耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

今は昔の“ストライキ”の話~その5

2007-08-27 08:57:41 | Weblog
 【戦前のストライキ】 ~軍隊の出動

 第一次大戦後の反動恐慌の中、大量馘首、大幅賃下げに直面した神戸の川崎、三菱両造船所では、軍隊まで出動するという未曾有の争議に発展した。総同盟の指導のもと川崎・三菱争議団は「工場管理」を宣言して闘ったが、闘争長期化につれ苦境に立たされ、賀川豊彦争議団長外300余名の一斉検挙にあい、、総同盟は本部を神戸に移し西尾末広、赤松克麿らの指導部を再編、局面打開のため西尾、赤松は重役邸やガントリークレーン爆破のテロ戦術を主張したが、この計画は実行されることなく一切の調停も不調に終わり、遂に「敗北宣言」を出して終息、労働運動はこれを機に労働争議より階級闘争へと向かう。

 総同盟機関紙『労働』は次のように書いた。

 <右傾といい、左傾といい、悪化といい、合理化といい、久しく混沌の間を彷徨した日本の労働運動は、こんどの争議を分岐点として、また転機として、漸く、その向かう所が定まったような感じがする。「力」に対するものは、結局、「力」である。資本家や官憲がもし、労働者の正義と信じて進む所に、ただ「力」を以て押しつけようとするのみならば、労働者も畢竟、正義とか、人道とかという弱者のお題目を唱えることをやめて、「力」を以て対応する外ない。>

 1923(大正12)年、運動の過程で捕えられた総同盟の金正米吉は、「力なき故屈すれど」と題して述べている。

 <トウトウ落ち付く処落ち付いて資本主義の代弁者は無辜の良民に対し其者が只資本主義に対する反逆者たるの故を以て牢獄に呻吟するの光栄に浴せしめた。
 若輩の世間知らずの検事に圧迫されて遠慮勝ちな猫なで声の彼の貧弱な判官の無法極まる判決に何うして心から服する事が出来よう。今力薄くして是非もなく此強権に屈服する。併しながら其結果は官憲を呪ひ○○を呪ひ進んで○○を呪ふの炎と化し反逆の油をそそいで此不法を焼き尽くさずんば止まない。>

 これより前の1920(大正9)年、大阪鉄工所因島工場(前日立造船)に労働組合を組織するため総同盟から派遣された金正米吉は、当時の様子を次のように語っていた。

 <仕事の上でもいじめられる。従来は腕がよいのでいい仕事ばかりくれるのに、組合に入ったらバイト(旋盤)にもかからんような物ばかりまわす。もう組合はやめたといいだす者が出てきた。
 それでそんな馬鹿なことがあるかと、それの職長の家に行った。それも普通にいったのではこたえんから、夜の十二時、宿の厚歯の下駄をはいて何もいわず表からガーンガーンと蹴る。どなたです! どなたです! といっても黙ってガーンガーンと蹴り続ける。ビックリして家内がおきてくる。それから親爺を起こさせて話をした。
 お前は組合に入った者をいじめるそうではないか。俺は友愛会(総同盟)はよいと思って皆に勧めておるが悪いのならやめねばならん。一体どこが悪いのか。そのわけを聞かせろ、といった。
 いえ、別に悪いことはありません、というから悪くないならお前も入れといってやった。それからはよくなって、別子の銅山に行くときは服まで出してくれた。
 よくわかりました。これから楽をさせます。職長だから組合には入れんから寄付をするというて三円か五円だしてくれ、それからも毎月だしてくれるようになったし、そのあけの日から、組合員にもよい仕事をくれるようになってみんな安心して、ニコニコして仕事をしておる。>(『戦前の因島労働運動史』)

 金正米吉がオルグして築いた「大阪鉄工因島労働組合」の指導者たちは、近隣工場労働者の組織化に積極的な役割を果していた。海峡を隔てた愛媛県今治の繊維工場労働者たちへの宣伝活動では、伝説的な話が残っている。
 因島の指導者たちは劇場「今治座」を借りて『労働問題演説会』開催を計画、今治市内に3万のビラを配布、十数里の遠路から泊りがけで来る人もあるという前代未聞の大騒ぎになった。ところが、会場座主が急死したうえ、この騒ぎを憂慮した警察が宣伝隊と劇場主の出頭を求め、演説会開催中止を通告する。警察との談判も不調に終わり、演説会開催は絶望となった。このあとの状況を1923(大正12)年12月15日、総同盟の『労働者新聞』はつぎのように伝えた。

 <…交渉委員、野田、近藤、佐伯の三君の様子如何にと稲見氏(注:会場仲介者)訪問せしに、劇場主は資本家と警察の圧迫に堪えかね、切腹して申訳すと言いし故残念ながら劇場主を助けてくれとのこと、委員等は無念の涙を流す。時に稲見氏“誠に申し訳なし、何卒これを”と左の小指を根元まで切断して生血の滴るまま差し出す。近藤君(注:因島労組宣伝部長)も同じく小指を切断する。鮮血は畳を紅に染め劇的な凄荘な場面となり、互いに一言も発し得ず遂に演説会は中止のやむなきに至った。
 これによって一層刺戟を与えたことは、午後までに入会申込者五十名に至った事でもよく判明する。因島宣伝隊は来春を待ちて更に方法をかえ一大組合を組織する考えである。>

 戦後、金正米吉は総同盟会長となり国家公安委員を務めたが、金正会長の下で総同盟総主事だった造船総連の古賀専副委員長から直接聞いた話では、金正会長の国家公安員手当は貧乏所帯だった総同盟事務局員の給料になっていたという。

 
 わが国の労働運動史を紐解けば、こうした先人の艱難辛苦、獅子奮迅の活動に満ちているが、現代においてはもはやこれらの史実は寓話に過ぎないのだろうか。