耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

“昭和天皇の戦争責任”をあらためて問う

2007-08-15 11:19:24 | Weblog
 今日は62回目の“敗戦の日”である。小学校五年生だった私は、士官学校を胸部疾患で撥ねられたあと、小学校の代用教員をしていた兄があわただしい動きをしていたことと、とても暑い日であったことだけ鮮明に憶えている。「戦争に負けた」ことに対する大人たちの動揺など、戦局の逼迫感に乏しい田舎の子供に分かるはずもなかった。

 「玉音放送(「音声」をクリック)」(http://www2.tokai.or.jp/isya/souko/gyokuon.html)を聞いて、天皇の言葉を正しく聞き取れた人は少ないだろう。文面を目にしながら耳にしても、唯一「忍ヒ難キヲ忍ヒ」だけが強く印象に残って、重大事局のこの時、天皇はいったい何を言いたかったのか、大方の人は理解に苦しむことだろう。いわゆる「国体を護持」(「皇祖皇宗」が二回出て来る)しつつ「ポツダム宣言」を受け入れるということで、「主体」はあくまで「天皇」で、戦争の惨禍に晒された国民にふれつつも、ここに至らしめた不明を恥じる言葉はない。

 しかも、米英戦は「帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾(注:心から願う)スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土を侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス」と述べたが、吉田裕著『昭和天皇の終戦史』(岩波新書・以下<>は引用)には次のようにある。

 <…班内に強硬な主戦派をかかえていた陸軍の参謀本部戦争指導班の「大本営機密戦争日誌」は、対米英開戦を決定し武力発動の時期を12月初頭と定めた11月5日の御前会議の前後における天皇の言動を、「御上(おかみ)のご機嫌うるわし、〔参謀〕総長、すでに御上は決意遊ばされあるものと拝察し安堵す」「御上もご満足にて、ご決意ますます[きょう]固を加えられたるがごとく拝察せられたり」などと記録している。>

 さらに、天皇は東条英機内閣を信任し、強く支持していた。玉音放送における天皇の言葉は、「15年戦争」の史実に照らし決して真実を語るものではなかったといえるだろう。

 敗色濃厚となった1945年初頭、近衛文麿は本格的な戦争終結工作に着手する。本書には興味深い話がある。

 <45年の1月25日には、近衛は京都宇多野の別邸にある陽明文庫に重臣の岡田啓介、海軍大臣の米内光政、天皇家とゆかりの深い仁和寺の門跡岡本慈航の三人を招き、敗戦後の事態について協議した。協議の内容は必ずしも明確ではないが、高橋紘・鈴木邦彦『天皇家の密使たち』によれば、この場で、天皇の退位と落飾(出家)が話しあわれ、仁和寺の側からは「落飾した天皇を裕仁(ゆうじん)法皇ともうしあげ、門跡として金堂にお住みいただく計画」が示されたという。退位した天皇の事実上の幽閉計画である。>

 この会合から一ヶ月も経たない時期に、戦局打開の方策について、天皇が7人の重臣から意見を聴取した。ここで近衛は、吉田茂と植田俊吉の協力を得て長文の上奏文を作成し、天皇の前で読み上げた。

 <「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存じ候」として敗戦をはっきりと予言し、敗戦にともなって「共産革命」が発生し、天皇制が崩壊するという最悪の事態を回避するために、直ちに戦争の終結に踏み切ることを主張したのである。近衛のこの上奏に対し天皇は、「もう一度戦果を上げてからでないとなかなか話はむずかしいと思う」と述べて、近衛の提案に消極的な姿勢を示した(『木戸幸一関係文書』)。天皇はまだ、戦局の挽回に期待をつないでいたのである。>

 昭和天皇の「戦争責任」については、いまなお「アイマイ」なままというのが実態だろう。「玉音放送」に二度でてくる「皇祖皇宗」の言葉からも推察できるが、敗戦を前に昭和天皇と彼の取り巻きたちは「国体護持」を至上命題として動き、「戦争責任」はすべて軍部に押し付け生きのびたといえるだろう。

 「防衛庁」は「省」に昇格され、沖縄をはじめ各地の米軍基地は縮小どころか強化され、自衛隊の装備は世界有数の戦力に育てられ、日米軍の一体化はますます顕著になっている。「平和憲法」の形骸化は著しく、その整合性が保てなくなって「憲法改正」があたかも「道理」にかなうような世論が醸成されつつある。このことと、「昭和天皇の戦争責任」論がないがしろにされてきたこととは決して無縁とはいえまい。

 『毎日新聞』今日の「余禄」は、東条英機の獄中回想録を引きながら「ジャーナリズム」の使命についてふれている。

 「8月15日・余禄」:http://www.mainichi-msn.co.jp/eye/yoroku/

 「…▲米デモクラシーと同じく中国のナショナリズムについても戦後の後知恵の何分の一かの認識が軍部にあれば満州事変以来の歴史は違ったろう。ならばその時、世界の現実を正しく伝えるのが使命のジャーナリズムは何をしていたのか。問いは私たちジャーナリストにはねかえってくる▲戦没者の魂を鎮め、平和を静かに祈るきょうである。だがジャーナリズムは自らに問わねばならないことがある。後知恵では取り返しのつかない今を、この世界を、私たちは正しく伝えているだろうか?」

 「昭和天皇の戦争責任」を改めて問い直すことも、「後知恵」としてではなく「今」をみつめるジャーナリストたちの重要な任務ではないのか。