耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

今は昔の“ストライキの話”~その4

2007-08-25 09:28:29 | Weblog
 【太洋造船労組のストライキ】 ~変電所占拠

 「太洋造船」は「林兼長崎造船」の前身である。1963年「春闘」から「夏季一時金」へと続く長期闘争は、『造船総連史』の中でも特筆すべき闘いだった。当時私は、佐世保重工労働組合の職場執行委員で「前線オルグ」として貴重な体験をした。

 <春から続いている大洋造船労働組合の争議は、いまだに解決の目途が立っていない。
 1963年8月22日私は、その太洋造船本社工場通用門前でスクラムを組んでいた。
 …争議が紛糾の度を深め、会社の強硬な態度と巧妙な戦術に比べ、組合側の脆弱な闘争体制が露呈したため、上部団体の全国造船機械労働組合総連合(造船総連)が急遽傘下組合に支援オルグの動員を指令し、それに応じて佐世保重工労組職場執行委員、代議員総勢70名が応援にかけつけ、全国の傘下組合から派遣されたオルグ約50名と共に早朝6時30分からその通用門でピケを張っているのである。…道路から4㍍ほど八字型に入り込んだ開口4㍍の通用門前でスクラムを組む。門扉はチェーンで外側から固縛され、その直前には数本の孟宗竹で組み立てたバリケードが構築されている。>(拙著『労働組合は死んだ』:<>は以下同書より)

 <争議の直接の原因は、組合からの職員の脱退問題にあった。職員の組合脱退はそれまで動きがなかったわけではない。組合は工員420名、職員170名で構成され、組合代議員は38名中職員は8名で、これでは職員の意向が組合運営に反映されないという不満が内在していた。それが63年の春闘のこじれから表面化したのである。>

 会社の回答額を不満として組合は「残業協定」締結を拒否したが、会社はこれを無視して一部の者に残業・徹夜作業をさせた。組合は会社の不当行為に抗議するとともに悪質な組合員に対し権利停止等の処分を行なった。この処分を不服とする当事者を中心に事務職員による組合結成の動きが表面化、6月3日、ついに脱退者121名によって「職員組合友愛会」が結成される。この組合分裂に会社が関与していたことが判明し、闘争は激化していく。

 クライマックスは「変電所占拠」だった。会社が就労させようとする「職員組合」および下請け労働者約1000名と組合側ピケ隊約600が対峙する状態が、警察機動隊員約200名が見守る中で続いていた。8月22日は朝から雨だった。この日、膠着状態を打開するため会社側は、下請け労働者の剛の者約30名を先頭にピケラインの強行突破をはかったが、組合側に阻止されいったん退却する。この時の衝突で双方に多数の負傷者が出ていた。

 11時頃、小笠原造船総連組織部長がピケ隊の前に現れ、「これ以上負傷者を出すことは許されないので、不本意ながらピケを解いて就労させることになった」と告げた。われわれは事情が飲み込めないまま門扉の前の構築物を撤去し、チェーンを解いて開門させた。これが闘争本部の策略だったのである。約1000名の就労者が構内に入り終わる寸前、待機していた組合員数十名が怒涛のごとく構内に乱入し変電所に突進、占拠してしまったのである。不測の事態に具え見守っていた機動隊も茫然としていた。

 変電所を占拠され、送電をストップされた会社は、ついに強硬姿勢を崩し、話し合い解決を求めてきた。解決をめぐる労使交渉の中で、職員組合結成に会社が手を貸したことを認めて陳謝し、一企業一組合の原則に立ち返り9月30日までに新組織を結成することに合意し、三ヶ月にわたる熾烈な闘いはこうして幕を閉じたのである。

 この争議を指導したのは造船総連副委員長古賀専、組織部長小笠原務、佐世保重工労祖労愛会会長宮本広喜、太洋造船労組委員長宮崎忠八であった。造船総連の機関紙『造船労働』はこの闘いを次のように総括している。

 <こうして太洋労組は延214時間の全面ストライキ・ピケッティングなど文字通り血みどろの闘いの結果、組合の再統一を闘い取ったが、これは極めて高価な代償であり、およそソロバンにあわない闘いであった。
 しかし、太洋の仲間は、労働運動の中で何が一番大切であるかを、はだで感じとっていた。
 巧妙に仕組まれた分裂工作に気づくと、ソロバンをすてて闘いに起ち上がり、炎天のなかで討議し、豪雨にもめげずピケッティングをはり、喜んで徹夜のピケ破りの張り込みもした。この価値ある男たちの闘いが遂に会社を屈服させ、また「職員組合友愛会」の仲間を再統一にふみ切らせたのである。
 今こそ労働者は一体である。このことを闘いが熾烈であっただけに太洋の組合は強く実感としてくみとったに違いない。また、会社は組合に対する不当干渉が、いかに馬鹿げた、、高価なものにつくかを、これまた切実に感じとったであろう。とにかく一日もはやく統一を実現し、労働組合の本来の目的に向かって闘いを進められるよう期待するとともに、佐世保重工労組労愛会をはじめ傘下組合から寄せられた絶大な支援と協力に対し深く敬意を表したい。>


 私にとって「太洋争議」は、労働運動における実地教育となった。こうした体験を積み重ねながら、「労働者の権利}を守る運動が継承されてきたことを忘れたくないのである。