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パナマ運河

2016-08-03 06:15:09 | 日記

2016年6月27日、パナマ運河の拡張工事が完成した記念式典が行われました。1914年に開通したパナマ運河は、船舶の大型化や通行量の増大に対応するため、2007年から既設の航路に併設する新たな航路の工事が行われてきました。

この結果、航行できる船の幅がおよそ17m広がり、全長366m、幅49mまでの超大型船の通過が可能になり、これまでの2倍の通航量が見込めることになりました。

パナマ運河の構想は、大西洋と太平洋との間の狭い地峡の存在が発見された直後からありました。1534年スペインのカルロス1世が調査を命じましたが、当時の技術力では建設は不可能で、運河の開通は400年後になります。

パナマ運河の規模は全長約80km、アメリカの手によって10年の歳月をかけて1914年に開通しました。1999年12月31日パナマに返還されるまで長らくアメリカが管理していましたが、現在はパナマ政府の運河庁に移行しています。2002年の年間通航船舶数は13,185隻、通航総貨物量は1億8,782万トンでした。

19世紀半ばの米墨(アメリカ・メキシコ)戦争カリフォルニア州を獲得して以降、アメリカで両大洋間の連絡手段を求める声が強まりました。地峡部の横断鉄道の建設は1850年に始まり、1万2千人を超える労働者の死者を出しましたが、1855年1月28日両大洋岸を結ぶ最初の鉄道が開通しました。

鉄道と運河は極めて近くを並走し、鉄道は運河の建設に大きく寄与しました。線路の一部は運河建設のために接収やルートの変更が行われ、パナマ鉄道の再構築工事は1912年に完了しました。

パナマ運河に最初に着工したのは、スエズ運河建設者のレセップスです。レセップスはパナマ地峡に海面式運河の建設を計画し、パナマ運河会社を設立して資金を募りました。当時この地を支配していたコロンビア共和国から運河建設権を購入し、フランスの主導で1880年1月1日に建設を開始しましたが、黄熱病の蔓延や工事の技術的問題と資金調達の難航で、1889年にスエズ運河会社は倒産し計画は破棄されました。

アメリカにとっては両洋間を結ぶ運河は経済的にも軍事的にも重要で、その後アメリカによって運河建設は進められることになりました。パナマ地峡はコロンビア領であったため、アメリカは運河を自らの管轄下におくべく1903年1月に、コロンビアとの間でヘイ・エルラン条約を結びましたが、コロンビア議会は批准しませんでした。

1903年11月3日自治権を持つこの地域は、パナマ共和国としてコロンビアから独立を宣言します。アメリカは10日後の11月13日に独立を承認し、11月18日にはパナマ運河条約を結び、運河の建設権と関連地区の永久租借権を取得して工事に着手しました。

当初パナマ資本で工事が始まりましたが工事は遅々として進まず、海面式運河にするか閘門式(こうもんしき)運河にするかの建設計画さえ決りませんでした。1904年5月にアメリカ資本による建設事業がスタートします。

1905年に着任した主任技師スティーブンスはマラリア黄熱病の感染を防ぐ蚊の駆除に尽力し、福利厚生にも気を配り労働環境は整ったものになりました。スティーブンスは閘門式運河を採用する結論を下しましたが、精神的に疲労して1907年に退職、後任にはゲーサルスが就任しました。

ゲーサルスは労働者の不満を吸い上げる自由面接制度を整え、工事週報の発刊で労働者たちにも工事の進捗状況を分からせ、工事を地域別に分けて競争意識をあおったため、工事のテンポは格段に早くなりました。

1910年にはガトゥンダムが完成し、1913年にはダムが満水となってガトゥン湖が誕生しました。一番の難工事だった山間部のクレブラ・カットの開削も完了し、パナマ運河は予定より2年早く、1914年8月15日に開通しました。運河収入はパナマに、運河地帯の施政権と運河の管理権はアメリカに帰属しました。

パナマ運河は、南北アメリカ大陸を繋ぐ地峡がもっとも狭い場所につくられましたが、岩山が多く海抜95m以上ありました。運河は大西洋側のガトゥン閘門、ガトゥン湖、クレブラ・カット及び太平洋側のミラフローレス閘門とペドロ・ミゲル閘門から構成されています。

パナマ運河は、船舶が出入する扉付きの閘門システムを利用しています。閘門はいわば水のエレベーターの役割を持ち、船舶を大西洋または太平洋の海面レベルから海抜26mのガトゥン湖の高さまで上昇させます。船舶はその高さでガトゥン湖及びパナマ中央山脈を横切るクレブラ・カットを縦断します。 

階段状の閘門のチェンバーは幅33.53m、長さ304.8mあります。それに応じてパナマ運河の通過を望む船舶の大きさは、幅32.3m、長さ294.1mに規制されてパナマックスサイズと云われます。船舶の運河水域に滞在する平均時間は約24時間で、運河通過時間は8~10時間です。 

カリブ海からきた船は、コロンでパナマ運河へ進入します。コロンはカリブ海有数の港で、コロン自由貿易地域やラテンアメリカ最大のコンテナ港であるマンサニージョ港があり、パナマ地峡鉄道の起点もあります。

コロンを過ぎるとすぐにガトゥン閘門にぶつかり、ここには閘室が3つあって、船は海面から一気に26m上昇します。ガトゥン閘門の最後の閘室を抜けると、パナマ運河の最高地点である海抜26mのガトゥン湖です。

ガトゥン湖はカリブ海側に流れるチャグレス川をせき止めた人造湖で、かつての山頂や尾根が半島や島として点在します。ガトゥン湖を抜けると、クレブラ・カットと呼ばれる切り通しへ入ります。

ここは両洋の分水嶺にあたり、地質がもろいため崖崩れが起きやすく、運河建設時の最難関現場となった区間です。現在では度重なる崖崩れに対処するため側面がコンクリートで固められ、大幅に拡張されてパナマックス船のすれ違いが可能になっています。

クレブラ・カットを過ぎると1閘室のみのペドロ・ミゲル閘門があり、ここでやや高度を下げてミラフローレス湖へと入ります。この先には2閘室あるミラフローレス閘門があって、ここで船は完全に太平洋の海面へと高度を下げます。ミラフローレス閘門を過ぎてすぐにバルボア市がありますが、ここはパナマ運河の太平洋口で、パナマ地峡鉄道の終着駅やバルボア港があります。

パナマ独立時の条約によって、運河地帯両岸の永久租借地にはアメリカの軍事施設がおかれ、アメリカ政府はパナマに有形無形の干渉を続けていましたが、第二次世界大戦後にパナマの民族主義が高まり運河返還を求める声が強くなりました。

1968年の軍事クーデター後のトリホス政権は国粋主義的で、運河の完全返還を強く主張するようになりました。1977年新パナマ運河条約が締結され、運河および運河地帯の施政権は1999年12月31日にパナマへ返還されます。

パナマ運河の通航料は、船種や船舶の積載量、トン数や全長など船舶の大きさに基づきパナマ運河庁が定めています。1トンにつき1ドル39セント、平均で54,000ドルです。かつてアメリカ政府がパナマ運河を管轄していた時代には、運河通航料はスエズ運河と比べても非常に低く抑えられていました。

これに対して運河を受け継いだパナマ政府は利益の極大化方針を打ち出し、2000年以降、年3.5%の値上げを20年間継続する方針を打ち出しました。返還初年である2000年の運河収入は1億6,680万ドルにのぼり、近年は船舶の大型化による通航料の最高額更新が続いています。2008年2月24日には豪華客船「Norwegian Jade号」が313,000ドル以上を支払いました。

今回の運河拡張計画は通航量の増大や船舶の大型化の流れを受けて、2006年4月にパナマ運河庁から提案され、10月に国民投票により実施されることが決定したものです。総事業費52億5千万ドルで2007年9月3日に着工しました。

この拡張計画では、大西洋側のガトゥン閘門に並行して3閘室の閘門を新設、太平洋側の1閘室のペドロ・ミゲル閘門と2閘室のミラフローレス閘門をショートカットする形で3閘室の閘門を新設するものです。

ガトゥン湖からクレブラ・カットにかけては既設の運河をそのまま使用しますが、通行量の増大が予想されるため浚渫や拡張を行い、2年の工期の遅れはありましたが、2016年5月31日に竣工し6月26日に完成式典を行い運用を開始しました。

拡張工事の完成によって既存の往復2レーン(閘門サイズ:長さ320m、幅33.5m、深さ25.9m 、最浅部で12.55m)に加え、第3レーン(閘門サイズ:長さ427m、幅55m、深さ18.3m)を併せた3つの航路が通行できるようになりました。パナマ運河を通過できる船の最大のサイズは拡張工事完成後、長さ366m、幅49m、深さ15mとなり、通過可能な船舶の範囲が大幅に拡大しました。

1914年の開通当時、この運河を最もよく利用したのはアメリカついでイギリスで、他国の利用はわずかでした。1960年代以降、日本が経済的に台頭して急速に利用を拡大し、アメリカに次ぐ利用国になりました。

21世紀に入ると中国はじめ東南アジア諸国の経済成長とともに利用が急速に拡大し、2003年には太平洋から大西洋への輸送貨物で中国が第1位となり、南米太平洋沿岸諸国の利用も急拡大して2位がチリ、4位がエクアドルとなって、日本は6位まで後退しました。今後の大西洋から太平洋への貨物輸送では、我が国にとってはパナマ運河経由の石油、LNGの輸入に貢献しそうです。

パナマ共和国はパナマ運河計画によって成立した国ですが、経済的にもその他の面でも運河に多くを負っています。この運河沿いには研究施設や観光施設が相次いで建設され、ガトゥン湖畔には2つのリゾートホテルが建設されて運河の風景と熱帯の自然を楽しめるようになりました。

現在、海を越えての世界各国間の人の移動は航空機に限られ、外洋を航行する客船は姿を消しましたが、パナマ運河は、今後、船旅そのものを楽しむ豪華クルーザーの観光ルートにも組み込まれると云われています。

 

 

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