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あちらこちら文学散歩 - 井本元義 -

井本元義の気ままな文学散歩の記録です。

№134 その一 福岡市 東公園 

2021-06-02 13:09:19 | 日記
少年の頃受けた印象、感銘は小さなものでも60年、70年残っているものがある。それは気が付かないものでも、振り返ると大きな影響を人生に与えていたのだ。
自宅の裏に、東公園があった。調べると、国の所有で明治の初めからあったようだ。戦前は劇場や、動物園もあったらしい。昔は白砂青松の地である。今はその四分の一ほどを県庁の庁舎と県警本部が占めている。これは1970年年代中頃に出来た。
この公園で遊んだ、小学校の六年間を今思い起こすと、それが僕の人生の深い底になにかをのこしいてるのに改めて感じる。広いなんでもある自由な美しい公園だった。
自宅は2階建てだったので、そこからは公園全体が見渡せ、遠くの山や、板付の飛行場に下りる飛行機なども見えた。公園には弓道場、テニスコート、警察体育館、県立図書館、ザビエル記念館、藤棚、松林、池、噴水、警察や消防の殉教者慰霊碑、十日恵比寿神社、野球場、亀山上皇、日蓮上人の銅像と寺、元寇記念館、僕の通う小学校があった。
小学校の横には、鉄条網に囲まれた、昔の料亭が進駐軍の拠点になっていて、鉄砲を持った兵士が犬を連れて見回っていた。公園の隅には、米軍専用のキャバレーもあった。朝鮮戦争の頃だったのだろう。
学校の恵比寿神社側には、花庭園があって、忍び込むと園丁から叱られた。あれは市営か何かだったのだろう。
野球場では野球の西鉄の二軍選手も練習していた。有名な稲尾選手の全盛の頃だった。
また相撲の九州場所が始まっていたのかどうか、巡業だったのか、相撲取りの下っ端と野球をしたりした。相撲部屋に潜り込んで見に行くと叱られて、出て行くときに一人ずつ軽い拳骨を食らった。
ザビエル記念館は、教会ではなかったが、牧師たちが少年たちの世話をしていろんな催しをしてくれた。
大きな池が二つあった。一つは瓢箪池といって、傾斜面が草になっていた。一人で遊んでいた僕は思いついて、草スキーを楽しもうとした。が、勢い余って池に落ちた。かろうじて助かったが、そうやって命を落とす子供もたくさんいただろう。子供たちは誰にも面倒を見てもらえず遊んでいたのだから。全身濡れてたたずむ僕に、遠くから他校の子供が石を投げて行った。わびしい、悲しい夕方だった。もう一つの池は、ボール投げで遊んでいた時、池に落ちたボールを拾おうとしたら、石の下から人間の指が浮かんできたのには驚いた。石の重しに沈められた死体だった。強盗に金を盗られた人だったらしい。
松林では、気のふれた若い男が見えない敵と戦っていた。通りかかりの大人たちが、自転車を止めて暇つぶしに見ていた。
藤棚は古い大きな根を持って初夏には沢山の花をぶら下げた。
警察や消防の殉教者の慰霊費には夏休みになると、僕らは毎朝掃除に行った。無理に引き継がされた行事だったが、休みが終わると警察から褒美がもらえた。
空き地は野球が定番だった。草むらも多かった。僕らはまだ裸足だった。ある日、草原で右足裏をガラスで切った。痛くはなく、しびれた。近くの病院で縫ってもらったが、70年経った今でも痺れは残っている。そのあとまた、今度は左足を切った。血が大量に流れたが、経験があったので慌てなかった。これは数針縫った。あとは残っている。
喧嘩はあまりしなかったように思う。一度誰かが、草を焼いて遊ぼうと言った。僕も仲間にいたが、たまたま傍にいた姉がやさしく、ねえ帰ろうよ、と言ってくれて参加しなかった。あとはどうなったか知らない。思い出すときりがない。
一人で、絵を描いていたことも多い。寝転んで、空ばかり見ていたことも。いろいろ思い出すときりはない。些細なことも、すべてを覚えているようだ。涙が誘われることもある。
小学校へは必ず公園を抜けていくので、公園は日々の一つだったので6年間は公園と共に過ごしたと言っても過言ではない。そうか一度喧嘩して相手の家へ母と謝りに行ったこともある。公園の管理人だったのだろう。その家は公園の中にあった。その家まで、埃っぽい道、垣根、草むら、すべてを思い出す。
そのあたりを思い出すと、小さな子の自転車を無理やりに借りて遊んだ後、その子に返すのを忘れていたのを、数年たって思い出したこともある。いや数十年後だったかもしれない。その頃の自宅や、情景を思い出すと、今の現在の状況が分からなくなる。今現在の情景が浮かばなくて、70年前の方が印象が深く浮かぶ。そして一つ一つが鮮明だ。
ある時、一人の青年、大学生だったろうか、淋しそうな顔でベンチに座っていた。僕も一人だったので、彼は僕に話しかけた。僕は詩を書いているんだ、と彼は言った。そして見せてくれた。自分の不幸は、どうして次々に起こるのだろう、まるで、糸車の糸が切れ目なく続くように・・・。だったと思う。そして、自分の破れたシャツを見せて、君の家から針と糸を少し持って来て切れないか、と言った。僕は急いで家に帰り、母親には黙って針と糸を持って公園に戻った。彼は喜んで自分で破れたシャツを縫っていた。あれは僕が人生で最初に読んだ詩だったのだ。僕はなぜ今もそのことを覚えているのか。70年の間も。










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