古代日本の歴史を謎解き

パソコンが故障して、パスワードが分からず
旧ブログから引っ越しです。

古代(卑弥呼の死後~古墳時代)の日本の姿(多分??)

2020-06-20 19:53:16 | 歴史
ここまで、魏志倭人伝に加えて
鉄剣・鉄刀に刻まれた銘文などから
地名に使われた漢字の普及を考えて
卑弥呼の死後(空白の四世紀)の日本の姿を想像してみます。
※前提として「古事記」などに登場する日本神話や神功皇后などは
 魏志倭人伝など大陸の史記の内容を巧妙に取り入れてある。


・漢の時代より、博多湾周辺には奴国などの国があり大陸と交易
「漢委奴国王」の金などが贈られた。(実際に金印が発見されています)
・倭国大乱(玄界灘側の国々の争い)の結果、力を付けたのは有明海側に住む卑弥呼
 邪馬台国が九州北部の信頼を集める。
・327年(或いは328年)卑弥呼が亡くなり、男王が立つが国まとまらず。
 男王は、狗奴国の卑弥弓呼ではないか。
・新女王に卑弥呼の宗女 台与 がなり九州北部が一つにまとまる。
 この時、国名を 筑紫と変えた(政張らの勧めもあった)
※この時代、出雲も イズモ と漢字の国名はなかった。
 近畿にも ヤマト と云う国はなかった。
 アスカ と国が会ったかもしれない。
・265年 魏が滅び、大陸が乱れる。
 政張らや台与の影響力が無くなる。
 台与は政張らを国の返し、自らも筑紫の土地を離れる。
 百済と交易を持つ筑紫で 筑紫一族と名乗る。
・この時ぐらいに、イズモも国名に 出雲を使い始める。
・台与の一族は、豊国(トヨ国) 或いは 肥国に近い高千穂へ移住する。
 ※天孫降臨の神話となる。
  ニニギは台与の国の男王、台与は、その国の祈祷師を務めた。
  ニニギら一行と天孫降臨したメンバーで女性は アメノウズメ一人(彼女が台与では)
  現在の神社でも、巫女と云う若い女性が存在しています。
  13歳の女王 台与 の影響ではないでしょうか。
・ニニギらの子孫は肥国(日向)で国づくりを行う
・元々移住者であったニニギらの子孫(磐余彦ら兄弟)は日向を離れる。
 ※古墳時代中期(空白の四世紀)
・たどり着いたときは近畿(大阪湾)、しかし既に美能那賀須泥毘古(ナガスネビコ)の国があった。
・磐余彦は争いに敗北、和歌山方面から上陸、奈良の土地で新しい国づくりを始めた。
 ※神武東征の神話
  この時、まだ近畿にはヤマトと云う国名はなかった。
・磐余彦の子孫は力をつけて、ナガスネビコの国を征伐、近畿をまとめる。
 既に筑紫、出雲には朝鮮半島から移住者がいて、その後に移住した一族に仕事を与えた。
・大陸の史記「魏志倭人伝」などを知る事となる。
 ※古墳時代後期では?
 自らの祖先が邪馬台国ではないか、日本の総称は 倭 であった事も知る。
・近畿の国の名前を倭 と云う漢字を使い 邪馬台国のヤマトと呼ぶ
・倭の漢字の意味がふさわしくないと知り漢字を和と変えるが
 氏姓制度で漢字二文字を国名にするしきたりから 大和 の漢字に変える。
・527年の筑紫磐井に乱までは大和朝廷も筑紫を支配してはいない。
 筑紫は勝手に朝鮮半島(百済)と交易を行っていた。
 朝鮮半島へ出兵していた倭の五王(400年代)は築地の地族である。
・以後は「古事記」「日本書紀」に登場する蘇我氏、聖徳太子らの出来事は実施に近い。
 蘇我氏VS物部氏の争いなどは既に漢字が伝わった時代の出来事で事実が書き残されていた。
・平安時代に作成された「古事記」「日本書紀」は巧みに大陸の歴史書「魏志倭人伝」や
 倭の五王などを組み入れた。
 仁徳天皇~武烈天皇を和の五王に合わせて兄弟にした。
 ※百舌鳥古墳群にある大仙陵古墳が仁徳天皇らの古墳であるなら
  朝鮮半島へ出兵するまで余裕があっただろうか?
  百舌鳥古墳群の古墳は当然全編案時代にも知られていたので
  天皇家の古墳として話を進めざるをえない。

神武東征(卑弥呼の国の一族)が事実かどうかは疑わしい所です。
平安時代の「古事記」の作者が魏志倭人伝を読んで
邪馬台国は九州であったと確信したことは事実で
それに合わせて日本神話を作り上げています。
神武天皇即位を紀元前600年
ニニギの天孫降臨を1700万年以上前に設定したことで
大陸の歴史書と大きな食い違いが産まれ
「日本書紀」では神功皇后の説明に「史曰く」と注釈を加えて
魏志倭人伝の卑弥呼に合わせようとしています。
男子血統の天皇家の始まりが女性の天照大神の設定も不思議です。
天照大神のモデルは卑弥呼で間違いないでしょう。
仏教伝来(聖徳太子の時代)後、神仏習合の時代があり
仏教の大日如来 = 天照大神の時代もありました。
大日如来様はお釈迦様より先に悟りを開き、万物創世の神様です。

日本神話の天照大神になって、少し核が落ちたような気がします。
以上が私が考える卑弥呼の死後の日本の姿ですが、如何でしょうか。

古代の漢字の使い方(人名)

2020-06-20 17:23:09 | 歴史
前の投稿で、地名に使われた漢字の使い方を紹介しましたが
続いて、人名について考えてみます。
魏志倭人伝に登場する
邪馬台国の女王  卑弥呼 <= ヒミコ
敵国狗奴国の男王 卑弥弓呼<= ヒミヒコ
ヒミコ、ヒミヒコと云う呼び名があって大陸人が勝手に当て字にしたものです。
ヒミ が王(?)或いは祈祷師(?)
コ  が女性、ヒコが男性(?)
現在でも 〇〇子 女性 〇〇彦 男性の名前はありますが
明治になって、天皇中心の時代に古代の印象から始まった物でしょう。

鉄剣・鉄刀に刻まれた名前(銘文)は5世紀後半

それでも
ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ・・・
乎獲居臣。 上祖名  意富比垝・・・
ワカタケル(クヮクカタキル)の大王の寺
獲加多支鹵大王
かなり難しい漢字を 読み一期に対して漢字一つです。
鉄製の刀に刻まれた文字ですので
大陸から呼び寄せた刀鍛冶や彫金を行う技術者に漢字を充ててもらったのでしょう。
527年に起きた 筑紫磐井の乱 ですが
筑紫と云う一族の氏(現在の苗字) と 磐(或いは 磐井)と云う名前が使われてます。
この数十年の間に、自ら(親)が漢字で名前も決める習慣が出来ています。

「古事記」「日本書紀」に登場する初代天皇 神武天皇も
神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと)
彦火火出見(ひこほほでみ) など多数の呼び名漢字にしています。
かむやまといわれびこのすめらみこと の いわれびこ(磐余彦)以外は後に加えられた文字でしょう。
現在に、この様な難しい名前を持つ人はいません。
地名は一度決めたら代々続きますが
名前は時と共に変わりますので、古代の風習を残した人名はないのでしょう。

生まれた子供に漢字で意味ある名前をつけるは、地名より後の様です。
大和朝廷が始めたとされる氏姓制度(古墳時代?)
朝廷に使える一族に氏名が与えられます。
大伴氏、物部氏、海部氏など朝廷に対する役職などに応じて氏(ウジ)が与えられたようです。
一方、筑紫などは既に地名に漢字を使っていて、朝廷はそのまま、筑紫氏と云う氏名で呼んでいます。

平安時代には、源頼朝、平清盛など苗字と名前を意味狩る感じで名乗っています。
自ら親が子供の名前を漢字で決める時代になっています。
それでも、かなり力があり歴史のある一族か、その分家に当る人のみです。
一般の人が感じで名前を持つのは歴史的にはかなり後の事です。

古代の漢字の普及は
・古墳時代(多分、古墳初期) 筑紫など国名に漢字を使い始めた。
・古墳時代(多分、中期、後期)に、氏の名前に 漢字を使い始めた。
     これが氏姓制度の始まり。大和朝廷は天皇に仕える一族に一族に氏名を与えた。
     これが始まりで、有力な一族が氏名(苗字)を名乗るようになった。
・飛鳥時代 大陸から仏教が伝わり漢字も普及した。
・平安時代 漢字の他に ひらがな が出来て、清張納言など作家も活躍する。
漢字の普及は 地名 =>氏名(一族の名前:苗字) =>書物 までは
数百年の歴史を過ごしています。

古代の漢字の使い方には 二種類がある(地名)

2020-06-20 15:00:04 | 歴史
魏志倭人伝も「古事記」なども文書による伝達なので漢字が使われています。
その漢字の使い方にも歴史が含まれているのです。
弥生時代(卑弥呼の時代)の漢字の使い方
当時に倭国には漢字が無くて、呼び名だけで人名、地名(国名)を決めていました。
魏志倭人伝に登場する30国
奴国や投馬国、邪馬台国などやつまびらかに出来ない小国の地名(国名)
当時の倭人が読んだ言葉を大陸人が漢字の読みを使って当て字で表現しています。
卑弥呼や卑弥呼の贈物を大陸へ運んだ倭国の役人(?)大夫の 難升米(なしめ)等の人名も同じです。
当時、自らが な(奴国)と呼んだ国があり
ヒミコ や ナシメ と自称する人物がいたことは事実です。
当時の地名(組名)、人名をそのままに、漢字の読みにあてはめて使った時代です。
これが最初のの漢字の使い方です。

先に紹介した弥生時代の終焉と共に、これらの国々の名前が変わります。
九州には、筑紫と云う国が登場します。
日本神話の国産みでは
九州は 筑紫国 となって、四つの顔がある。
築地、豊国、肥国、熊襲国 です。
ヤマトタケルは熊襲征伐を行っていますので、筑紫とは友好的(?)
飛鳥時代には、九州は 筑紫て統一されていたのでしょう。
熊襲国の漢字はちょっといただけませんが、筑紫などは明らかに漢字の意味を考えて付けた名前です。
当時の宝飾品の遺品の分布です。

明らかに博多湾から有明海の地域に強大な権力を有する国 筑紫があり
朝鮮半島の交易が自由に行えなかった 豊国、肥国、熊襲国が東九州から南九州へ広がっています。
卑弥呼の死後、台与による新しい国づくりが大陸の役人 政張らによって行われましたが
当時の邪馬台国に卑弥呼に従った奴国など国々が一つになり、新しい国名を筑紫と決めて
漢字も、それにふさわしい漢字を使用したと考えられます。
これが二番目の漢字の使い方です。

もちろん
伊都国 => 糸島半島
末盧国 => 松浦半島
など古代の地名の呼び方を残している地名もたくさんあります。

魏志倭人伝に登場する 狗奴国(卑弥呼と対立していた国)が熊襲国でしょう。
クナ国 と云う呼び方を改めて 漢字に置き換えたのが 熊襲国です。
では、出雲や大和はどうでしょうか。
出雲と云う漢字も良い意味を選んで使った感じです。明らかに熊襲国とは違います。
しかし、出雲と書いて イズモ とは読みません。
こちらは、イズモ と発音する(呼ぶ)国があって、あえて出雲の漢字をイズモと呼ぶようにした。
古くよりあった国名を大切にしたのでしょう。
筑紫の場合は奴国など沢山の国々を集めて出来て国なので改めて新しい国名を作る必要があったのでしょうか。
卑弥呼の死後、男王が立つが国々がまとまらず、台与を女王にすることでまとまった話に匹敵します、
出雲の場合は、イズモと云う国が力を付けて徐々に周囲の国々を飲み込んで出来たのでしょう。

大和はどうでしょう。「古事記」などを参考にすると、最初は
倭 とう漢字を使っています。
明らかに来陸の史記「魏志倭人伝」などを参考にして自国の名前に使う漢字を決めています。
倭かいても大和とかいても、漢字では ヤマトと読みません。
出雲と同様に、古代からの呼び名の国名を残しています。
大和という漢字も意味を分かって使っていて、最初は 和 の一文字から 大和の二文字になります。
ヤマト は 邪馬台国(ヤマト国)を参考にしていると思います。

この三つの国名の漢字ですが
・筑紫・・・弥生時代終焉後まもなく、古墳時代早期に自らの意思で国名を変えた。
・出雲・・・イズモと云う呼び名は残して出雲の漢字を選択(筑紫を意識したのか漢字二文字)
・大和・・・ヤマトと云う呼び名は残した、最初は 倭=>大倭=>和=>大和 と遍歴
      大和という漢字を使い始めてのは、意外と遅い。
他にも、「この漢字で、こんな読み方はしないだろう」と云う地名は漢字を使わない時代の地名でしょう。
例えば、アスカ=>明日香(当て字〉=>飛鳥(絶対にアスカとは読まないです)
皆さんの周りに
・発音が三つ
・当て字で漢字が三文字
・漢字は二文字だけど、絶対にそんな読み方はない
こんな地名があれば、古代え漢字を使い始まる前からの地名である可能性が高いですよ。

弥生時代 から 古墳時代

2020-06-20 12:51:56 | 歴史
今までの投稿をご覧いただいて
弥生時代の後期(卑弥呼の時代 ~200年代前半)までは魏志倭人伝にて
国内上状況がわかります。
明日香時代から古墳時代後期ぐらいまでは、「古事記」「日本書紀」
更に、発見された「鉄剣・鉄刀の銘文」から想像が出来ます。
如何せん・・・
卑弥呼の死後(弥生時代終焉期)から古墳時代中期(空白の4世紀)が騒動できませんね。
今回は、この部分を考えてみます。

弥生時代の文化
・吉野ヶ里遺跡の様な環濠集落
・甕棺を使った集合墳
・九州中心の銅矛文化圏と近畿中心の銅鐸文化圏
など

弥生時代末期に起きた事
・女王卑弥呼の死
・大陸の三国(魏蜀呉)の滅亡
・朝鮮半島の高句麗が力をつける。

「魏志倭人伝」の最後は
卑弥呼が亡くなり、一時的に後継者争いの争いが起きるが
台与を女王に立てる事で国々が納得した。
その時、魏から来ていた役人 張政らがいた。
しかし、間もなく魏が滅び、せっかく頂いた「親魏倭王」の金印もその力を失う。
大陸との交流手段がなくなり朝鮮半島(百済、新羅)との交流が主となる。

古墳時代の文化
・一族の王中心の国家づくり
・古墳による埋葬
・馬(馬具)など武器の輸入、金製品などの宝飾品
朝鮮半島から馬や鉄製品を輸入して武力を付ける。
力を持つ一族が地域を支配する様になる。
卑弥呼が行っていた祈祷の信仰から武力・経済力が優先となり
小国が次々と消えていった。
三世紀後半の数十年の短期間の間に大きな変化が起きたようです

そして
古墳時代末期には
・漢字の始まり
・朝鮮半島へ出兵など武力の増強が伺えます。
5世紀には、近畿の大和朝廷が大陸の政治を導入して、一つの国づくりを始めたのでしょう。
「古事記」に登場する継体天皇や筑紫磐井の乱などが信ぴょう性があります。

この空白の四世紀を埋める決定的な資料はありませんが
漢字の使われ方を元に、当時を想像してみます。

明日香時代から古墳時代へ まとめ

2020-06-15 20:53:18 | 歴史
新境地に至り、過去投稿をまとめています。
魏志倭人伝から考える邪馬台国(卑弥呼)
古事記に見る「日本神話」
そして「古事記」「日本書紀」など歴史的文字から飛鳥時代から古墳時代に坂野どってみました。
・物部氏VS蘇我氏(蘇我馬子と聖徳太子)
・527年 筑紫磐井の乱(筑紫磐井VS大和朝廷)
ここまでは「古事記」「日本書紀」の信憑性があります。
・鉄剣・鉄刀銘文(古墳時代 5世紀前後)
おいおい「古事記」や「日本書紀」とずれてきてる・・・
・倭の五王、広開土王碑
明らかに、大陸の史記にあわせに来ています。
仁徳天皇から雄略天皇 倭の五王の記述にあわせた。
日本武尊       ヤマト朝廷が古くから九州~関東を支配していたことにする。
神功皇后       七支刀にあわせた。
※筑紫磐井の乱を考えると大和朝廷はまだ十分に九州(筑紫王朝)を支配できていません。
平安時代に作成された「古事記」「日本書紀」は
当時の天皇家の正当性と偉大さを誇張しています。
いつの間にか、作者の術中にはまっていたようです。
この呪縛から離れてみると
疑惑の「空白の四世紀」が見えてくるかもしれません。

空白の四世紀を埋めると七支刀と広開土王碑と「倭の五王」の手紙

2020-06-15 19:18:51 | 歴史
更に時代を遡って四世紀
さすがに日本の遺跡から時代の決め手になる文字(年代)がありません。
唯一、朝鮮半島(百済)から贈られた 七支刀(しちしとう)
奈良の石上神宮に残っており
「泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■・・・・」
朝鮮半島の百済から倭王へ贈られた繁栄を祈願した文字を刻んだ奇妙な形の刀です。
しかし、年代の決め手になる一文字が解読出来ていません。
西晋の「泰始四年」(268年)として判読する説(管政友)。
東晋の「太和四年」(369年)とする説(福山敏男、浜田耕策ら)。「泰」は「太」と音通するため。
劉宋の「泰始四年」(468年)説(宮崎市定)。
の三説が・・・
「日本書紀」には神功皇后に七支刀が贈られたと記載されているので
当時(平安時代)には七支刀の存在は知られていたようです。
更に、倭王の名前もありません。
とりあえず、倭国と友好的でありたかっただけかもしれませんね。


もう一つは「広開土王碑」です。
「高句麗(現在の北朝鮮付近)の王が侵略してきた国の兵を追い返した。」と書いてあります。
396年 広開土王みづから、倭の「臣民」となった百残を討った。
399年 新羅に倭兵が侵入したと聞いて新羅の救援を約束した。
400年 新羅救援のため5万の兵を派遣し、逃げる倭兵を追って任那加羅まで追撃した。
404年 倭の水軍が帯方界にまで侵入したので、広開土王みづから兵を率いて倭に壊滅的打撃を与えた。

仮に七支刀が「太和四年」(369年)だとして
・369年 倭国と百済は友好的?(倭人が侵攻していた)
・徐々に、倭国軍は北へ(高句麗へ)すすんだ。
・396年 ついに高句麗と衝突
・404年 倭軍は朝鮮半島から撤収する。


もう一つ、大陸の歴史書(宗書)に倭国の五人の王は朝鮮半島支配について書いた手紙があります。
420年~479年
朝鮮半島の支配に軍を出した倭国の王から大陸の宋へあてた手紙
5人の歴代の王が倭王と名乗り、朝鮮半島支配の為に出兵するが
その戦争はうまくいかず
最後の王は止む無く兵を退ける決断をした報告の手紙です。

広開土王碑以後も朝鮮半島へ出兵して支配を考えていたようです。
「倭の五王」と呼ばれてい手紙の内容から親子、兄弟が登場するので
16代 仁徳天皇から21代 雄略天皇ではないかと考えられています。
しかし、どうでしょう
これも「古事記」「日本書紀」の作者の術で
「倭の五王」手紙に合うように親子、兄弟の天皇を設定したと考えられます。

前の投稿にある様に、400年代 名前を漢字の読みで当て字にしていますが
「倭の五王」の手紙では、5人の王、讃・珍・済・興・武と名乗っています。
大陸で十分通じる手紙でもあります。
倭の五王を歴代の天皇に宛てる事が
「古事記」「日本書紀」の作者の術中にはまっていると思います。


なかなか、四世紀(古墳時代)の日本の状況にはたどり着けないですね。

鉄剣・鉄刀銘文 と 日本武尊

2020-06-15 17:36:36 | 歴史
527年の筑紫磐井の乱からさらに時代をさかのぼってみます。
大部手掛かりが少なくなりますが、戦後の発見と技術で
古代の刀に刻まれた文字の再現がかのうになりました。
まだ、数は少ないのですが、大変な発見が
埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した 稲荷山古墳出土鉄剣

熊本兼玉名郡の江田船山古墳から出土した 銀錯銘大刀
に奇妙な特徴があります。

稲荷山古墳出土鉄剣 115文字

辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。

其の児、名はカサヒ(ハ)ヨ。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケル(クヮクカタキル)の大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。
辛亥年は471年(或いは531年 60年に一度)
ヲワケの臣
ご先祖様は オホヒコで
その子 6代の名前
獲加多支鹵大王:ワカタケル(クヮクカタキル)の大王の寺

銀錯銘大刀  7宇5文字
天の下治らしめし獲□□□鹵大王の世、典曹に奉事せし人、名は无利弖、八月中、大鉄釜を用い、四尺の廷刀を并わす。八十たび練り、九十たび振つ。三寸上好の刊刀なり。此の刀を服する者は、長寿にして子孫洋々、□恩を得る也。其の統ぶる所を失わず。刀を作る者、名は伊太和、書するのは張安也
獲加多支鹵大王(ワカタケル大王、雄略天皇か)の時代
刀鍛冶の名前は 伊太和
文字を刻んだのは張安(ともに中国人では?)

獲加多支鹵大王と云う人物が両方の刀に刻まれています。
共に同じ時代に同じ場所(多分、大和)で大陸の刀職人に作らせて大陸人に文字を刻ませたようです。
名前が ヲワケ と云う呼び名を乎獲居で当て字で漢字にしています。
この時代、日本(大和地方)では名前を漢字にしておらず、必要に応じて当て字も用いた!!
更に疑問は、大和で造られた刀が遠く離れた関東と九州で発見されている。
※まだ発見されていない刀があるはずですが。

「古事記」「日本書紀」を参考に探してみると
日本武尊(父が12代景行天皇)の熊襲征討・東国征討
・生まれつきの怪力、兄を握りつぶしてしまう。
・父景行天皇 熊襲征伐を命令される。
・女装して熊襲兄弟の宴会に潜り込み、二人を倒す
(その時に尊:タケルと云う名前をもらう。)
※獲加多支鹵大王(ワカタケル大王)= ヤマトタケルか(?)
 タケル と云う名前は結構大勢いたようです。

・帰ってくると次は東国征伐命令される。
・途中、伊勢により叔母の倭姫より剣と袋を授かる。
・東国で敵が放った火に囲まれて大ピンチ
・授かった剣で周囲の草を切ると炎の向きが相手方向に変わる。
 ※この時から、この剣が「草薙剣」と呼ばれるようになる。
・東国も征伐するが期間の途中で亡くなり白鳥となって大和へ戻る。

雄略天皇が21代、景行天皇が12代天皇 9代ほどずれがありますが
この時代、兄弟で天皇家を伝承しているので世代的には6世代になります。

もう一人、九州征伐をしたお方が神功皇后(14代仲哀天皇の后)
この方は身重の状態(後の応神天皇)で九州征伐と朝鮮半島征伐を成し遂げています。
お二人とも神業的なお力を持っておられるので、実在と云うより伝承の人物でしょう。

いずれにせよ
400年代後半、漢字が使われ始めたが、先祖の名前を当て字で刻む程度
しかし、ご先祖様の名前はきちんと伝承で残っていました。

「古事記」に記載されている年代とずれが発生しています。
正しい年代、年齢なども信ぴょう性が疑われるため、西暦の表示がなくなっています。

筑紫磐井 VS ヤマト朝廷(継体天皇)

2020-06-15 12:15:21 | 歴史
前投稿の聖徳太子の時代より、およそ100年ほど前
九州の筑紫磐井討伐にヤマト朝廷(継体天皇)が出兵、磐井を滅ぼした事件です。
527年 筑紫磐井の乱
・ヤマト王権の近江毛野は6万人の兵を率いて、新羅に奪われた南加羅・喙己呑を回復するため、任那へ向かって出発した。
・この計画を知った新羅は、筑紫(九州地方北部)の有力者であった磐井へ贈賄し、ヤマト王権軍の妨害を要請した。
・磐井は挙兵し、火の国と豊の国を制圧するとともに、倭国と朝鮮半島とを結ぶ海路を封鎖して朝鮮半島諸国からの朝貢船を誘い込み、近江毛野軍の進軍をはばんで交戦した。
・継体天皇が大伴金村・物部麁鹿火・巨勢男人らに将軍の人選を諮問したところ、物部麁鹿火が推挙され、同年8月1日、麁鹿火が将軍に任命された。
・528年11月11日、磐井軍と麁鹿火率いるヤマト王権軍が、筑紫三井郡(現福岡県小郡市・三井郡付近)にて交戦し、一年以上続く激しい戦闘の結果、磐井軍は敗北した。

ざ~っと、こんな感じです。
ここでわかる事
・九州は筑紫が支配していた
・大和朝廷は朝鮮半島を支配したかった。
・この時、朝鮮半島支配はかなわなかった。

これより前に、氏姓制度を発布し、ヤマト朝廷に使える豪族らに氏が与えられます。
物部、海部など朝廷に使える仕事分担にあわせて氏を頂いた一族もいれば
筑紫の様に、自ら一族や地名を漢字で決めていた一族もいました。
九州の様な地方には
既に強力な一族がいたので、それぞれの地域の一族の名前を氏名にする。
その地方の権限を任せる程度であったのです。
「日本書紀」では、筑紫磐井は新羅からの賄賂を受け取って裏切った話になっていますが
勝者が歴史を書き換えた可能性もあります。
事実は
・筑紫は朝鮮半島と有効な関係を続けたかった。
・大和朝廷の武力による支配に反対して争いになった。
のではないでしょうか。
この時代より以前に漢字が大和以外の地方でも使われていたことは
事実です。

聖徳太子と蘇我馬子

2020-06-14 18:38:26 | 歴史
いままで日本神話を紹介してきて、急に聖徳太子を登場させてしまいました。
わかりづらかったかもしれませんので、細く説明しておきます。
時代は500年代から600年の前半、「古事記」や「日本書紀」が作成される平安時代より100年ほど前です。
飛鳥時代と呼ばれていて、天皇が奈良の明日香地方にいて
豪族と呼ばれる一族が天皇の政治を補佐していました。
遺跡としては、高松塚古墳、キトラ古墳があり
奈良の法隆寺「五重塔」などが世界最古の木造建築物として残っています。
「日本書紀」にも詳しく書かれていて、既に漢字も使われている時代ですので、その信ぴょう性は高いです。

物語の始まりは、仏教伝来と蘇我氏VS物部氏の争いです。
物部氏は古くより天皇に仕えていて、天照大神を頂点とする神道を信仰しています。
蘇我氏は朝鮮半島から移住した一族で朝鮮半島から伝わった仏教を推薦します。
蘇我馬子と物部守屋の時代に争いになり(587年)結果は馬子の勝利、物部一族は殺害されてしまいます。
権力の頂点にたった馬子は皇太后であった炊屋姫を即位させ、
初の女帝である推古天皇とした。厩戸皇子(聖徳太子)が皇太子に立てられ、摂政となります。
馬子&聖徳太子による政治は朝鮮半島の政治を参考にして冠位十二階や十七条憲法を定めて中央集権化を勧めます。
小野妹子らを遣隋使として大陸へ派遣、「日出所の天使より、日没する所・・・」との手紙を大陸へ送って怒りを買います。
大陸の歴史書にも登場しますので史実です。
この時代、自国の事は「大和」と書いて「ヤマト」と呼んでいたようです。
※既に「倭」という漢字ではないです。
そして、天皇家と国の歴史をまとめた「天皇記」と「国記」を作成した紹介されています。
しかし、645年 蘇我入鹿(馬子の子供)の時代に「乙巳の変]で入鹿暗殺
馬子は自宅に火をつけて自殺、その時に「天皇記」と「国記」も焼失したとされています。
あえて「天皇記」と「国記」を分けてあるところから
歴代天皇(神代?初代天皇~推古天皇?)の歴史と
日本列島の国々の成り立ちなどが記載されていたのではないでしょうか。
本当に焼失のかも疑問ですが、関連する書物や伝承が平安時代にも残っていたはずです。
「古事記」「日本書紀」は、それらを参考にしたでしょうし、不都合な部分は焼き捨てたでしょう。

今後しばらくですが、この時代から少しづつ時代を遡ってみたいと思います。

日本神話まとめ と聖徳太子の幻の歴史書「天皇記」

2020-06-13 15:30:09 | 歴史
いつも読んで頂きありがとうございます。
先月からはじめました日本神話の目次です。
・日本の神様のお話「日本神話」
・日本神話の世界観
・日本神話 天地開闢~イザナギ・イザナギ
・イザナギとイザナミの国産み・神産み
・黄泉の国~イザナギ・イザナミ
・天照大神様、素戔嗚命 誕生
・誓約~天照大神・素戔嗚命
・天岩戸隠れ~天照大神
・八岐大蛇の退治~スサノオ
・天孫降臨~瓊瓊杵尊(ニニギ)
・神武東征~磐余彦尊(イワレビコ 後の神武天皇)
これでも大分割愛していますので、全体的な流れだけです。
「古事記」の上巻に紹介されています。
以後、中巻(初代~15代天皇)、下巻(16代~33代天皇)は歴代天皇のお話で
43代元明天皇に712年に献上されています。
34代舒明天皇(623年~)から43代元明天皇は特に記述しなくても良く知られていたのでしょうか。
十世代、過去100年ぐらいは伝承でも大丈夫・・・
720年に作成された「日本書紀」にも同様な神話が紹介されています。
※日本書紀には41代持統天皇まで
仏教と同時に漢字が大陸から伝わり、大陸の歴史書の匹敵する国書が必要だったのでしょう。
ちょっと不思議におもうのは、元明天皇は自分が43代目である事は知っていたのでしょうか。
この「古事記」の作成で初めて自分が43代である事を知った??
どうも違うようです。

実は、それより100年ほど前に天皇の歴史書を作成した人がいます。
620年に蘇我馬子と聖徳太子が「天皇記」と「国記」を作成しています。
※後の争いで焼失した事になっています。
この時代には自分が何代目の天皇であるかは決まっていたでしょう。

推古天皇が33代の時代です。
それから十数代前くらい前は十分に正しく伝承されていたでしょう。
内容からしても26代継体天皇(507年~)に関する記述は大分、事実に使いと思われます。
この時代ごろは自分が何代目であるかは、伝承で決まっていたのでしょう。
当時の寿命は50歳ほどです。十代後半から20代で結婚、出産なので一代は20年位でしょう。
507年 26代継体天皇が正しければ
初代神武天皇は370年位(507年ー26人X20年)となります。
古墳時代ですね。
※初代神武天皇を辛酉の年(紀元前660年2月11日)に設定したため
100歳を超す長寿の天皇が紹介されています。
歴代の人数が正しいかもしれませんが、その実態はかなり疑わしいです。

もし神武東征が事実の伝承であれば、古墳時代に九州の一族が近畿へ移住して新しい国づくりを行い
ヤマト朝廷が出来た事になります。
日本神話に登場する
・天照大神の岩戸隠れ
・素戔嗚の八岐大蛇退治は
古墳時代に伝承で信じられていた神話です。
弥生時代の卑弥呼の時代に九州で皆既日食が二年連続であった事も現在ではわかっています。
もちろん、平安時代の人達が知りえる情報ではありません。
天照大神=卑弥呼 と信じているのですが、如何でしょうか。