさを感じます。慶長13年(1608)に現在地に移ったと伝
わりますが図の右側奥には古代宗教の名残を残す男神・女神の残る古い神社です。
能舞台の奥に本殿が見えます。境内に能舞台屋台蔵改築工事寄進者名の石碑があり平成19年に改築されたことが判りま
す。金額の多寡は問題ではありませんが相当の金額です。神社がまた能が身近な存在であることがよくわかります。
能楽仕舞子ども教室のチラシです。8日間練習して8月26日が発表会です。26日は薪能も上演されます。
能楽仕舞発表会 播磨薪能
能楽仕舞は面や衣装を着けずに能の一部を舞う略式の能の上演型式です。今年は17人の子供達が古典芸能に挑戦しました。
まず一人ずつ舞います。最後に全員で連吟(謡の合唱)です。
お父さんやお母さんも子どもの晴れ舞台の撮影に力がはいります。
日もとっぷりと暮れた6時半頃に篝火に火が入り能が始まります。ビール箱を並べて板を渡した野趣溢れる観客席です。
(椅子席やアルミの床机台もあります。)本殿と能舞台の関係がよくわかります。
薪能を無料で見られる機会はめったにありません。毎年やってますので御坂神社のホームページで確認してでひお越し下
さい。
この日はちょうど満月でした。大きな月が昇ります。大接近した火星もまだまだ大きく見えました。
菊慈童
左 周の穆王の寵童 慈童 右 魏の文帝の勅使 舞台に菊の花が咲き乱れます。
周の穆王の寵童の慈童は誤って王の枕をまたぎます。本来、死罪のところ王は哀れんで深山への流罪となります。王は枕
に経文を書き毎日唱えるようにと渡します。慈童は字が薄くならないようにと菊の葉に経を書き写し毎日唱えました。何年
の月日が経ったでしょうか。山奥から霊水がわき出たこを聞いた皇帝は勅使を使わし調べさせました。人の住んでいないは
ずの山奥で遭った二人はお互いに妖怪変化と疑います。そしてお互いに名乗ります。なんと700年が経過していたので
す。菊の葉を伝わった滴が不老長寿の薬となっていたのです。9月9日の菊の節句のいわれとなったお話です。
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