耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

“怒鳴台”で叫ぶ~安部改造内閣発足によせて

2007-08-29 07:52:48 | Weblog
 世の中“シラケ”きった中で第二次安部内閣が発足した。“類は類を呼ぶ”というが、もともと安部晋三なる人物が“品格”に欠けるのだから、どこをどういじっても知れている。彼の発言を聞いていて、これがわが国の「宰相」である、と納得できる人が本当にいるのだろうか。

 私の好きな作家森敦の『天に送る言葉』に「怒鳴台」という一文がある。私はいま、この「怒鳴台」で鬱勃たる気分を思う存分発散させたい。


 <試みに、石を拾って空に向かって投げてみたまえ。はじめ石は上がろうとして上がり、次第に上がろうとする力を失って、上がろうともせず下がろうともしなくなる。このとき、石は頂上に達するので、やがて下がろうとして下がりはじめ、いよいよ下がろうと下がってついに地に落ちる。この石が描くところの曲線を放物線といい、人の生涯もこれに譬(たと)えることが出来る。
 
 青年という言葉はすこぶる漠然としているが、生涯を区分してこのように分類する、区間のあることは分かる。いや、青年とは十四、五歳から二十四、五歳までを言うと明記している辞書すらある。新聞雑誌の報道を待つまでもなく、生涯の危機は実にこの時機にあり、二十四、五歳をもって終わるとはいわないが、十四、五歳をもって始まる。
 
 なぜなら、投げられた石がこの時機に、次第に上がろうとする力を失って来るからだ。上がろうとする力を失って来るなら、問題はないではないか、と言うひとがあるかも知れない。しかし、上がろうとする力を失って来るということは、下がろうとする力が加わって来ることである。これが自己において相克する。他者が簡単に解決し得べきことではない。
 
 わたしの母校の裏には山があり、巨巌が聳(そび)えていた。これを怒鳴台(どめいだい)と呼び、怒鳴台において心の鬱屈(うっくつ)を怒鳴する以上は、なにごとであれ許された。学校当局に対する不満を怒鳴する者もあった。家庭のやり切れなさを怒鳴する者もあった。先輩の暴逆を怒鳴する者もあった。どうしようもない性的苦痛を怒鳴する者すらあった。>(森敦著『天に送る言葉』/小学館ライブラリー)


 “怒鳴台”で叫ぼう!

 【コノ トンチンカンヤローゥ!】