古代日本の歴史を謎解き

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明日香時代から古墳時代へ まとめ

2020-06-15 20:53:18 | 歴史
新境地に至り、過去投稿をまとめています。
魏志倭人伝から考える邪馬台国(卑弥呼)
古事記に見る「日本神話」
そして「古事記」「日本書紀」など歴史的文字から飛鳥時代から古墳時代に坂野どってみました。
・物部氏VS蘇我氏(蘇我馬子と聖徳太子)
・527年 筑紫磐井の乱(筑紫磐井VS大和朝廷)
ここまでは「古事記」「日本書紀」の信憑性があります。
・鉄剣・鉄刀銘文(古墳時代 5世紀前後)
おいおい「古事記」や「日本書紀」とずれてきてる・・・
・倭の五王、広開土王碑
明らかに、大陸の史記にあわせに来ています。
仁徳天皇から雄略天皇 倭の五王の記述にあわせた。
日本武尊       ヤマト朝廷が古くから九州~関東を支配していたことにする。
神功皇后       七支刀にあわせた。
※筑紫磐井の乱を考えると大和朝廷はまだ十分に九州(筑紫王朝)を支配できていません。
平安時代に作成された「古事記」「日本書紀」は
当時の天皇家の正当性と偉大さを誇張しています。
いつの間にか、作者の術中にはまっていたようです。
この呪縛から離れてみると
疑惑の「空白の四世紀」が見えてくるかもしれません。

空白の四世紀を埋めると七支刀と広開土王碑と「倭の五王」の手紙

2020-06-15 19:18:51 | 歴史
更に時代を遡って四世紀
さすがに日本の遺跡から時代の決め手になる文字(年代)がありません。
唯一、朝鮮半島(百済)から贈られた 七支刀(しちしとう)
奈良の石上神宮に残っており
「泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■・・・・」
朝鮮半島の百済から倭王へ贈られた繁栄を祈願した文字を刻んだ奇妙な形の刀です。
しかし、年代の決め手になる一文字が解読出来ていません。
西晋の「泰始四年」(268年)として判読する説(管政友)。
東晋の「太和四年」(369年)とする説(福山敏男、浜田耕策ら)。「泰」は「太」と音通するため。
劉宋の「泰始四年」(468年)説(宮崎市定)。
の三説が・・・
「日本書紀」には神功皇后に七支刀が贈られたと記載されているので
当時(平安時代)には七支刀の存在は知られていたようです。
更に、倭王の名前もありません。
とりあえず、倭国と友好的でありたかっただけかもしれませんね。


もう一つは「広開土王碑」です。
「高句麗(現在の北朝鮮付近)の王が侵略してきた国の兵を追い返した。」と書いてあります。
396年 広開土王みづから、倭の「臣民」となった百残を討った。
399年 新羅に倭兵が侵入したと聞いて新羅の救援を約束した。
400年 新羅救援のため5万の兵を派遣し、逃げる倭兵を追って任那加羅まで追撃した。
404年 倭の水軍が帯方界にまで侵入したので、広開土王みづから兵を率いて倭に壊滅的打撃を与えた。

仮に七支刀が「太和四年」(369年)だとして
・369年 倭国と百済は友好的?(倭人が侵攻していた)
・徐々に、倭国軍は北へ(高句麗へ)すすんだ。
・396年 ついに高句麗と衝突
・404年 倭軍は朝鮮半島から撤収する。


もう一つ、大陸の歴史書(宗書)に倭国の五人の王は朝鮮半島支配について書いた手紙があります。
420年~479年
朝鮮半島の支配に軍を出した倭国の王から大陸の宋へあてた手紙
5人の歴代の王が倭王と名乗り、朝鮮半島支配の為に出兵するが
その戦争はうまくいかず
最後の王は止む無く兵を退ける決断をした報告の手紙です。

広開土王碑以後も朝鮮半島へ出兵して支配を考えていたようです。
「倭の五王」と呼ばれてい手紙の内容から親子、兄弟が登場するので
16代 仁徳天皇から21代 雄略天皇ではないかと考えられています。
しかし、どうでしょう
これも「古事記」「日本書紀」の作者の術で
「倭の五王」手紙に合うように親子、兄弟の天皇を設定したと考えられます。

前の投稿にある様に、400年代 名前を漢字の読みで当て字にしていますが
「倭の五王」の手紙では、5人の王、讃・珍・済・興・武と名乗っています。
大陸で十分通じる手紙でもあります。
倭の五王を歴代の天皇に宛てる事が
「古事記」「日本書紀」の作者の術中にはまっていると思います。


なかなか、四世紀(古墳時代)の日本の状況にはたどり着けないですね。

鉄剣・鉄刀銘文 と 日本武尊

2020-06-15 17:36:36 | 歴史
527年の筑紫磐井の乱からさらに時代をさかのぼってみます。
大部手掛かりが少なくなりますが、戦後の発見と技術で
古代の刀に刻まれた文字の再現がかのうになりました。
まだ、数は少ないのですが、大変な発見が
埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した 稲荷山古墳出土鉄剣

熊本兼玉名郡の江田船山古墳から出土した 銀錯銘大刀
に奇妙な特徴があります。

稲荷山古墳出土鉄剣 115文字

辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。

其の児、名はカサヒ(ハ)ヨ。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケル(クヮクカタキル)の大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。
辛亥年は471年(或いは531年 60年に一度)
ヲワケの臣
ご先祖様は オホヒコで
その子 6代の名前
獲加多支鹵大王:ワカタケル(クヮクカタキル)の大王の寺

銀錯銘大刀  7宇5文字
天の下治らしめし獲□□□鹵大王の世、典曹に奉事せし人、名は无利弖、八月中、大鉄釜を用い、四尺の廷刀を并わす。八十たび練り、九十たび振つ。三寸上好の刊刀なり。此の刀を服する者は、長寿にして子孫洋々、□恩を得る也。其の統ぶる所を失わず。刀を作る者、名は伊太和、書するのは張安也
獲加多支鹵大王(ワカタケル大王、雄略天皇か)の時代
刀鍛冶の名前は 伊太和
文字を刻んだのは張安(ともに中国人では?)

獲加多支鹵大王と云う人物が両方の刀に刻まれています。
共に同じ時代に同じ場所(多分、大和)で大陸の刀職人に作らせて大陸人に文字を刻ませたようです。
名前が ヲワケ と云う呼び名を乎獲居で当て字で漢字にしています。
この時代、日本(大和地方)では名前を漢字にしておらず、必要に応じて当て字も用いた!!
更に疑問は、大和で造られた刀が遠く離れた関東と九州で発見されている。
※まだ発見されていない刀があるはずですが。

「古事記」「日本書紀」を参考に探してみると
日本武尊(父が12代景行天皇)の熊襲征討・東国征討
・生まれつきの怪力、兄を握りつぶしてしまう。
・父景行天皇 熊襲征伐を命令される。
・女装して熊襲兄弟の宴会に潜り込み、二人を倒す
(その時に尊:タケルと云う名前をもらう。)
※獲加多支鹵大王(ワカタケル大王)= ヤマトタケルか(?)
 タケル と云う名前は結構大勢いたようです。

・帰ってくると次は東国征伐命令される。
・途中、伊勢により叔母の倭姫より剣と袋を授かる。
・東国で敵が放った火に囲まれて大ピンチ
・授かった剣で周囲の草を切ると炎の向きが相手方向に変わる。
 ※この時から、この剣が「草薙剣」と呼ばれるようになる。
・東国も征伐するが期間の途中で亡くなり白鳥となって大和へ戻る。

雄略天皇が21代、景行天皇が12代天皇 9代ほどずれがありますが
この時代、兄弟で天皇家を伝承しているので世代的には6世代になります。

もう一人、九州征伐をしたお方が神功皇后(14代仲哀天皇の后)
この方は身重の状態(後の応神天皇)で九州征伐と朝鮮半島征伐を成し遂げています。
お二人とも神業的なお力を持っておられるので、実在と云うより伝承の人物でしょう。

いずれにせよ
400年代後半、漢字が使われ始めたが、先祖の名前を当て字で刻む程度
しかし、ご先祖様の名前はきちんと伝承で残っていました。

「古事記」に記載されている年代とずれが発生しています。
正しい年代、年齢なども信ぴょう性が疑われるため、西暦の表示がなくなっています。

筑紫磐井 VS ヤマト朝廷(継体天皇)

2020-06-15 12:15:21 | 歴史
前投稿の聖徳太子の時代より、およそ100年ほど前
九州の筑紫磐井討伐にヤマト朝廷(継体天皇)が出兵、磐井を滅ぼした事件です。
527年 筑紫磐井の乱
・ヤマト王権の近江毛野は6万人の兵を率いて、新羅に奪われた南加羅・喙己呑を回復するため、任那へ向かって出発した。
・この計画を知った新羅は、筑紫(九州地方北部)の有力者であった磐井へ贈賄し、ヤマト王権軍の妨害を要請した。
・磐井は挙兵し、火の国と豊の国を制圧するとともに、倭国と朝鮮半島とを結ぶ海路を封鎖して朝鮮半島諸国からの朝貢船を誘い込み、近江毛野軍の進軍をはばんで交戦した。
・継体天皇が大伴金村・物部麁鹿火・巨勢男人らに将軍の人選を諮問したところ、物部麁鹿火が推挙され、同年8月1日、麁鹿火が将軍に任命された。
・528年11月11日、磐井軍と麁鹿火率いるヤマト王権軍が、筑紫三井郡(現福岡県小郡市・三井郡付近)にて交戦し、一年以上続く激しい戦闘の結果、磐井軍は敗北した。

ざ~っと、こんな感じです。
ここでわかる事
・九州は筑紫が支配していた
・大和朝廷は朝鮮半島を支配したかった。
・この時、朝鮮半島支配はかなわなかった。

これより前に、氏姓制度を発布し、ヤマト朝廷に使える豪族らに氏が与えられます。
物部、海部など朝廷に使える仕事分担にあわせて氏を頂いた一族もいれば
筑紫の様に、自ら一族や地名を漢字で決めていた一族もいました。
九州の様な地方には
既に強力な一族がいたので、それぞれの地域の一族の名前を氏名にする。
その地方の権限を任せる程度であったのです。
「日本書紀」では、筑紫磐井は新羅からの賄賂を受け取って裏切った話になっていますが
勝者が歴史を書き換えた可能性もあります。
事実は
・筑紫は朝鮮半島と有効な関係を続けたかった。
・大和朝廷の武力による支配に反対して争いになった。
のではないでしょうか。
この時代より以前に漢字が大和以外の地方でも使われていたことは
事実です。