耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

“谷崎潤一郎”の粋な墓~「お盆」考

2007-08-13 09:40:57 | Weblog
 今日から「お盆」、テレビでは恒例の「里帰り」放送をくり返している。佛祖・釈尊の教えにはない中国伝来の「偽経」に基づく伝承文化らしいが、これはこれで、自分の命の由来に直結するご先祖さまへの畏敬と感謝の気持ちを表する機会と捉えれば、決して軽んじられるべき行事とはいえまい。

 「盂蘭盆」:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%82%E8%98%AD%E7%9B%86
 
 古い話ばかり持ち出すようだが、10年前に『毎日新聞・日曜版』に連載されたエッセイ「寺おこし心おこし」をもとに出版された小川英爾著『ひとりひとりの墓』(大東出版社)には、“現代墓事情”が実例をあげて語られている。著者は新潟県にある日蓮宗寺院僧侶である。

 小川英爾師は1989年、跡継ぎ不要で宗派に関係なく永代供養をする集合墓『安穏廟』を建てる。その端緒は次のような社会現象を受けてのことである。

 <墓問題には核家族化や少子化に加え、離婚した女性やシングルの女性、あるいは夫とは別の墓がいいと望む女性が墓を求めにくい、継ぎにくいという事実が潜んでいることにお気づきだろうか。これは墓が「○○家之墓」として、家を単位に代々継承されていくのが普通と考えられていることからくる。だからこうした女性たちや子供がいない夫婦、子供が娘だけの夫婦にとって、墓の継承者がいないのは切実な悩みになってしまう。>

 墓問題は他人事ではなく、私の父母(先祖)の墓も例外ではない。田舎にあった先祖の墓が、兄夫婦の一存で息子(私の甥)が住む隣県に移設され、ここ10年余、他の弟妹は墓参りが出来ないままなのだ。今は市内にいる兄の家に昔からの仏壇があるから、そこでお参りは出来るからまだいいが、先の短い兄がいなくなったら当然、仏壇は息子の所に移動し、ご先祖様へのお参りもかなわなくなる。

 こうした事情は、こんにち珍しいことではあるまい。田舎にある一族の墓参りをして驚くのは、小高い広い墓域の大部分が「放棄墓」で、墓地の麓の田んぼを整地して新設された墓碑だけが目立ち、「都市と地方」の問題がここにもはっきり現れている気がする。小川師の『安穏廟』には個人だけでなく寺院関係者の見学が絶えないと書いてあるが、その後、これにならった「集合墓」があちこちの寺院に出来たらしい。

 これと類似する葬送法に『葬送の自由を進める会』に代表される「自然葬」がある。

 「葬送の自由を進める会」:http://www.shizensou.net/

 「自然葬」:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E8%91%AC

 こうした従来の「シキタリ」とは違う「葬送」の増加は、いずれ「盂蘭盆会」などの宗教行事を衰退させ、人びとが求める「救い」や「煩悩からの解放」を説く宗教本来の役割に目覚めるきっかけとなるかも知れない。

 キリシタンの地・平戸、黒島が望める景勝地に広い市営墓園があって時々訪れるが、ほとんどの墓標が「○○家之墓」になっている。京都東山の法然院を訪ねた時、たまたま谷崎潤一郎の墓に遭遇したが、ただ一文字雄渾に「寂」と刻まれていた。ひっそりと佇む法然院にふさやしく、谷崎潤一郎の人間性を髣髴させる一文字だとしばし見入った記憶がある。

 東京・府中市にある“多磨霊園”には著名人の墓があって有名だが、著名人を圧倒する驚くほど豪華な墓もある。水上勉の『骨壷の話』(集英社)には「裏の土蔵でもあけるみたいに、重い扉を押し開け」て入る沖縄の墓の話がでてくるが、これらは例外として、一般庶民の墓にたいする通念は大きく変わっていくのではないだろうか。

 ちなみに“多磨霊園”に眠る著名人の名簿をあげておく。公園になっているから桜の時期に訪れると楽しい一日が過ごせる。

 http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/list.html