昨日、福岡市博物館で開催中の「国宝“鑑真和上”展」に行った。大変な人出だった。和上については前にもふれ、昨年春、唐招提寺(http://www.toshodaiji.jp/)を訪ねたことも書いたが、わが国最初の肖像像とされる「鑑真和上坐像」をまじかに拝することができ、年来の願いがかなってありがたいことだった。
鑑真和上:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%91%91%E7%9C%9F
展示場に入るとまず目についたのは“孝謙女帝”(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E8%AC%99%E5%A4%A9%E7%9A%87)直筆の扁額「唐招提寺」。女性らしい筆致で左右二列に書かれている。光明皇后直筆の写経などたくさんの貴重な文物のなかで、やはり圧巻なのは和上の「坐像」である。
会場売店で買った山本巌著『鑑真~転生への旅立ち』(書肆侃侃房)によれば、「坐像」の高さは80・1センチ、重さわずかに12キロとある。これは<粘土や木ではなく脱活乾漆法という特殊な技法で作られている>からだという。同書は、中国ではこれとよく似た「肉身乾漆像」ともいうべきものが存在すると次のように言っている。
<死期を悟った高僧が、座禅した姿勢のままで食と水を絶って死を迎える。その遺体を特殊な方法でミイラ化し、乾漆法を用いて「像」とする。漆を加えることで外形を保ちつつ、肉体そのものを永遠に遺そうというのである。>
あの有名な中国禅の六祖「慧能」(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%A7%E8%83%BD)がミイラ化された坐像として広東省の南華寺に遺されているという。慧能は鑑真和上より50年前に亡くなっている。そして、和上は5回目の渡航に失敗し海南島まで流されたあと揚州への帰途、この慧能像を参拝した。
<慧能像は鑑真の記憶に強く刻み込まれた可能性はある。
そして鑑真は、亡くなる前、唐から同行した高弟の思託(したく)に「座死することを願う」と遺言しているのだ。この「座死」という言葉が、自身の「肉身像」化を意味した、と考えることはできる。>(同書)
中国・浙江工商大学日本文化研究所長の王勇教授もこの見解らしいが、唐招提寺長老の松浦俊海師はこの見方には否定的で、「弟子たちの鑑真和上に対する思いが、あのような、ひげ一本もおろそかにしない像を作らせたのではないでしょうか」と語ったという。
周知の通り、和上は僧であると同時に名だたる「名医」であった。渡来した和上の請来物に多くの「薬剤」が含まれており、その中にいまも正倉院に残る「訶梨勒(かりろく)」があった。驚いたことにその「訶梨勒」が展示してあるではないか。古典医学研究家の槇佐知子さんは著書『古代医学のこころ』(NHK出版)に書いている。
<1979年に鑑真和上の幻の秘法を『医心方』(注:わが国最古の医学書)の四ヶ所に十一みつけて発表した私は、和上の上陸地をひとめ見たいという思いにかりたてられたのである。…>
このあと槇さんは幾度となくこの地を訪れ、鑑真和上について講演をしたり、資料館の薬箱の整理をしたりした。槇さんが新聞その他で和上と坊津町の縁(えにし)をとりあげているうちに中国大使が訪れ、観光客も増える。町は見晴らしの良い山に和上の記念碑を建て、中国から贈られた柳や〔えんじゅ〕(木偏に鬼)が茂る公園を作った。
<私は坊津町で江戸時代の漢方医の薬箱を整理中、その引出しから訶梨勒の実をみつけた。訶梨勒はインド原産の高木の実で、古代の万能薬である。正倉院には鑑真和上がもたらしたという訶梨勒の実が、今はたった一つ残っている。何回にもわたって持ち出されたらしいが、持ち出した一人に関白藤原道長がいた。…>
筑波の国立衛生試験所長佐竹元吉先生が中国から持ち帰って試みに播いて芽吹いた訶梨勒の苗木を譲り受け、槇さんは坊津町に届けた。その苗木は無事に育ち、念願だった「鑑真和上記念館」も1992年に完成したという。
鑑真記念館:http://www3.pref.kagoshima.jp/suisui/25-bounotu/012/
若葉して御目(おんめ)の雫(しずく)ぬぐはばや 芭蕉
海南島に流され、「慧能像」を拝するころ長年の辛苦ゆえに失明されたという和上、そのつぶれた目からこぼれる雫を若葉でぬぐってやりたいという芭蕉のなんと優しい心根だろう。
私は、想像を絶する艱難を乗り越え来朝された鑑真和上の「坐像」に頭(こうべ)を垂れ、ただただ合掌するばかりだった。
最後に『続日本紀・巻二十四』から引いておく。
<(天平宝字7年)5月、戌申。大和上鑑真物化ス。和上ハ揚州竜興寺ノ大徳ナリ。(中略)天宝ニ載、留学僧栄叡・業行等、和上ニ白(マウ)シテ曰ク、仏法東流シテ本国ニ至ル。其ノ教有リト雖モ、人ノ伝授スル無シ。和上東遊シテ化ヲ興セト。辞旨懇至ニシテ、諮請息(ヤ)マズ。乃(スナハ)チ揚州ニ於テ船ヲ買ヒテ海ニ入ル。而ルニ中途ニシテ風ニ漂ヒ、船打チ破ラレヌ。和上一心ニ念仏シ、人皆之ニ頼リテ死ヲ免ル。七載ニ至リテ、更ニ復(マタ)渡海ス。亦風浪ニ遭ヒテ、日南ニ漂着ス。時ニ栄叡物故ス。和上悲泣シテ失明ス。勝宝4年、本国ノ使適々(タマタマ)唐ニ聘ス。業行乃チ説クニ宿心ヲ以テス。遂ニ弟子二十四人ト、副使大伴宿禰古麻呂ノ船ニ寄乗シテ帰朝シ、東大寺ニ於テ安置供養ス。>
鑑真和上:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%91%91%E7%9C%9F
展示場に入るとまず目についたのは“孝謙女帝”(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E8%AC%99%E5%A4%A9%E7%9A%87)直筆の扁額「唐招提寺」。女性らしい筆致で左右二列に書かれている。光明皇后直筆の写経などたくさんの貴重な文物のなかで、やはり圧巻なのは和上の「坐像」である。
会場売店で買った山本巌著『鑑真~転生への旅立ち』(書肆侃侃房)によれば、「坐像」の高さは80・1センチ、重さわずかに12キロとある。これは<粘土や木ではなく脱活乾漆法という特殊な技法で作られている>からだという。同書は、中国ではこれとよく似た「肉身乾漆像」ともいうべきものが存在すると次のように言っている。
<死期を悟った高僧が、座禅した姿勢のままで食と水を絶って死を迎える。その遺体を特殊な方法でミイラ化し、乾漆法を用いて「像」とする。漆を加えることで外形を保ちつつ、肉体そのものを永遠に遺そうというのである。>
あの有名な中国禅の六祖「慧能」(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%A7%E8%83%BD)がミイラ化された坐像として広東省の南華寺に遺されているという。慧能は鑑真和上より50年前に亡くなっている。そして、和上は5回目の渡航に失敗し海南島まで流されたあと揚州への帰途、この慧能像を参拝した。
<慧能像は鑑真の記憶に強く刻み込まれた可能性はある。
そして鑑真は、亡くなる前、唐から同行した高弟の思託(したく)に「座死することを願う」と遺言しているのだ。この「座死」という言葉が、自身の「肉身像」化を意味した、と考えることはできる。>(同書)
中国・浙江工商大学日本文化研究所長の王勇教授もこの見解らしいが、唐招提寺長老の松浦俊海師はこの見方には否定的で、「弟子たちの鑑真和上に対する思いが、あのような、ひげ一本もおろそかにしない像を作らせたのではないでしょうか」と語ったという。
周知の通り、和上は僧であると同時に名だたる「名医」であった。渡来した和上の請来物に多くの「薬剤」が含まれており、その中にいまも正倉院に残る「訶梨勒(かりろく)」があった。驚いたことにその「訶梨勒」が展示してあるではないか。古典医学研究家の槇佐知子さんは著書『古代医学のこころ』(NHK出版)に書いている。
<1979年に鑑真和上の幻の秘法を『医心方』(注:わが国最古の医学書)の四ヶ所に十一みつけて発表した私は、和上の上陸地をひとめ見たいという思いにかりたてられたのである。…>
このあと槇さんは幾度となくこの地を訪れ、鑑真和上について講演をしたり、資料館の薬箱の整理をしたりした。槇さんが新聞その他で和上と坊津町の縁(えにし)をとりあげているうちに中国大使が訪れ、観光客も増える。町は見晴らしの良い山に和上の記念碑を建て、中国から贈られた柳や〔えんじゅ〕(木偏に鬼)が茂る公園を作った。
<私は坊津町で江戸時代の漢方医の薬箱を整理中、その引出しから訶梨勒の実をみつけた。訶梨勒はインド原産の高木の実で、古代の万能薬である。正倉院には鑑真和上がもたらしたという訶梨勒の実が、今はたった一つ残っている。何回にもわたって持ち出されたらしいが、持ち出した一人に関白藤原道長がいた。…>
筑波の国立衛生試験所長佐竹元吉先生が中国から持ち帰って試みに播いて芽吹いた訶梨勒の苗木を譲り受け、槇さんは坊津町に届けた。その苗木は無事に育ち、念願だった「鑑真和上記念館」も1992年に完成したという。
鑑真記念館:http://www3.pref.kagoshima.jp/suisui/25-bounotu/012/
若葉して御目(おんめ)の雫(しずく)ぬぐはばや 芭蕉
海南島に流され、「慧能像」を拝するころ長年の辛苦ゆえに失明されたという和上、そのつぶれた目からこぼれる雫を若葉でぬぐってやりたいという芭蕉のなんと優しい心根だろう。
私は、想像を絶する艱難を乗り越え来朝された鑑真和上の「坐像」に頭(こうべ)を垂れ、ただただ合掌するばかりだった。
最後に『続日本紀・巻二十四』から引いておく。
<(天平宝字7年)5月、戌申。大和上鑑真物化ス。和上ハ揚州竜興寺ノ大徳ナリ。(中略)天宝ニ載、留学僧栄叡・業行等、和上ニ白(マウ)シテ曰ク、仏法東流シテ本国ニ至ル。其ノ教有リト雖モ、人ノ伝授スル無シ。和上東遊シテ化ヲ興セト。辞旨懇至ニシテ、諮請息(ヤ)マズ。乃(スナハ)チ揚州ニ於テ船ヲ買ヒテ海ニ入ル。而ルニ中途ニシテ風ニ漂ヒ、船打チ破ラレヌ。和上一心ニ念仏シ、人皆之ニ頼リテ死ヲ免ル。七載ニ至リテ、更ニ復(マタ)渡海ス。亦風浪ニ遭ヒテ、日南ニ漂着ス。時ニ栄叡物故ス。和上悲泣シテ失明ス。勝宝4年、本国ノ使適々(タマタマ)唐ニ聘ス。業行乃チ説クニ宿心ヲ以テス。遂ニ弟子二十四人ト、副使大伴宿禰古麻呂ノ船ニ寄乗シテ帰朝シ、東大寺ニ於テ安置供養ス。>