古代日本の歴史を謎解き

パソコンが故障して、パスワードが分からず
旧ブログから引っ越しです。

「魏志倭人伝」 周旋五干余里

2018-09-30 14:55:07 | 歴史
「魏志倭人伝」に紹介される倭国の距離についてです。
「後漢書」など他の史記でもほぼ同じような記載がありますので
その信ぴょう性は高いです。
・帯方群から奴国至る道程
・帯方群から邪馬台国まで1万2千里
・倭国を周旋すると五干余里
それと、
邪馬台国まで水行10日陸行1月
投馬国まで、水行20日
これらの関係を 水行1日 1000里、陸行1日 100里の仮定も加えて考えてみます。

・帯方群から朝鮮半島南端(倭国の北端)狗邪韓国まで7000千里(水行7日)
・狗邪韓国から玄界灘 松浦半島 末盧国まで3000里(水行3日)
つまり
帯方群から末盧国まで10000里(水行10日)で間違いありません。
残りは引き算で(陸行)
・末盧国から邪馬台国まで2千里
・末盧国から周旋すると2干余里
周旋五干余里の周旋をぐるりと回る
・末盧国から狗邪韓国まで行って、更に末盧国に戻る
これでは、既に6000里になります。
1、狗邪韓国から末盧国へ九州の国々を回って末盧国に戻る
  九州の国々を回るのに残りが2000里
  末盧国(松浦半島)から伊都国(糸島半島)まで500里なので
  その地域に四角の線を引けば、周囲2000里の範囲
2.狗邪韓国から末盧国へ、末盧国から一番端国まで2000里
  つまり、北の端から南端の国までは5000里と考えると
  末盧国から南端の国 邪馬台国まで 2000里
2の場合だと、ズバリ
・帯方群から奴国至る道程
・帯方群から邪馬台国まで1万2千里
・倭国を周旋すると五干余里
3つの条件が一致します。
難しく考えずに簡単な話だったのではないでしょうか。

邪馬台国まで水行10日陸行1月 も出発地を帯方群 とする
帯方群から末盧国まで1000里で水行10日が一致
しかし、
末盧国から邪馬台国まで2000里、陸行20日では
陸行1月(多分27日或いは28日)と比較して
7~8日の誤差が発生します。
もう一つの考え方
倭国は30国で、狗邪韓国、対馬国、一支国の島国を除くと
九州の国々で残り27国
陸行1月は、末盧国から邪馬台国まで27国ある。
一国の移動が100里1日で簡略した日数と考えては
如何でしょうか。
これで水行10日陸行1月をクリアします。

投馬国まで、水行20日ですので
周旋五干余里には含まれていない国です。
末盧国から水行10日
狗邪韓国から水行13日でたどり着ける湾岸の国です。
山陰方面であれば 出雲
周防灘へ入ったとすれば 日向となります。

弥生時代後期に
奴国(二万戸) 博多湾で決まりです。
邪馬台国(七万戸)有明海湾岸(博多湾より3倍程広い)??
投馬国(五万戸)出雲か日向の湾岸の国(博多湾より2倍ほど広い)
三つの大国があった事は間違いありません。
「魏志倭人伝」など大陸の史記を読み限り
当時の倭国とは、九州北部+宮崎 或いは 山陰地方
で間違いないでしょう。



   

邪馬台国 と 大和朝廷(九州説編)

2018-09-15 20:21:33 | 歴史
邪馬台国 九州説の場合の大和朝廷との関係の説明は少し厄介です。
主説は二つです。
・九州にあった邪馬台国が、東征して近畿で大和朝廷になった。
・九州にあった邪馬台国は、卑弥呼の死後、弱体化して滅んだ。
 近畿の大和朝廷が西日本を統一した。

九州説の主張
・「漢委奴国王」の金印の時代の倭国は、佐賀、福岡など玄界灘側の地方
・卑弥呼が女王になった時代に有明海から豊後半島まで九州北部に広がる。
・南の狗奴国は、後の熊襲国
・次女王 台与(トヨ)の国が豊国(大分)
・「古事記」などに登場する神武東征は実話であり、邪馬台国の一族が
 瀬戸内を渡り、近畿の大和朝廷と合体した。
古事記が完成したのは平安時代です。
平城京(奈良)、長岡京、平安京(京都)と遷都を繰り返した事実は記述するとしても
天孫降臨の土地を奈良の飛鳥地方でも良かったはず。
わざわざ、神武天皇を九州から呼び、来てもらうの話を挿入したのは
それなりの事実が伝わっていた。

近畿説の反論
神武東征は、弥生時代始まりの時代に大陸からの渡来人が九州、瀬戸内海と
東方へ移住を繰り返した話
卑弥呼は神功皇后として登場させている。
史記「日本書紀」では、神功皇后の時代について「史曰く」と注釈がある。
鉄器の武器を有した九州朝廷は倭国大乱で弱体化した。
信仰深い飛鳥地方が平和で発展した。
大乱をまとめるために、飛鳥地方の祈祷師に女王になってもらった。
これがヤマトの卑弥呼である。


邪馬台国 と 大和朝廷(近畿説編)

2018-09-15 18:59:23 | 歴史
以前にも同じような投稿をしましたが、もう一度、まとめておきます。
まずは 邪馬台国
邪馬台国と書いて、 ヤマト国 と読む
この説は、結構多くの方の意見があります。
その邪馬台国か、魏志倭人伝に
「倭国大乱の際、邪馬台国の卑弥呼が女王となる事で大乱が治まる。」とあります。
多分、西暦180年位とされていますので
その時には、卑弥呼は邪馬台国で祈祷師として台頭していた。
邪馬台国は、それ以前より存在していた。
「漢委奴国王」の金印が贈られた時代に
或いは、それ以前より、かなり古く縄文時代より
邪馬台国の始まりは不明ですが、卑弥呼が倭国の女王になる前から
存在していた国です。

邪馬台国近畿説では
紀元前位から近畿奈良地方に ヤマトと云う国があった。
大陸に国の名前を伝えたときにヤマトが 邪馬台 と漢字になった。
南へ水行10日陸行1月は 東への間違い
魏志倭人伝に紹介される倭国は出雲、近江など山陰から近畿、四国、九州の西日本一帯
海を隔てて東に住む倭人とは、琵琶湖の東側
邪馬台国の南にある敵国 狗奴国は 熊野の事
となります。
そして、卑弥呼が倭国の女王になり、五百年ほど発展して、大和朝廷となる。
こちらの方が、邪馬台国と大和朝廷の関係を説明するにはすっきりしますよね。
こちらが弥生時代後期の祭器文化圏の地図です。

倭国大乱は、銅矛文化の九州北部と四国東部で起こり
銅鐸文化圏の近畿にある邪馬台国の卑弥呼に女王になってもらった。
と云う事です。

九州説の反論
魏志倭人伝に、倭国を回ると5000里
東の端を海を渡って倭人の国は四国
ちょうど、銅矛文化圏が倭国である。
勝手に南を東にかえるな!!




縄文時代の食生活

2018-09-02 14:02:24 | 歴史
縄文時代と云うと、何となく原始人をイメージしてしまいますが、
遺跡から発掘された
・土偶
・火焔型土器
・「三内丸山遺跡」の大型掘立柱建物など
世界の古代文明と比較しても、愕然とするものがあります。
縄文時代は約14000年前から大陸渡来人が弥生文化を伝える紀元前4世紀までです。
何と一万年以上も続いているのです。
世界の4大文明(エジプト文明、メソポタミア文明、インダス文明、中国(黄河)文明)でも
約5000年まえから3500年前です。
中国4000年の歴史よりはるかに古く、長いのです。
縄文式土器も世界最古の土器です。
残念は事は、文字がありません。当時の文明を証明する方法がないのです。
世界の4大文明の共通点は文字があり、太陽暦など高度な知識があった事を裏付け出来ますので
世界の文明と呼ばれるわけです。

さて、そんな縄文時代の食生活です。
・鹿や猪を狩猟
・近くの河川、海辺で魚介類を採取(貝塚があります。二枚貝が主だったようです)
・山で木の実や野菜を採取していた。
しかし、それだけではなかったようです。
・既に稲作を行っていた。(稲作文化も世界最古になります)
・高床式の建物で集落を作っていいる。
・犬を狩猟犬として飼っている。
上下関係のない、共同生活が豊か表現のある縄文土器を育てたようです。
土偶にみられる奇怪な目玉や服装はシャーマンではないでしょう。
世界中にある信仰が縄文時代にもあったと言う事です。

世界最古の縄文土器の文化は食生活に影響を与えます。
・ドングリなど生では噛めない固い果実を湯がいてあく抜きをして食べれるようにします。
・稗や粟など穀物も食べやすい食事に加工します。(いわゆる料理の始まりです)
・果実などを沢山保管しておいてら、翌年にお酒が出来ていました。
石器時代では、肉を野外で丸ごと焼いて、一族で分けて食べていたわけですから
はるかに進化しました。

{えっ、でも平安時代の食事と比べると、かなり野性的?」
確かに
しかし、1万年前
西暦2000年の五倍も古く
江戸時代 260年 の何十倍も続いた文化です。
島国 日本であったから可能であった縄文時代の文化です。
陸続きで民族が移動する大陸では考えられない文化が日本にありました、


弥生時代(卑弥呼)の食事

2018-09-02 13:07:57 | 歴史
ネットで 卑弥呼の食事 で検索すれば色々とヒットするようですが
当時の時代からメニューを考えてみます。
食材
・肉食がありました。(鹿、猪 に加えてウサギなど小動物です。)牛、豚はありません。
・主食 お米などイネ科の栽培があり、高床式の倉庫に保存されています。
    どんぐり、しいのみ等も会ったでしょう。
・野菜 季節の野菜を毎日、採取していたでしょう。
・魚介類 海辺、川の魚がメインです。
    冷蔵がありませんので、山岳の地方では海の幸を食べる事は出来ません。
    ふな、あゆ、どじょう等の魚類に、シジミなど貝類が多かったはずです。
道具  
・鉄器の輸入で刀子(万能ナイフ)があります。
    魚や動物を割いて部位ごとに料理できます。
    木の実の最終時やクリなどの皮をむく作業にも使われたでしょう。
・弥生式土器
    従来の縄文式土器より薄く、軽いです。大量に作られています。
    炊飯や煮物のスピードも格段に速くなったはずです。    
料理法
・焼く 肉類、魚類の多くは焼き料理です。
・煮る お米を炊飯にして言います。土器に魚類がついていたりしますので、煮魚もあったようです。
    海岸の国では、タコなどゆでたでしょう。
    大きな土器では、ドングリなどあく抜き行っています。
・なま 野菜類は、サラダ感覚で食べた。

食事ですが、卑弥呼の様な高貴な人々(環濠集落の中で生活する)と
一般の人々では違ったはずです。
身分の上下がはっきりしている社会です。
卑弥呼や王家など環濠内の高貴な人だけが
お米を炊いたご飯を主食に、
副菜に煮魚、焼き魚、美味しい部位をカットした肉料理
   取れたての旬の野菜類
お酒も、お米がありますので、現在の清酒に近いものが出来ていたかもしれません。
遺跡から木のスプーンが見つかっていますので、吸い物もあったようです。
しかし、お箸の文化はまだなかったようで、手づかみで食しています。
大陸から沢山の文化が伝わりますが、食生活は日本の風土に合ったもので
変わる事は無かったようです。
※当時の中華料理の影響を受けていないです。
 中華ではサルも食べます。
 日本にもサルは住んでいましたが食べる事はしませんでした。

一方、環濠の外で暮らす一般庶民
水田で実ったお米は全て、搾取
鹿や猪など大きな動物を狩猟した際も搾取されていたでしょう。
代わりに、稗 や 粟 など、農耕具や土器、着物などが配られたでしょう。
竪穴式住居の中央で火をおこし、いくつかの土器を並べて
食材を入れてごった煮します。
出来上がると、平らで平ぺったい器に移して、大勢で手づかみで食事したのではないでしょか。

平安時代に完成する「日本食(京料理)」の準備段階レベルでしょう。


和食の始まり(平安時代、鎌倉時代)

2018-09-02 10:51:02 | 歴史
日本食の歴史の続きです。
・平安時代
奈良の飛鳥地方で大和王権が力をつける。
大陸から仏教が伝来し、多くの寺院が建築される。
一方、出雲、伊勢神宮と神社制度も確立しました。
漢字が使わるようになり
「古事記」「日本書紀」が完成します。
ひらがなも普及して、女性作家
紫式部の「源氏物語」や和歌なども沢山あり当時の生活が解かります。
遷都を繰り返して、現在の京都市に都をおいて時代
現在の京都市内の街づくり、お祭りなど多くの歴史が引き継がれています。
・鎌倉時代
武士の藤原氏が鎌倉に幕府を置く。朝廷と幕府の関係が出来る
武士の時代の始まりです。
鎌倉の町並みをみると、仏教色の強さが感じられます。

さて、平安時代の食事です。
何と、天武天皇の675年に、牛、馬、犬、猿、鶏の殺生禁止令
※仏教の教えで殺生はしない。
この肉食禁令は、江戸時代まで同様の禁止令が幾度も出ていて
明治に至るまで日本人は(公には)肉を食べる事が出来ませんでした。
現在の魚介類、野菜類を中心とした副菜が和食となりました。
主食は、米や麦、アワなどをおこわや飯、粥など現在のご飯の食べ方と同じです。
海から遠い京都、奈良です。料理方法
生物、焼物、煮物に加えて、茹物、羹、和え物、炒り物が加わります。
加工方法にも干物、塩辛、漬物、寿司など
塩や酢、醤(ひしお)、酒で味を付け
土器ですが、器やお皿があり、木の箸もあります。
包丁の始まりである刀子(とうす)もありました。
奈良時代の刀子が正倉院に展示されているようです。
料理が食材だけでなく、調理法、盛り付けなどで華やかになった時代でしょう。

鎌倉時代になると
さすがに、土器の器は重いのか、木の器になったようです。
禅宗の影響で、精進料理が伝わり、肉の代わりでしょうか
豆腐やみそが発展します。
寺院の点心からうどんや饅頭が広がったようです。
京都の料理を貴族料理と呼ぶなら、武家の料理は大衆料理に発展したようです。



日本食の歴史

2018-09-02 00:32:26 | 歴史
ネット情報をまとめた内容ですが、和食の歴史を遡って
弥生時代、縄文時代までたどり着いてみたいと思います。
誰でもが、ご存知の通り、江戸時代までは鎖国を実施していた日本です。
島国日本だから可能であった政策です。
それまでは日本も「肉食禁止令」の国でした。
現代、和食と呼ばれる、すき焼きなどは明治の料理です。
もちろん、牛肉、豚肉に加えて乳製品(牛乳、チーズ、バター)も西洋から伝わります。
お好み焼きなど、粉もの料理は戦後日本がアメリカから配給で小麦粉を支給した時代の料理です。

私たちが和食と呼ぶ料理は江戸時代の料理を指しているようです。
・味噌、醤油
・昆布、鰹節、シイタケのだし汁
・日本酒(清酒)
・包丁、器(漆器)など和食の原点は既に準備されています。
※牛肉、馬肉、豚肉はありません。
この時代の食事は
・公家の町、京都
・豊臣秀吉が築いた大阪城城下町、大阪などの関西圏と
庶民の町、江戸で違いがあったようです。
ご存知の通り、関東はだしは鰹節を使い、醤油は濃口醤油です。
室町時代に進化した武家料理で焼き魚、煮物、汁物とおかずの種類も増えます。
江戸の町年寄が「食類商売人」の数を奉行所に提出した資料によると、
煮売居酒屋(1808軒)、団子汁粉(1680軒)、餅菓子干菓子屋煎餅等(1186軒)、饂飩蕎麦切屋(718軒)、茶漬一膳飯(472軒)、貸座舗料理茶屋(466軒)、煮売肴屋(378軒)、蒲焼屋(237軒)、すしや(217軒)、煮売茶屋(188軒)、漬物屋金山寺(130軒)、蒲鉾屋(59軒)、醴(あまざけ)屋(46軒)、獣肉(9軒)

一方、大阪では、昆布や干物などの乾物は日本中から取り寄せ、日本の台所と呼ばれます。
関西でも京都などは公家、寺院が多く、精進料理、懐石料理が発展しています。
大阪湾、淀川がありますので魚介類も豊富で、山菜の種類も多いのが特徴
宇治のお茶など、和食と云えば「京料理」をイメージする方は多いはずです。

続いて、鎌倉、平安時代の料理について考えてみます。

弥生時代は、農耕から始まって鉄器で終わった。

2018-09-01 20:04:19 | 歴史
紀元前4世紀程、大陸中国では、秦の始皇帝が武力で統一(初代皇帝になる)。
しかし、始皇帝一代で秦は崩壊、魏蜀呉の三国時代、魏は大陸の東北部(黄河下流)を支配
徐福の様に大国に支配された国の人が海を渡り、或いは朝鮮半島を経由して、日本にたどり着きます。
この渡来人により弥生文化が始まり、弥生時代と呼びます。
渡来人が日本に伝えて文化
・水田(稲作は縄文時代からあったようです。)
・高床式倉庫など建築
・織物など
そして、
・身分の上下を付ける制度
です。
弥生文化は、九州北部を発信地として徐々に東に広がります。
農耕で、お米が栽培できるようになると、穀類と交換に大陸との交易が始まります。
交易の品は
・青銅器(矛、銅鐸)
・鉄製品(やはり武器が主流)
弥生時代の鉄器の分布です。

鉄製品ごとには
考古学のデータベースにありました。
はやり主流は、福岡を中心に九州北部
次に、鳥取(つまり出雲です)
近畿では、後の大和朝廷の出発地ならではなく京都です。
京都と云っても舞鶴など日本海側(兵庫、岡山も同じです。)
大陸から輸入した地域は、玄海湾から日本海の山陰地方です。
※鳥取の砂丘があるので、砂鉄を使った製鉄の可能性もあります。
卑弥呼の邪馬台国が九州北部
素戔嗚の出雲が鳥取で間違いないと思うのです。
その邪馬台国も卑弥呼が亡くなり
魏も滅んでしまい、朝鮮半島では高句麗が南下、大陸との交易が無くなります。
この時代を境に、弥生時代から古墳時代に変わります。
手に入れた鉄を
・鉄斧や刀子など生活に活かしている時代から
・剣、刀、鎧など武器に使い始めた結果、弥生時代が終わります。
祈祷師 卑弥呼の死と同じ時になります。
卑弥呼の意思をつぐ、台与の国について知りたいですね。
※これも私たちが近代に決めただけですので、呼び名にあまり意味はありません。
弥生時代は、甕棺を用いた集合墳が主流でしたが
各地方の豪族の王が競って大きな古墳を造るようになります。
西日本を発信地として関東など東へ浸透していきます。

飛鳥時代には、朝鮮半島が乱れて、渡来人が日本へ
飛鳥の大和王が彼らを受け入れ
・漢字
・仏教
・政治体制
を活用して西日本統一を始めます。