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近世(古代)から現代に至る東灘の歴史を自転車で巡る

2016年03月09日 | 神戸市内サイクリング
前回は神戸西国街道まわり道(西国浜街道)で東灘区の歴史街道をたどってみましたが、今回はまだブログで取り上げていない東灘の歴史にまつわる地石仏、石碑道標等を自転車で巡りました。

「東灘区の紹介」
1950(昭和25)年4月1日、まず御影住吉魚崎の三ヶ町村が神戸市に合併し、ここに東灘区が誕生したのである。そして、半年後の10月10日に残りの本庄本山の両村も合併し、現在の区域になった。(東灘区H.Pより

御影町(郡家、御影、西平野、石屋、東明)
住吉村(住吉)
魚崎町(横屋、魚崎)
本山村(森、中野、小路、北畑、田辺、岡本、田中、野寄)
本庄村(深江、青木、西青木)




─線は明治22年以降の行政町村界、…線は江戸時代以来の村境。


最初は国道2号線沿いにある国道地蔵。  場所は宮地病院東側、 東神戸センタービル向え。


国道の交通安全の為昭和7年1月に開眼した巨大地蔵ですが、阪神大震災で地蔵のみ建て替えられました。


奥には一石五輪塔


ここから保久良神社へと続く細い路地の阪急電鉄踏切を上ります。


坂道を上っていく途中右側に西光寺があります。


境内にはキリシタン灯籠があります。


一石五輪塔や石仏など寄り集まっている中の左手前2番目がキリシタン灯籠。


青木から移されたかくれキリシタン遺物で竿の部分が十字架状マリア観音立像が浮彫りされています。


次は踏切へ下り西へ走ると旧東灘図書館で今はプラザ本山(市民図書室)。


そこが旧本山村役場があった場所。


本山村村章は本山を図案化したものです。


ちなみに西国浜街道の時に撮影した旧本庄村役場跡。


石碑にも刻まれていますが本庄村村章は本庄を図案化したものです。


次は更に西へ走り田中町5丁目の四つ辻にあるくび地蔵。(コープ生活文化センターがある東側)


旧西国街道(本街道)筋で自分達もよく通る道です。再建前は高さ60cmの赤ら顔でした。


古い石碑には花松くびぢぞう尊と刻まれています。


ここは天上川筋の北青木4(西青木)にある春日神社です。


そこには昭和13年阪神大水害の記念碑があります。78年前ですね。


この後は住吉川の右岸側を北へ上り、甲南小学校の北東角には細雪の石碑があります。


細雪にも書かれている昭和13年の阪神大水害それは7月5日のこと。
何度も紹介している谷崎潤一郎の旧宅「倚松庵」がここより南の反高林(住吉東1)にあります。


ここは水道橋を過ぎた所の住吉学園です(一般財団法人)住吉だけの共有財産を管理しています。
正門から玄関までは住吉の山から切り出された本御影石が敷き詰められています。

住吉学園の園章にもなってるのが旧住吉村村章です。空襲で役場が焼失した戦後は住吉幼稚園舎が村役場となっていました。
住吉村村章ひらがなの「す」を図案化したものです。

園内には阪神大水害で流されてきた巨岩(30t)をそのまま流石碑として記念してあります。
碑の高さが出水時の高さ(3m近い)を示してあります。
台座には7月5日午前9時30分連日の降雨に加えるに朝来に一大豪雨は六甲背山を削りて見るも恐ろしき山津波を起こし住吉川畔一帯を・・・と刻まれています。


ここから新落合橋を右折してヘルマンハイツへ走ります。
道なりがヘルマンハイツへの坂道ですが左の公園で止まります。


清流の道公園です。住吉川のジョギングコースは清流の道として慕われています。私はウォーキングだけです♪




奥へと自転車を押して進みます。


突当りの小高い岸辺には何かの石仏が見えます。向う岸には白鶴美術館が見えますね。


階段を上り更に裏から石段を上ります。


そこには行者石像があります。舟形の自然石を円形に彫り込んであります。


像高70cmの浮彫りで修験道の修行場として利用され、役の行者石像を建立(大正3年)した信仰の地だったそうです。


下の方では相方さんが待っています。


ここは住吉山手3の山田公園向いの柿の木地蔵です。


高さ80cm舟形、円光背のある地蔵立像です。そばには柿の木があるので呼ばれたそうです。


地蔵立像は再建されて新しいのですが台座は建立時のもので地蔵正面の台座には「日本廻国 本願主小田原定吉」と刻まれています。


左側には嘉永六年丑正月廿二日(1853年)と刻まれています。


右側には村安全 往来安全 嘉十郎と刻まれています。


ここの白鶴美術館前を左へ行きます。


西隣には徳本上人(とくほんしょうにん)の遺品・遺墨が多く残されているゆかりの浄土宗、上人山徳本寺があります。


境内。


徳本上人名号石塔です。六角で182cmの高さで徳本上人独特の蔦名号の字体で「南無阿弥陀佛」と六字名号が刻まれています。


塔の前には親王寄進菊花紋の入った灯籠です。


横には火伏地蔵があり火災よけとして住吉村の人々に信仰されていました。(元は赤塚山公園の祀られていたそうです)


本堂の前には伽藍の守護神、多聞天立像が安置してあります。


石像高60cm丸彫で鎧を付けた武人姿をしています。手には宝塔と剣を持って足下には邪鬼を踏みつけています。


更にここから激坂を上っていくと赤塚山には徳本上人座禅跡がありますが、余りにも超激坂(1度上りました)なので別ルートで行きたいと思います。


白鶴美術館脇の住吉川を北上し落合橋を右折します。
右折した直ぐに阪神大水害の水災紀念碑があります。(右 有馬道 左 六甲道)


まだ昭和30年頃までは記を紀と表記していたんですね。


台座の右脇に最高時の洪水水位が刻まれていますが、すでにここはかなりの高台なんです。


高水出時当と刻まれています。


久々にこの住吉道(有馬道)をMTBで上ります。
甲南斎場を過ぎ、ハイカーの方だったら誰でも横を歩く石材店。


そこの清流です。


住吉道(有馬道)と住吉台(荒神山)の分岐は住吉台へ上ります。急坂を上るとここが荒神山だったことが分かる住宅名や墓地があります。


ここから一気に下って赤塚橋へ。

赤塚橋から赤塚山(住吉山手5)へ上ります。元赤塚高校があった所で今は神大の学生宿舎。
そこから甲南病院の方へ下りかけると直ぐに徳本上人座禅跡があります。先っきの徳本寺からの超激坂を回避した場所です♪


徳本上人は絶する様な荒修行を行い南無阿弥陀佛を唱えて日本全土を行脚して村民を救った行者なのです。

この地で3年間村人の教化に努めたので赤塚山を上人山(しょうにんやま)と呼んだそうです。

更に下って深田池へ下りず千鳥橋から天神川橋へ。


そこから住吉山手4の大邸宅筋を南下します。
芦屋の六麓荘町なんて話にならないくらいの歴史がある大邸宅がいくつもあります。(惨めになるので写真割愛)。
呆れるくらい巨大な石塀や石積み門が続く路地から

山田にある灘目の水車へ。だいぶ水苔が付いて貫禄が出てきました。


江戸時代には88基の水車が廻り水車産業として灘の酒造り等を支えていました。


灘目の水車には道標がありました。左リ妙見山道と思われます。


妙見山は赤塚山の妙見宮のことだと思われます。


今度は住吉中学校西側の小林墓地へ。墓地の北入り口にある石仏。


墓地六地蔵です。文禄三年(1594年)ですよ。


右側から二地蔵づつアップ。


中央二地蔵。


左二地蔵。


そこから今度は南東の踏切に位置する小林墓地へ。




階段正面には沢山の地蔵がありますが・・


目的は階段右横の地蔵さんです。


この合掌供養地蔵です。


舟形の自然石に合掌した供養地蔵が浮彫りされています。


ここの踏切は有馬道にあたっています。
明治7年に住吉駅ができたことでこれまでの魚屋道より住吉川沿い(有馬道)が使われだしたのです。


踏切から有馬道を下ると大きな松が。


庚申塚(こうしんづか)。庚申(かのえ・さる)


前方後円墳の後円部のみ残っています。


塚の上には石碑、南無聖面金剛童子と刻まれています。


道筋にこれは何だろうか?


三叉路には道標。


極楽橋跡  右モ左モ有馬道


更に有馬道を下ってJR住吉駅より北西に位置する阿弥陀寺です。


阿弥陀寺の境内には自然石に徳本上人独特の蔦名号の字体で、光背大衣(だいえ)が線彫りで描かれています。
徳本上人の名号碑


境内には昭和20年8月の空襲で焼けた木がありました。


さらに下って本住吉神社東側には起点の有馬道 是ヨリ北江 九十丁と刻まれた道標です。


ちなみにこれは西国浜街道ポタの際に撮った道標。国道43号線の東御影交差点の北側。
是ヨリ徳本上人石碑 十八丁と刻まれている(左は すぐ大坂道)(裏には すぐ兵庫)。
浜街道から赤塚山の徳本上人名号碑への道を教えている道標です。)

これから大きく移動します。
ここは阪急御影駅北側の深田池、甲南病院へ上る激坂が九重ケ坂(くえがさか)と呼ばれています。 ここのトイレで休憩です。


先ほど走った千鳥橋と天神川橋の地図板がありました。


阪急御影駅の北側駅前広場。


そこに(御影城趾)の石碑があります。平野城趾は今の御影北小学校一帯に存在したらしいです。


広場には御影町町章のマンホールがあります。御影公会堂の裏にも一つありますね。


ここは平野城址があったと思われる御影北小学校の門に貼られた校章です。


これが御影町町章です。古歌によく歌われた「御影の松」にちなんで、三本の松葉を図案化したものです。

ここから石屋川へ走ります。


ここが明治7年石屋川鉄道トンネルだった所。現在は車道として利用されています。


東側から見たトンネル。灘百選のプレートもありました。


当時の写真が掲示してあります。日本最初の鉄道トンネルだったんです。


そんなんで石屋川は天井川になっています。
線路はトンネルではなく現在高架に変わりました。
同じ頃造られた芦屋川と住吉川は同じ天井川のトンネルで現在も川下を線路が走っています。


ここ石屋川を南へ走ると阪神石屋川駅にたどり着きます。
駅の北側には理性院のお寺があります。石屋川ゆきの大師と言われた寺院。


境内には四国八十八ヶ所の霊場があります。平成七年の震災で再建されていました。


第一番から八十八番までずらりと並んだ浮彫り石仏です。


その中で・・・


第九番だけ沙羅双樹の下で身を横たえねはん石仏像があります。


ここの寺院は桜紋です。


最後は旧魚崎町役場


今は児童館や区民センター小ホール福祉センターとして活用されています。




魚崎町町章は五百崎の「五百」を図案化したものです。


目の前には魚崎小学校があります。




この魚崎小学校は
旧魚崎町役場(東灘区民センター小ホール)御影公会堂甲南漬資料館と同じ清水栄二氏の設計で最も古い昭和5年の校舎です。


朝ドラ「ええにょぼ」の舞台にもなっています。


ここも町章を取り入れた校章です。(正面扉門から)

自転車を漕いでいる時間より見学時間の方が殆どでした。

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