滅多な事では人に「落語が趣味です」なんて言わないようには心がけているが、それでもやっぱり、思わず告白してしまう事がある。(最近は多いような気も)
そんな時、たまに「それはまた高尚な趣味ですね」なんて言われると、本当に困ってしまう。
落語=高尚というのは大きな考え違いのように思う。その考え違いの源は夏目漱石の3代目小さん天才論であり、安藤鶴夫などによる作品主義にあるのだろう。確かに高尚な一面も備えてはいるが、あくまで一面。奥深いものではあるが落語=高尚というのは違うと思う。
しかし、名だたる文豪たちは寄席や芸事と意外なほど縁が深い。
朝寝坊むらくに入門までしてしまった永井荷風。
それが「名門に生を受けた青年の重圧からの逃避であり、過剰な通俗性への傾斜は名門出のコンプレックスの裏返しに見える」
このようなエッセイを好んで読もうとするのは当方の文学へのコンプレックスか?
登場24人の文人達の中でまともに作品を読んだのはわずかに9名。
「名作の中の芸能」に至っては32作品中、太宰治の「家庭の幸福」島崎藤村の「夜明け前」のわずか2作品しか読んでいない。
こちらのエッセイは芸能を広く扱っていてラジオの街頭録音の話題の「家庭の幸福」-太宰の破滅的なところにすっかりハマって読み漁った若き日が懐かしかった。
エッセイとしてとても楽しめる。文人の最期でまとめる一文の余韻は山田風太郎の「人間臨終図巻」にも通じるか・・・
そんな時、たまに「それはまた高尚な趣味ですね」なんて言われると、本当に困ってしまう。
落語=高尚というのは大きな考え違いのように思う。その考え違いの源は夏目漱石の3代目小さん天才論であり、安藤鶴夫などによる作品主義にあるのだろう。確かに高尚な一面も備えてはいるが、あくまで一面。奥深いものではあるが落語=高尚というのは違うと思う。
しかし、名だたる文豪たちは寄席や芸事と意外なほど縁が深い。
朝寝坊むらくに入門までしてしまった永井荷風。
それが「名門に生を受けた青年の重圧からの逃避であり、過剰な通俗性への傾斜は名門出のコンプレックスの裏返しに見える」
このようなエッセイを好んで読もうとするのは当方の文学へのコンプレックスか?
登場24人の文人達の中でまともに作品を読んだのはわずかに9名。
「名作の中の芸能」に至っては32作品中、太宰治の「家庭の幸福」島崎藤村の「夜明け前」のわずか2作品しか読んでいない。
こちらのエッセイは芸能を広く扱っていてラジオの街頭録音の話題の「家庭の幸福」-太宰の破滅的なところにすっかりハマって読み漁った若き日が懐かしかった。
エッセイとしてとても楽しめる。文人の最期でまとめる一文の余韻は山田風太郎の「人間臨終図巻」にも通じるか・・・
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