古代日本の歴史を謎解き

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卑弥呼の死の原因(おまけ)

2020-12-19 17:33:59 | 歴史
更に前の投稿の続きです。
魏志倭人伝の最後は、卑弥呼の死後を
あらためて男王をたてたが、国中は不服であった。
こもごもあい誅殺した。当時千余人を殺しあった。
倭人たちはまた卑弥呼の宗女の壱与(台与)なるもの
年十三をたてて王とした。
国中はついに定まった。
張政らは、檄をもって壱与を告諭した。

壱与(台与)は倭の大夫の率善中郎将掖邪狗ら二十人をつかわし
張政らの帰還をおくらせた。
と締めくくっています。
13歳ですので・・・
仮に卑弥呼の死後249~250年頃の出来事として
卑弥呼が「親魏倭王」の称号をもらった238年頃の生まれになります。
4~5歳くらいで身の回りの出来事がわかるようになったとして
・卑弥呼と狗奴国の卑弥弓呼との争い
・卑弥呼死後の出来事
を記憶している年齢でしょうか
最後の卑弥呼と近い年齢の宗女はいなかったのでしょうか?
何故、卑弥呼の後継者にふさわしい 巫女 の名前を引き継がなかったのか。
卑弥呼は生涯独身とされていますが、最後の卑弥呼は結婚していた?
10代で壱与(台与)を238年頃主産していた?
妊婦が政治の頂点で大仕事をするとも考えにくいので
最後の卑弥呼とは血縁関係のない別の女性の子供かもしれません。
卑弥呼に近い人物の子供であった事は間違いないでしょう。
帰国していた難升米、張政ら
卑弥呼の死後は
卑弥呼反対派と卑弥呼信仰派の争いが残っていた。
帰国していた難升米、張政らが仲裁に入り
国を二つに分けて、お互いに争わない約束をすることで
平和になった。
そのひとつが、壱与(台与)の国
もう一つは、後の時代の筑紫ではないでしょうか。
もちろん、卑弥呼の宗女は他にもいるので
幾つかの国へ嫁入りしたでしょうし
王家へ嫁入りできなくても召使として連れ添った人もいたでしょう。
但し、男性側には容赦なかったかもしれません。
魏志倭人伝に壱与(台与)のみが登場するのは
張政らが共にしたのが壱与(台与)だったので女王として大陸で紹介された。
当時の卑弥呼の宮殿となった環濠集落も無くなったはずです。
卑弥呼が持っていたはずの鏡や金印も
割られた、つぶされた、溶かされたなどして無くなってしまった。
或いは、卑弥呼の墓に一緒に埋められたかもしれません。

こうして倭国は一つにまとまることなく古墳時代を迎えます。
後の「古事記」の上巻にある日本神話では
九州は 筑紫、豊(トヨ)、日向、熊襲(狗奴国)の四つがある。
天孫降臨が高千穂、神武東征出発が日向で豊国、筑紫に寄って
瀬戸内海を経由して近畿へ
天皇家の祖先が天照大神(女性)と云う流れに伝承された。
卑弥呼の宗女の子孫が後の大和朝廷を建国したと考えています。

卑弥呼が亡くなった時代

2020-12-19 15:04:06 | 歴史
前の投稿「卑弥呼複数説」の続きです。
238年 卑弥呼は魏国へ貢物を贈り
大陸から「親魏倭王」と倭国王の称号を受けます。
魏国からの称号に不満を持つ人も多かったでしょう。
その一人が狗奴国の卑弥弓呼かもしれません。
狗奴国との対立が激しくなっています。
卑弥呼の味方であった魏国へ応援を求める形で
247年には、更に貢物を贈って応援を依頼しています。
狗奴国との対立も激化していて
卑弥呼側も苦戦した様子が伺えます。
卑弥呼は自分が亡くなるなどは考えていません。
徹底抗戦の構えです。
しかし、難升米が戻ってくると「卑弥呼以て死す」
卑弥呼は既に亡くなっていて、大きな墓が作られ
既に埋葬が終わっています。
卑弥呼が亡くなった後に、直径100歩もある大きな墓を作り
難升米の帰国に間に合わせることが出来るでしょうか。
「歴代卑弥呼らの墓があり、そこへ埋葬され葬儀を行った」と考えます。
徇葬者のは百余人は
・卑弥呼の為に生き埋めにされた100人なのか
・倭国が作り上げた作り話なのか
・或いは卑弥呼のそばで働いていた人々も無くなり一緒に埋葬されたのか
卑弥呼が年齢による自然死ではない事は間違いないでしょう。
「卑弥呼(巫女)複数説」で考えると次代の卑弥呼を指定したはずです。
卑弥呼(巫女)による政治を止めた事は間違いないです。
あらためて男王をたてたが、国中は不服であった。こもごもあい誅殺した。
とありますので
卑弥呼反対派の男王もいたはずです。
男王の名前が記載されていませんので
狗奴国の卑弥弓呼ではないはずです。
卑弥呼が狗奴国の兵士に殺害されて、倭国の権力をてにしたのが
狗奴国の卑弥弓呼ではない様です。

邪馬台国連合側の国王でしょう。
卑弥呼の死は
・邪馬台国連合の不和による処罰説
倭国連合崩壊、内部分裂が有力だと考えています。

帰国した難升米らに味方する人も少なかったでしょう。
難升米の名前も登場しなくなります。
卑弥呼の祈祷と大陸からの「親魏倭王」の称号が全く無力になったはずです。
金印や鏡も処分された(燃やされた、溶かされた。)或いは
卑弥呼の墓に埋葬された。
いずれかでしょう。
190年頃から60年ほど続いた卑弥呼(巫女)の祈祷と大陸崇拝の歴史が
幕を閉じだというのが「卑弥呼の死」です。
ちょうど同じ時代に弥生時代の文化
・環濠集落
・銅鐸、銅矛信仰
が無くなり
各地の豪族による古墳時代の幕開けとなります。

卑弥呼の年齢

2020-12-19 14:06:27 | 歴史
前投稿の「卑弥呼の死の原因?」から続きです。
卑弥呼の年齢は?
魏志倭人伝では
もとまた男子をもって王としていた。
7~80年まえ倭国は乱れ、あい攻伐して年を歴る。
すなわち、ともに一女子をたてて王となす。
名づけて卑弥呼という。

女王になった年代は定かでありません。
魏の時代ではなく、漢の時代だからです。
その為。魏志倭人伝の多くは「後漢書」を参考にしています。
「後漢書」の記載と当時の漢王の年代と比較して
卑弥呼が女王になったのは、190年頃と推察されています。
そして
・鬼道につかえ、よく衆をまどわす。
・年はすでに長大であるが、夫壻はない。
・男弟があって、たすけて国を治めている。
男弟がいて既に高齢であったようです。
当時の寿命は40歳程度で、10代で結婚していたでしょうから
卑弥呼が20代で老けて見えた。
或いは、既に40歳ほどであった。
でしょう。

239年(或いは239年)
倭の女王は、大夫の 難升米(なしめ)等をつかわした。
その年の十二月、詔書して、倭の女王に報えていう。
「親魏倭王卑弥呼に制詔(みことのり)する。
魏国の資料が元になっているので間違いは無いと思います。
卑弥呼が女王になって、既に40年後
卑弥呼の年齢は60~80歳
245年
倭の難升米に黄幢をたまわり、帯方郡にことづけして仮授せしめた。
247年
張政らが倭国に向かい出発
到着すると「卑弥呼以死」
更に、10年ほど経過して卑弥呼の死が確認された。
このままの計算では
卑弥呼が亡くなった時の年齢は 70~90歳??
当時の寿命を考えると、とても不思議です。
また、卑弥呼の政治を助けていた男弟の存在が無くなり
難升米らなど倭国の役人と思われる人が登場します。
考えられる事は
卑弥呼は一人ではない(卑弥呼複数説)です。
卑弥呼は一人の女性の名前ではなく
現在では云えば、巫女の様な祈祷の役職を務めていた役職名です。
初代卑弥呼は、祈祷(占い)によって国同士争いをなくした。
238年の魏国への朝貢を行い、「親魏倭王」の金印を贈られる時代には
数代目の卑弥呼になっていて、卑弥呼を助ける役人も多数いた。
卑弥呼の権力が頂点に達していた時代ではないでしょうか。
この事が南側にある狗奴国との対立を深めた原因かもしれません。
魏国から100枚の鏡を贈られていますの祈祷の方法も変わったかもしれません。
最後の卑弥呼の時代に、祈祷(占い)による政治判断に終止符が打たれて
女王「卑弥呼(巫女)」信仰による国づくりを止めた。
そのため、複数の男王が立ち国が乱れたのでしょう。

卑弥呼の死の原因は?

2020-12-19 12:51:37 | 歴史
卑弥呼については大陸の歴史書魏志倭人伝」に頼るしかありません。
卑弥呼の死について

247年 帯方郡の太守王が魏国の 庁に到着した。
倭の女王、卑弥呼と狗奴国の男王卑弥弓呼とは、まえまえから不和であった。
倭国では、載斯・烏越などを帯方郡にいたり、たがいに攻撃する状況を説明した。
郡は塞の曹掾史の張政らをつかわした。
使者たちは詔書・黄憧をもたらし、難升米に拝仮し、檄(ふれぶみ)をつくって、
攻めあうことのないよう告諭した。

しかし、使者張政らが到着すると
「卑彌呼以死」
卑弥呼はすでに死んだ。
大いに冢つかをつくった。径は百余歩・徇葬者のは百余人であった。
卑彌呼以死 の解釈は色々とある様ですが
死に至った原因は記載されていません。
張政らが卑弥呼の死に間に合わなかったことは事実の様ですが
葬儀の様子まで詳しく紹介されているのに
卑弥呼がどうやって亡くなったのか記載されていないのが不思議です。

その為
・年齢による自然死説
・邪馬台国連合の不和による処罰説
・狗奴国部隊による殺害説
などがあります。

「魏志倭人伝」を読んでも幾つかの疑問もあります。
大陸が嘘を記載する必要もありませんので
・倭国の情報が間違っていた。
・倭国が嘘を伝えていた。
・情報が間違って伝わった。
と考えるべきでしょう。
「魏志倭人伝」の疑問を考えながら
卑弥呼の死の原因を考えてみます。

邪馬台国 近畿説と九州説

2020-12-06 15:15:02 | 歴史
邪馬台国 近畿説
弥生時代に近畿は ヤマト国と呼ばれる連合国であった。
魏志倭人伝の倭国は 九州北部から近畿までの西日本の地域
ヤマト国は漢字で邪馬台国と記載された。
日本神話の神武東征は弥生時代初期、中期の実話
弥生時代後期には山陽の国々(安芸、吉備)と
ヤマト国は連合していた。
倭国大乱は九州北部の国々の対立で
ヤマト国の卑弥呼を女王とする事で
九州北部から山陽~近畿までの連合国が出来上がった。
次の女王 大陸の使者 張政らが台与に進めた国づくりは
大陸の皇帝の様に 男王と頂点とする国づくりに変わった。
古墳時代に出雲とも連合し、大和朝廷と発展した。

邪馬台国 九州説
いやいや、魏志倭人伝では
邪馬台国まで 1万2千里、九州の伊都国、奴国まで既に1万里以上
残り1千里では近畿までは考えられない。
方向も伊都国、奴国の南でその南に狗奴国
魏志倭人伝で南を東と間違っていたと考えると
狗奴国は奈良の東、三重(伊勢)と言う事になる。

魏志倭人伝の倭国は九州北部から中部まで
倭国大乱で代表となった卑弥呼は
有明海側にあった邪馬台国の祈祷師
卑弥呼の死後、玄界灘側、有明海側は筑紫の国に発展
張政らは台与を連れて大分(豊国)の王と結婚させた
後に、宮崎(日向)とも連合体となった。
古墳時代に台与の子孫が神武東征を行った。
大分(宇佐)、山陽(安芸、吉備)と連合しながら
近畿の国々と対立するも、比較的発展していなかった
奈良の山奥(宇陀)で国づくりに初めた。
ここまでが、神武東征の神話であり、実際の歴史である。
国名をヤマト(邪馬台)と呼び、漢字では倭を使った。
古墳時代末期には、山陽の安芸、吉備とも連合し
最後は出雲も連合に加わり、九州の筑紫との二大連合となった。
出雲の国譲りも実話が元になっている。
400年代中ごろに朝鮮半島支配に兵を送り込んだ「倭の五王」
こちらも、筑紫或いは出雲の王ではないか。
527年の筑紫磐井 VS 継体天皇の筑紫磐井の乱
「古事記」「日本書紀」の記載と年代が一致するのは
継体天皇以降です。
初代神武天皇即位を紀元前600年に設定したために
結構、大勢の架空の天皇を追加しています。
神功皇后や日本武尊など神がかり的な能力を発揮する天皇もいます。
初代 神武天皇~9代開化天皇
10代崇神天皇~日本武尊~14代仲哀天皇(后 神功皇后)
15代応神天皇~25代武烈天皇
継体天皇の血統が本家で
本来であれば分家の話
この神という漢字を付けた天皇で三つのストーリーに
分けられる。
台与の子孫が張政らの考えた国造りの考えを引き継ぎ
古墳時代(多分4世紀ごろ)九州を離れて
新しく近畿でヤマト国を作り始め
後の大和朝廷へ発展
と考える。

魏志倭人伝の邪馬台国が大和朝廷へ発展した
というか仮定にしています。
もちろん
邪馬台国と大和朝廷は全く関係ないと云う考え方もあります。
しかし、九州の地名と近畿の地名が似ている事実があります。
大分の宇佐 があり、近畿の最初の国が宇陀
たまたまでしょうか。
魏志倭人伝の邪馬台国だけでなく
卑弥呼の時代(3世紀中ごろ)から継体天皇(6世紀初め)までの
250年位の歴史も一緒に考えてみて如何でしょうか。